キ/GM/お題068 前3/5次
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最後に会った日。
2人だけの部屋、その部屋の端と端で。
一言も喋らなかった、あの距離。
毛布を被って、窓際の床に座って、妹は空を見てた。
人が近づくと牙を剥くのに、一転穏やかな表情で窓の外を見上げる。
幼い頃と同じ。
手を伸ばそうとしない。
その目は解っている。
どれだけ手を伸ばしても、その手に届かないことを。
それなのに。
その妹が、抱きしめたもの。
紫苑は、今日、留学先から戻ったばかりだった。
空港から史緒の事務所へ直行した。
でもすぐに用は済ませ、由眞に会いに行き、帰国の挨拶をして、食事に連れ出した。といっても、支払いは由眞だ。紫苑のサイフではとても払えないかつて贔屓にしていた店、そこに勝手に個室で予約を入れて、さらに由眞の運転手に送ってもらった。
久しぶりの祖母とのデートに紫苑は上機嫌だった。小綺麗な個室での食事も一段落して、コーヒーを飲む。
「由眞さんさぁ、まだ仕事してるの?」
向かいに座る祖母は小さく首を傾げる。
「どういう意味?」
「いーかげん、のんびりしたらいいのに。由眞さん一人くらい、俺が面倒見るよ」
「立派な言葉をありがとう。でも、そういうことは、せめて就職してから言ってもらいたいわね」
「ははは」
「まぁ、あなたなら心配無いだろうけど」
「うん、期待してて」
「のんびり報告を待ってるわ」
「あ。俺が由眞さんを養えるようになったら、六紗(りさ)はクビだから。よろしく」
「いいわよ」
「え、ほんとに?」
「私を養う、なんて言葉は、もちろん、私より収入が多くなってからのことよね?」
「て、えぇっ!? ちょっと、ムリムリ! それひでぇ」
六紗というのは由眞の秘書の名前だ。紫苑とはそりが合わない。
「六紗、怒ってたわよ」
「どして?」
「空港から電話して、私に頼まれたって嘘吐いて、史緒の住所を聞き出したらしいじゃない」
「あれは騙されるほうが悪い」
次の言葉を発するのに、由眞は表情を硬くする。
「──…史緒のこと、誰から聞いたの? 私は口にしたことないわよね」
「うん、由眞さんからじゃないね」
「紫苑…、あなた、藤子と連絡取ってたの?」
「さぁ。──心配しないでよ。史緒とはもう会わない。その必要も無いし」
「必要?」
「史緒って、藤子と仲が良かったんだろ?」
「……」
「でも、なにも知らない。藤子のことをなにも、由眞さんとの関係だって知らなかったよ? 仲が良かったなんて信じられなかったけど、やっぱりその程度。あれなら、わざわざ会いに行くことも無かったな」
かつん。由眞のカップが置かれる音が響いた。
「どうかしら」
「由眞さん?」
「私やあなたより、案外、史緒のほうが知ってるんじゃないかしら。本当の、藤子(あのこ)の素顔 ──」
「まさか…」
そのとき由眞の携帯電話が鳴って、紫苑の言葉は途切れた。
「はい──、あら、どうしたの。…えぇ、いるわ。待って」
由眞は自分の携帯電話を紫苑に差し出した。
「なに?」
「あなたによ。史緒から」
「史緒? なんで?」
怪訝な声を上げながらも、紫苑は電話を受け取る。
でもすぐには喋らず、気持ちを切り替えるために、大きく息を吸った。
「はいはい、紫苑でーすっ」
目の前で由眞が重い溜め息を吐いた。
「やぁ! 史緒! どうしたの? 俺からの連絡を待ちきれないほど、早く俺とデートしたかったのかな? でもごめん、今は最愛の由眞さんと食事中だから、ほんと申し訳ないけど、またあとで連絡を入れるよっ」
ジャマするな、という意味だ。
直球な言い回しだったこともあって、電話の向こうの史緒は正確に意味を受け取ったらしい。
「す、すみません。あの、じゃあ、すぐ済むので」
「うんっ、なにかな?」
「藤子の写真に心当たりがあります。もし宜しかったら後日…」
