キ/GM/41-50/49[2]
≪17/17≫
* * *
「───三佳?」
「…っ」
名前を呼ばれて、三佳は息を詰まらせた。心臓が飛び出そうなくらい驚き、目を瞠る。
だって、ここは硬い床の上。大勢が行き交う足音と声、うるさいほどの雑音が占める空間。
その中で、三佳はまだ一言も喋っていなかったのに。声を掛けるための息さえ吸っていなかったのに。2人の間には2メートルの距離があったのに。
それなのに司は振り返り、ちゃんと、三佳の目の高さを捉え、どこか安心したようにふわりと笑う。
「三佳」
疑問や呟きじゃない。意図をもって呼ばれた名前。
「…どうしてわかった?」
返した声は小さく震えてしまったけど、驚きを多く含む声になった。司は苦笑する。これだけ長く一緒にいたのに、まだそれを訊くのか? とでも言うように。
「わかるよ。一番良く知ってる気配だ」
「───」
2人の周囲を大勢の他人が通り過ぎていく。見慣れない場所で、よく知っている
三佳が司を見つけることができたのは数分前。そのさらに15分前に櫻と別行動をとって、三佳コンコースの中を捜し回っていた。息が上がっていた。
「……」
呼吸だけを繰り返して、声が出てこない。せっかくここまで来たのに。
ただ、会えて良かったと思う。
昨夜はドア越しの会話。その前は屋上の暗がりで。
こんな風に正面から顔を合わせたのは、月曜館で、今日の別れを知らされた日以来だ。
今日からずっと会えなくなる。───今日、会えて良かった。
ここでなにを伝えられるのか、この先どうなるかも分からない。
それでも、今日、こうして会えて良かった。
三佳は喋る言葉に迷っている。そのあいだ司はやわらかい笑みを浮かべて、なにも言わずに待っていてくれた。
「あの…っ、ごめん。逃げてて」
「うん。どうしようかと思った」
おだやかな声が返る。
「司と会えなくなること、納得するのが難しかったからずっと逃げてたけど」
「うん」
「……行かないで欲しいわけじゃないんだ」
「うん」
「ただ、離れるのが嫌だった」
「うん」
「変なこと言ってるけど、ほんとに、引き止めたいわけじゃない、…でも司がいないなんて、やっぱり想像できないから」
「うん」
司の笑顔は揺るがない。むしろ嬉しそう。そのことがくやしい。
「……」
煩わしく思ってない? 重荷に感じてない? まだ言ってもいい?
「ありがとう」
「ん?」
「私も、司に助けられてた。外のことをなにも知らなかった私にたくさん教えてくれて、話を聞いてくれて、…ありがとう。一緒にいられて、楽しかった」
「僕も、同じだよ」
「…っ」
司につられて三佳も笑う。けど、涙がこぼれてしまった。
泣くことでなにかが改善するわけじゃない。うまく喋れなくなる。デメリットのほうが圧倒的に多いはずなのに、どうして意志に反して、涙が出るのだろう。
「……離れてしまうこと、淋しい?」
「淋しいよ。三佳は違う?」
「私は…、本当はそう思うのが普通なんだろうけど、私は、怖い。司がいない生活に慣れてしまうこと、今まで過ごした時間を忘れてしまうこと、司のことを忘れちゃうことも」
かつて父親のことを意識さえしなかったように。父親の言葉を忘れて、無責任に仕事を楽しんでいたように。
残酷な時間の流れに今までの大切な時間が埋もれてしまうのが怖い。
「もし次に会えたとき、司が“ありがとう”って言ってくれた自分じゃなくなっていることも怖い。───ごめん、これは私の問題で、司に言ってもしょうがないのに」
三佳が俯いてしまうと、司はゆっくりと歩み寄り、三佳の前に腰を下ろした。
すぐそばにある顔が笑った。
「成長するのが怖いなんて、三佳の泣き言とは思えないな」
「…?」
「別に僕のこと忘れてもいいよ。三佳が変わったっていいじゃない。そんなことで嫌いになったりしない。この世界のどこかで、三佳が三佳らしくいてくれる限りはね」
「……それだけ?」
「それだけ」
司は大きく頷いた。
「そうだ。僕にも、三佳と同じように怖いことがあるよ」
「なに?」
「僕が怖いのは、自分が挫(くじ)けてしまうこと」
「…?」
