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 かすれた記憶の端。

 街の喧噪の中。
 にぎやかな声があふれる公園。

 足を止め、空を仰ぐ子供たち。
 天を指し、大きな青に描かれる白い線にはしゃいでいる。

 その中に僕らはいた。

 まだ幼く無邪気だった僕は、他の子と同じように手を伸ばす。
 高く広く大きな、自由で、悩みを吹き飛ばす爽やかな風が生まれている、空へ。

 じゃあ、あいつは?
 同じように、手を伸ばしていただろうか。




「紫苑(しおん)さん」
 上を見ていたら背後から声が掛かった。
 阿達史緒。今日、男がわざわざここまで足を運んだ理由だ。
 男──紫苑は、桐生院由眞(とその秘書)も含め誰にでもそうするように大きく笑い、馴れ馴れしく声を返した。
「もーちょっと引っ張りたかったんだけどなぁ。由眞さんからの電話は運が悪かったっ」
 本名はとうにバレてた。まぁ、偽名を名乗ったのはささやかな遊びだ。
「それと、名前が似てるって言ったでしょう?」
「阿達とアザワは似てるじゃん」
「似てると口にしたのは、名前の読み間違いを指摘した後ですよ」
「うわっ、俺の失態? かっこわりぃ〜」
 うちひしぐ紫苑の仕草に、女は声を立てて笑う。紫苑はそれを横目で見ていた。
(これは、無駄足だったかな)
 想像していたよりずっと、女は裏表ない表情で、普通に、明るく笑う。
「ねぇ。髪、切っちゃったの? きれいな長い黒髪って聞いてたのに」
 そう言うと、予想どおり、女の表情はかすかに翳った。
「──…藤子から?」
「そう。手紙で」
 これは特に隠すつもりはない。
「『あだしの友達!!』とか散々のろけてた。おい、そこは男のことでも書けよ、なに自慢してんだよ、って思った」
「仲良かったんですね」
「どうだろ。小さい頃はいつも一緒にいたらしいけど」
 へぇ、と女は驚きながらも、「“らしい”?」と、首を傾げる。紫苑は大袈裟に肩をすくめて見せた。
「子供の頃だもん、もう憶えてないよ」
「あら、でも藤子は、紫苑さんとは“一度会った”だけと言ってましたけど」
「そうそう。大きくなってからも一度会ったんだ。それが最後。───ていうか! やだなー、俺のことも相当バレてるねぇ、藤子のヤツ、俺のことなんて言ってた?」
「いえ、そんな、聞いてたって程では…。“桐生院さんには、紫苑くんっていう孫がいる”と」
「“紫苑くん”、ね」
「え?」
「いぃや。──他にはっ? 変なこと言ってなきゃいいけどなぁ、もぅ」
「それだけですよ。本当に」
 それだけ。
(なんだ。結局はその程度か)
「紫苑さん、苗字は…、桐生院さんでいいのかしら」
 はい、決定。期待した人物ではなかったようで、紫苑は投げやりな気持ちになって、もう帰りたくなった。
「今、個人でそう名乗ってるのは由眞さんだけだよ」
「じゃあ、あなたはなんて?」
「ん? 普通に本名だよ? あたりまえだけど」
 はぐらかしたことには気付いただろう。けど紫苑の笑顔に押し切られたようで、それ以上、女からの追求は無かった。
「紫苑さん、藤子とは手紙で?」
「うん。そんな頻繁にやりとりしてたわけじゃないけど」
 一通だけだし。
「そう…ですか。少し意外です」
「ん? なにが?」
「だって、似てるから。紫苑さん、藤子と」
 紫苑は足を止めた。

 瞠り、表情を作ることも忘れた。
「はぁ?」
 素で訊き返してしまった。女が言ったことか理解できなかった。
 似てる? なにが?
 男と女でずばり指摘されるほど容姿が似ているとは思えない。前の会話の流れからもそれはあり得ない。
 じゃあ、気性? 印象? 性格? 表情? ──もっとあり得ない。
(あの手負いの獣と俺が似てるだって!?)
「…なにそれ、どういうジョーク?」
 本性が染み出てしまったのか、女は少し怯えたような目をする。
「え、いえ、そんなつもりは」
「う〜ん、そうだっ。写真とかない? 声とか、なにかに残ってるなら聞きたいな。ほら、俺、ずっと会ってなかったからさ」
「…無いですね。藤子は、写真とか、自分の痕跡を残さないよう、酷く気を遣っていたから」
「それって、職業柄?」
「────」
 目が合う。お互い、そのことを知っていることを確認する。
 ついさっき思いついた可能性、もしかしたら激しい勘違いをしていてお互いが別人について語っているのかもしれないというのはこれで消えた。
「え〜っ、プリクラも無いの? 友達だったんでしょ?」
「ありません。……藤子は」
「ストップ」
 紫苑は会話を中断させる。女を振り返り、笑う。
「もういいや。君の目を通したあいつを知りたいわけじゃない」
 紫苑にとって、阿達史緒は期待外れだった。
 なにを期待していたのか。それは紫苑本人もよく解っていない。でも、彼女は藤子の過去をまったく知らないし、紫苑が知らない藤子の本心を知ってるとも思えない。友達ゴッコの相手から聞き出したいことなんて無い。
 手紙でのろけてたというのは嘘。藤子の“遺書”にそんなことは書かれていなかった。
「やっぱり今日は帰るよ。由眞さんも待ってるみたいだし」
「あの、紫苑さん」
「僕は由眞さんのトコにいるから、また会えるよね。そのとき、改めてデートに誘うよ」
 もう用は無い。もちろん、また会う気などさらさら無かった。

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