/薬姫/弐
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■ 2.

 ───。
 よしのに名を呼ばれて振り返る。その瞬間がいつも楽しかった。
 暗黙の習慣があった。腰をかがめて覗き込むよしのと、イタズラを誇る子供のように、にぃ、と笑い合う。薫が両手を伸ばすのはひとつの合図で、そうすると決まってよしのは抱き上げてくれた。同じ目の高さでものを見ることができた。名前を呼ばれることが毎日楽しみだった。

 薫は父親の顔を覚えてない。けれど記憶のなかの芳野はいつも逆光のなかで微笑っていた。そして語りかけている。
 腰をかがめて小さい薫を覗き込むように、ときには抱き上げて。
 いつも薫に話しかけている。
(…なに?)
 記憶はその声を覚えてない。
(なんて言ってる?)
 芳野は何を話していただろう。なにひとつ、薫は覚えていなかった。それが苛立たしい。
 薫が持つ知識の土台や、作業の技術は矢矧から教わったものだ。父親から薬理学を教わったという覚えはない。でも、生前の芳野は薫にたくさん話をした。いつもふたりで、たくさんのことを。
(なにを教えてくれた?)
(どうして覚えてないんだ)
 今の住処に来て5年、薫は父親のことをあまり思い出さなかった。芳野が亡くなった当時薫は幼すぎたし、ここで仕事を始めてからは忙しい毎日で過去を振り返る余裕もなかったから。
 薫が父親のことを思い返すようになったのは1年前。
「ヨシノ博士が教えてくれた」
 失踪前、恵がそう言ったからだ。
(そうだ、私も、教えてもらっていたはずなんだ)
 思い出そうとして思い出せない。面影を見つけては記憶を辿る、その繰り返し。もどかしい苛立ちに、少しだけ悲しみが混じっていた。





 こつこつこつ、と硬質な音が響く。
 四方を背の高い本棚で埋められている所長室は息を詰めさせる圧迫感がある。本棚に収まりきらない雑誌や専門書が床に積み上げられて文字通り足の踏み場もない。照明は点いているはずなのにどこか薄暗い室内で、中央に置かれたパソコンモニタが人影を浮かび上がらせていた。
 この地下研究施設の所長、矢矧義経である。
 くたびれた白衣姿で椅子の背に寄っ掛かり、モニタに目を向けたまま、右手の中指で机を叩く。その背中を眺めているあいだは、大抵いつもその音を聴かされている。呼び出されて来てみれば、数分、この調子だ。
 こつこつこつ
 薫はこの音が嫌いだった。ピンと張りつめた空気の時間を計るその音が、その場をさらに長く続かせようとしているようで。
 薫はドアの前で矢矧の言葉を待った。とても息苦しかった。
 矢矧と2人きりになると緊張する。
 ───以前はこんなことなかったのに。
「会議をサボるのは感心しないな」
 突然声を掛けられて薫は飛び上がる。たぶんその驚きは声に表れてしまっただろう。
「気分が悪かったんだ」
「西山、か」
「え?」
「まぁ、いいよ」
 くるりと振り返る。薫相手では椅子に座っていても矢矧のほうが目線が高い。眼鏡の奥の眼は薫と視線が合うと細く笑った。
「今日、来てもらったのは、昨日の定例で話したことを君に聞いてもらいたいからだ。同じ事を話さなきゃいけない俺の手間も労って欲しいな」



「視察?」
 薫は眉をひそめて問い返した。矢矧はボールペンで顎を突いている。
「そう。急だけど、明後日から外部の人間がここに来るよ。いろいろ見て回りたいそうだ」
 薫はぽかんと口を開けて呆然とする。「珍しいな」
 本当に珍しいことだった。ここに部外者が来ることなどめったにない。少なくとも薫は見たことがなかった。古株の薫がそうだということは、今まで一度も無いということだ。
「痛くもない腹をさぐられたくないから、みんな、必要以上に猫かぶるだろうな。そういうわけで、しばらく所内がぎくしゃくするかもしれないけど、まぁ、薫は気にすることはないよ」
「面倒くさいな。どうして断わらなかったんだ、らしくない」
「我らがスポンサー殿からの依頼ならしょうがない」
「それの知人かなにか?」
「知人なら断れば済む」
「じゃあ、誰?」
「桐生院由眞…と言ったか。スポンサー殿はその老媼に頭が上がらないらしい。俺らには関係無い話だけど、財界の大物ってとこだろう」
「じゃあ、その桐生院ってヤツが来るのか?」
「まさか。その老媼に威を借りた別部隊だろう。まずは明後日、少数で下見に来るらしい。さらにその後、十数人で来るそうだ」
 そうだ、と矢矧は付け加えた。
「薫はあまり表に出ないようにしてくれる? 君が優秀なのは職員全員解っているけど、外から来た連中から見れば君はやっぱり小さな子供だからな。見に来た客を驚かせてしまうだろう?」
 薫は頷いた。
  *
「最近、仕事がはかどってないらしいね」
 矢矧に痛いところを突かれて身体を強ばらせた。
「…ここのところ班内の異動が多くてやりにくいだけだ」
「君自身の不調ではない、と?」
「ああ」
「じゃ、仕事増やしても大丈夫だね」
「…」
 墓穴を掘ったことに気付き、薫は軽く舌打ちした。
「3班の人間にはもう言ってあるから、頼んだよ」
「…おい」
「君の部下に仕様書を渡しておいた。君もすぐ参加してくれ」
「───矢矧」
「なんだい?」
「3班の班長は私だ、ちゃんと話を通してくれないか? 勝手に部下を使われてはおもしろくない」
 矢矧はただ笑う。
「今度から気を付けるよ」
 それが期待できる回答でないと、薫はなんとなく解っていた。半ば諦め加減の溜息をそっと吐いた。


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