「これから、検査続きの毎日が嫌になるかもしれない。リハビリが辛くて投げ出すかもしれない。たとえ見えるようになったって、聴覚や嗅覚が衰えていくことに絶望するかも、そこから立ち直れないかもしれない。自分のためだけにそれらに立ち向かうのは難しいから」
「僕にはここで待つ家族もいない。アパートも引き払ったし、帰る場所は無いと思ってる。身軽だし、気楽でいいけど、錨が無いぶん不安定でもある。長く住んでいたここを離れてやっていける自信なんて、本当は全然無いんだ。───でも、ここで、三佳っていう家族ががんばってるんだって思うと、僕もがんばれるよ」
「私が、私らしくいれば?」
「そう」
「私が、…司の家族?」
「僕が勝手にそう思ってるってこと。三佳のお父さんの代わりにはなれないけどね」
今まで、司と三佳の関係をいろいろな形で表されてきた。
仲間、友達、親友、相棒。「彼氏」「彼女」と呼ぶ人もいたけど2人はとくにそれを訂正しなかった。ずっと前に「いいじゃない、端からそう見えるなら言わせておけば。僕は悪い気はしないよ」と言った司は単に周囲をからかいたかったようだけど。
(家族?)
ずっと一緒にいるわけじゃない。約束があるわけじゃない。離れてしまうこともある。でも帰れる場所。拠り所。
親子や兄妹ではなく、家族。
意外にもすんなりと三佳はそれに納得にしてしまった。
ずっとそばにいた家族、司がいなくなる。今までのように一緒にいられない。
それなら、自分はここでなにをする? 無為に時間を過ごすのか?
なにをすべき?
「私、学校行く」
「え?」
「今、決めた。ここで、ちゃんと、私がやるべきことをして、自分のことを考える。学校に行ったって、すぐにはうまくやれないだろうけど、他の人が普通にやってること、このままじゃできないから」
一気に言ってしまった後に不安がやってきた。司がいないことに加えてハードルがぐっと高くなった。
でも、こうやって覚悟を決められるのは今しかない。
「じゃあ、次に会えたら、三佳は中学生か高校生かもしれないんだ」
「そう。中も外も成長するから、会っても気付かないかもな」
三佳は茶化して言ったつもりなのに、
「わかるよ」
司は腹が立つほどの自信をもって答える。
「絶対、わかる」
(今の気持ちを忘れずに帰れたらいいのに)
司は念じるように叫んだ。
また、ここに戻りたいと思う。でも未来がどうなるか分からない。状況が変わるかもしれない。自分の心が変わるかもしれない。
結局は、忘れるのが怖いと言った三佳と同じだ。
「…もし見えるようになったら」
「え?」
「光を見るようになった僕は絶対変化がある。変わらないわけない。…それでも、また一緒にいてくれる?」
自分でも信じられないほど弱気な言葉が出た。しかも傲慢な問いかけ。「見えるようになったら」という仮定も嫌だ。嫌悪する。後悔しても声になってしまったら戻しようがない。三佳を縛る約束はしたくないのに。
「ごめん、今のは」
と言い繕うとしたとき、三佳は芝居がかった調子で、
「変わった後の司も同じことを言ってくれるとは限らないな」
と、わざと突き放すように言った。
一本取られたようだ。司は笑うことができた。
「そうだった。───じゃあ、ひとつだけ」
「なに?」
「また会おう。未来がどうなっていても、それだけは約束する」
簡単だけど、一番大事なこと。
「帰ったらすぐに三佳のところへ行く。次はどう付き合っていけるか、そのとき話し合おう」
その先、一緒にいられるかはわからない。全然違う2人になってるかもしれない。この約束さえ、どうでもよくなってしまうかも。
でも、また会う未来までの自分を支えるものだ。
「うん、わかった!」
三佳は大きく頷いた。
「じゃあ、約束」
そう言って、司は三佳に手を差し伸べた。
一瞬迷ってしまったけど、三佳は、今度は素直に司の手を取った。
体温が伝わる。大きさの違う手。
今、確かに触れている手を握り合う。
見えないとわかっていても、三佳は笑顔を向けた。
それに応えるように司も笑う。
「また会おう」
おわり
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