紫苑は勢いよく椅子から立ち上がった。
「今いこう!」
「え」
「すぐ行きたい。どこにいる? どこへ行けばいい?」
「今…って、──え? いま? これから?」
「そう」
喋りながら急に帰り支度を始めた紫苑に由眞は目を丸くしている。
「え…、ええと、じゃあ──」
「わかった。一時間くらいで行ける。じゃあ、また」
電話を切って、紫苑はディスプレイに表示されていたナンバーを頭に叩き込む。帰国したばかりで電話を持っていない。史緒と合流する為に連絡を取るにしても公衆電話からだ。
「ちょっと、紫苑、何事?」
「ごめん、由眞さんっ。先に帰ってて。途中、変な男に引っかかっちゃだめだよ!」
普段なら、由眞に対してこんな失礼なことはしない。
けれど今、紫苑は由眞を置いて、レストランを飛び出した。
1時間後。
待ち合わせ場所が明確だったこともあり、紫苑は公衆電話に頼ることなく史緒と合流することができた。
まさかまた会うとは思っていなかったその姿を見つけたとき、史緒は昼間に会ったときとは違い、深く考え込んでいるような、曇った表情をしていた。
「史緒? どうかした?」
簡単な挨拶の後、お愛想で訊いてみると、
「思い出したことがあるんです」
と、史緒は言う。
紫苑としては早く写真を見たいのだが、気持ちを抑えて、史緒を促した。
「なにを?」
「藤子。…兄がいるって」
「うん、いるよ」
「あなたのこと?」
「うん。あたり」
「じゃあ…っ、祖母もいるっていうのは」
「そう。由眞さんのこと」
「…っ」
史緒は顔を強ばらせて、なにやら考え込んだ。それならあの話は、と小さく聞こえてきた。あの話?
「…もうひとつ、聞いたことがあって」
「うん?」
「桐生院さんには、早くに家を出た息子さんがいた、…と」
今度は紫苑が笑みを消す番だった。
「息子さんには子供が2人いて、そのうち一人は桐生院さんに引き取られた──それが、…紫苑さん?」
「うん、そう」
今までと同じ返事、でも感情の無い声で、紫苑は返す。
「もう一人の子は、犯罪に巻き込まれた父親と……」
「うん、海外へ高飛びしました。それが藤子」
「……」
「けっこう酷い生活だったみたいだよ。あいつの職業をみれば解るだろうけど」
「紫苑さんの苗字は、國枝?」
「うん。由眞さんの本名でもある」
「あぁ──」
「由眞さんの子供や孫のこと、藤子は自分のこととして話さなかったんだね」
「…はい」
「ショック?」
「…はい」
「本当の自分のことを隠していたから?」
「いえ、…そうじゃなくて」
「なに?」
少し言葉に悩んだあと、史緒は苦そうに笑った。
「藤子がなにを考えているかなんて、いつだって解りませんでした。隠してたこともあるだろうし、もしかしたら嘘を吐いていたこともあるかも…でもそれは、私にとってはどうでもいいことです。あの子はいつも笑ってて、嬉しい言葉も厳しい言葉もくれた、それだけで充分でした。ただ、こうやって後になってから聞くのは少しショックで…」
「──ちょっと待って」
強い言葉で中断させる。
どうも、昼間から大きな違和感がある。
「いつも笑ってたって、──藤子が?」
史緒は、奇妙なことを訊ねられた、という顔でぎこちなく頷く。
「え? …えぇ」
「写真、どこにあるの」
「え、っと…、ここからすぐ近くのバーに…」
言い終わる前に、紫苑は史緒の腕を掴んで歩き始めた。
「きゃ…」
「早く行こう」
「ま、待って!」
史緒が渋るので、紫苑は足を止めた。手は離さなかったが。
「どうしたの?」
「…すみません、個人的にすごく顔を出しにくい事情がありまして、心構えが…」
「あ、そう」
「ちょ…っ、紫苑さん!」
紫苑は歩きを再開させて、容赦なく史緒を引っ張っていった。
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