/薬姫/弐
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「西山(にしやま)ー、いるかー?」
 医務室は20畳ほどの広さで薬品棚、書類棚、簡易ベッドなど一通りの設備が揃っている。広くはないが支障はない。この部屋が医務室という名のとおりの機能で使われることは希で、ほとんどの時間はたった一人が事務作業をするのに使われているだけだからだ。
「おう、怪我でもしたか?」
 衝立の向こう側から、所内唯一の医務員である西山が顔を出す。
 医務室は直接の業務とは無関係で13の班からも切り離されている。班に属してないという意味で、西山は所内で矢矧の次に異色な人物だった。
「いや、ヒマ潰し」
 そう答えると薫は遠慮なく部屋に入り、鷹揚に構えて椅子を陣取った。その様子に西山は憎々しげに笑う。
「まったく、おまえといい恵といい…ここは喫茶店じゃねーぞ」
「恵?」
「ああ。よく入り浸ってたよ」
「あいつのことだ、サボってたんだろ?」
「そう、いまの薫と同じくね」
 冷やかして返すと薫は一瞬むすっとして、次に苦笑した。サボりだということは自覚していた。
 茶を淹れる準備をする西山の背中に薫は疑問を投げた。
「西山は私のおとうさんのこと覚えてる?」
「…芳(よし)野(の)博士?」
 薫の父親はすでに他界している。
 いまの地下研究施設に来る前、薫の父・芳野と矢矧は同じ研究室で働いていた。そこでは西山も所属しており、職場には薫と恵も入り浸っていた。芳野の死後、矢矧はそれら数名を連れてこの施設に下ったのだ。
「どうしたの、突然」
「別におかしくないだろ、私の父親なんだから」
「それは、そうだけど。薫は? 芳野博士のこと、なにか覚えてるの?」
 芳野が没したとき、薫は4歳だった。
「ほとんど覚えてないんだ」
 西山はう〜んと考え込んだ。
「俺にとっては神様みたいなひとかな。ま、言い過ぎだけど。でも今も尊敬してる。知識や実績はもちろん、仕事の向き合い方とか」
 声に熱がこもる。
「俺ら下っ端にも気安くて。矢矧さんからも一目置かれていたし。そうそう、当時、あの気難しい矢矧さんと対等に話せたのはあの人だけだった」
「別に気難しくないだろ。矢矧は」
「それは君も目をかけられてるからだって」西山は呆れたように言う。「薫、わかってるか? この施設内で矢矧さんとタメ口利いてるのって、君だけだよ?」
「そうか?」
 まだ納得しきれてないように薫は首を傾げる。
「おとうさんって、矢矧と仲良かった?」
「あぁ、うん。パートナーって雰囲気で───……、って、“おとうさん”!?」
「…なに?」
 西山の大袈裟な復唱から含むものを読みとって薫は不満げに見上げた。
「薫は“おとうさん”なんて、呼んでなかったじゃないか」
「え? なんて呼んでた?」
「“よしの”って」
(よしの…?)
「矢矧さんがそう呼んでたから耳で覚えちゃったんだろうな」
 と西山はおかしそうに笑った。
「…よしの」
 音にして呟くと、くすぐったかった。
「ほんとに覚えてないんだな」
「だから、そう言ってるだろ」
「そういや写真があったよ」
「写真?」
「地下(ここ)に移転する直前だな。芳野博士と矢矧さんと、それに恵と薫が写ってたはずだ」
「おとうさん、と、私?」
「うん、確かそう」
「───見たい」
 突然、薫は声を強くした。西山は少し驚く。
「…悪ぃ、もう無い。その写真、恵に譲った」
「恵?」
「そう、奪われたっていうほうが正しいな。恵の部屋には残ってなかったから、持って行ったんだと思う」
「…ふぅん」
 そのとき、ノックが鳴った。
 サボり中の薫は椅子から飛び上がって簡易ベッドの下に隠れた。
「私はいないって言え」
 はいはい、と西山は息を吐きドアへ向かった。
 訪れたのは9班の丸山という男だった。
「こんにちは。薫、来てます?」
「いいや」
 西山は肩をすくめて答える。丸山は口元だけで笑った。
「そうですか、じゃあ、これから定例なんで、もし見かけたら会議室に来るよう伝えてください」
 西山も笑って応えた。
「たしかに、承るよ。…ところでなんで丸山が呼びに来るんだ?」
「そりゃ、13人の班長のなかで、俺が一番末席ですからね」
 じゃあ、と丸山は手を振って去っていった。軽い音を立ててドアが閉まった。
 それと同時に隠れていた薫が顔を出す。
「もしかして、バレてた?」
「もしかしなくても」
 西山は苦笑して振り返る。薫は白衣の裾を払って立ち上がった。
 9班の班長は丸山という20代後半の無口な男だ。薫は業務連絡くらいでしか話をしたことは無い。
「西山って、丸山と親しいのか?」
「べつに、普通だと思うけど」
「丸山って無愛想な印象あるけど、ずいぶん気安そうだったから」
「それを言うなら、ここの誰もが俺には気安いと思うよ。何せ、仕事上のつながりはない顔見知りだから、気を遣う必要が無い。君だってそうだろう」
「確かに」
「で、君は定例に出るのか?」
「今日はとくに面白い話もなかったはずだ。───サボる」
 薫は書棚から適当な本を取って椅子に戻った。



 もう一人の姫は柳井恵(やないめぐみ)。
 恵は一年前に失踪した───付いていた監視2人を殺して。
 殺した、と言われている。実際、ふたつの死体を薫も目にした。けれど、恵が殺したというのは未だに半信半疑だ。恵は当時18歳で、いつも熊のぬいぐるみを抱いて、無邪気に笑う。リスカ症候群という問題点もあったが本人はそれを問題とはしておらず、改めようなどとも思っていなかった。少し精神を病んでいるように見えた。雲の上を歩いているような少女だった。
(あの恵がヒトを殺すなんて…)
 恵は名目上、9班班長だった。失踪後、その空席には副班長だった丸山が就く。所内は半月で落ち着きを取り戻し、通常業務に戻っていた。
(殺してまで、どうしてここから出て行ったんだろう)
 薫は最近よく恵のことを考える。
(恵はここにいるのが嫌だったのか?)
(それとも外に行きたいところがあったのだろうか?)

 恵の失踪と時を同じくして、もうひとつ、薫を思想させることがある。
 842番という最悪の赤い薬のこと。
 1年前、3班は全員が結託してある薬を外部に隠していた。矢矧に対してもだ。その薬をヒトが服用すれば最後、苦しみぬいた挙げ句、死に至る薬。手違いで製造されてしまい、報告することもできず隠蔽したのだ。しかしそれが何者かによって盗み出されたと知り、薫は冷や汗を掻く。使用されれば死体が出ることは確実だから。
 恵が失踪したときの事件でそれは発覚した。盗み出していたのは恵だった。薬の存在を矢矧に知られてしまったが、結局、842番はすべて回収し、処理された。
(───誰も傷つけなくてよかった)
 いまでもしみじみと息を吐く薫だった。

 恵の失踪と赤い薬の処分。それはともに1年前の出来事である。


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