/薬姫/弐
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■ 3.

 外部の人間が視察にやってくることは西山も知らされていた。西山もまた、薫と同じように「珍しいこともあるもんだ」と矢矧ら上層部の気まぐれに首を傾げていた。
 視察員は今日から3名入っているという。職員の数人が案内役をしているらしい。
(あとから十数人来るって言ってたけど、どんな団体なんだか)
 この地下研究施設は創設から今まで、部外者を入れたことは一度も無い。当然、矢矧は今回のことに反対しただろう。しかしそれでも話が通ったのは、どこからか圧力がかかったということだ。この施設の出資者や矢矧に圧力をかけられる来客者が一体何者なのか、少し興味がある。
 興味があると言っても、医務室で仕事をしている限り視察員を見ることもないし、わざわざ出て行って野次馬になろうとも思わない。その程度の興味だ。
 それにしても所内は昨日から慌ただしかった。もともと、叩けば埃だらけの組織である。一時的な掃除に職員は大忙し。今朝からはどこかぎこちない空気が施設内に充満していた。
(アラを見つけさせる矢矧さんじゃないだろうけど、あの人もやっぱり気が気じゃないんだろうな)
 そんなことを考えていたときのことだった。
「西山さん!」
 医務室に数人が雪崩れ込んできた。
 先頭は5班所属の職員、中島という男だった。さらに後ろの背の高い男は、ぐったりとした髪の長い女を抱えていた。ここは医務室だ。西山は自分の本分を思い出し緊張した声で言った。
「どうしたっ?」
「視察の方が、直接吸引しちまって卒倒したんだ、見てくれ」
「えっ!?」
 西山も飛び上がった。確かに、後ろで抱えられてるほうの女はこの距離でも意識が無いのは明白。
「すぐにベッドへ…」
 中島の後ろの男は西山の誘導に従って女をベッドに下ろした。西山はふと気が付く。男女2人は、知らない顔だった。
(こいつらが、視察員?)
 よく観察したかったが今はそれどころではない。
 中島は蒼白な顔をしている。不祥事を案じているのだ。
「薬品はなんです?」
 換気扇をつけ患者のブレザーを脱がせながら訊ねると、中島は所内でも使用頻度の高い薬品名を挙げた。あぁ、と西山は安堵の息を吐く。
「それなら多分大丈夫だ。刺激臭に身体がびっくりしただけだう。毒性は少ない。2時間もすれば目を覚ます」
「そうですか」
「よかった…」
 来客の男のほうは落ち着いていたが、中島は倒れそうなくらいほっとしていた。大事になったときの責任を考えれば無理もなかった。
 西山は苦笑した。薬の扱いに慣れているここの職員のなかで、直接吸引するような馬鹿はまずいない。試験管から手で仰ぐ手順は基本中の基本。素人が来るというのはこういうことか、と妙に納得した。
 来客の男が言う。
「では申し訳ありませんが、寝かせておいてもらってもよろしいでしょうか」
 この男は西山よりずっと若い。長い髪を後ろで束ねて、カーキ色のスーツを着ている様は新成人のようだ。視察の第一陣は若い研修者と聞いていたから大学生かもしれない。
「ああ、構いません」
 相手の礼儀正しい態度につられてこちらも丁寧になった。
「じゃあ、中島さん。向こうも待たせていることですし、私たちは戻りましょう」
「ああ、そうですね」
「後で迎えに来ますので、宜しくお願いします」
 男は西山に頭を下げて、中島とともに医務室を出て行った。



 患者の隣に扇風機を置いた。もう無いはずの刺激臭を身体が覚えていて、まとわりついているような感覚が後を引くことがある。その気休めのための扇風機だ。
 こちらの女のほうは先程の男よりもっと若い。長い髪を結びもせず背中に流している。目を閉じて穏やかな寝息が聞こえてくる。
(さて、何者なのやら)
 衝立をかけて机に戻ろうとした、そのとき、
「視察に来た人間が倒れたって?」
 今日は休暇を取っているはずの薫がやってきた。何しに来たんだと訊くと、部屋でじっとしてるのもヒマだったから、と答えた。
「直接吸引したんだとさ」
 薬品名を教えると、薫は驚いたようだった。
「馬鹿か? それじゃあ卒倒もする。常識だろ」
「オレらの業界だけだよ、常識なのは。それに5班の管理が杜撰なせいだ」
「寝てるのか?」
「ああ、だから静かにな」
 薫は衝立に目をやったまま西山に訊いた。
「ちょっと覗いてもいい?」
「どうして?」
「外の人間を見たことないから」
「───だめだ」
 けち、と薫が毒づくので苦笑して返す。
「ほら、なにか飲みたいなら淹れてやるから、こっち来い」
 すると薫は大人しく戻ってきて椅子に腰掛けた。
「視察が来てる間は休暇になるんだろ? その間はなにするつもりなんだ?」
「なにも。部屋で本でも読むさ」
「たまには外出許可でももらえばいいのに」
「ん? うん…」
 少し悩んでからあまり乗り気で無さそうな返事をする。「西山は? 休暇のときは何してるんだ?」
 痛いところを突かれた。
「俺も外には出ないな。っていうより、ずっと寝てるし」
「なまけもの」
「それは否定しない」
「あ、でも、西山はたまに仕事で外に出てる」
「出てると言っても、在庫充当の買い出しだけだ。君らと違って経費は別計上だから」
「買い出しって?」
「医薬品の卸問屋へ行って、適当に買ってくるだけ。…なんだ、興味あるなら店紹介しようか? 意地の悪いオジサンが店長だけど、勉強になることも多い」
「ん。いい」
 と、首を横に振った。今度は即答だった。
「ぁー…」
 会話が中途半端に途切れて、薫は取り繕おうとする。けれど言葉にはならず、視線をいくどが動かして、言いにくそうに口を開いた。
「私は、ここに来てから、一度も外に出たことが無いんだ」
「…そうだな」
 いくつか言葉を選ぶ素振りでゆっくりと言った。
「外に出たいと思わないんだ。たぶん、まったく新しいものを知るのが恐いんだと思う」
「は? 恐いって?」
「ここに来て5年で、今の生活に慣れきってしまったから。私はここの生活しか知らない。もし外に出たら価値観がひっくり返りそうで恐い」
「───新しいものを知るのが恐いなんて、研究者として失格だなぁ?」
「うっ」
「思考が柔軟な若いうちに、そんなものは壊しておいたほうがいいぞ? 年取ると余計苦労するぜ」
「その言い方は、私が年取ったら、思考が柔軟でなくなるような言い方に聞こえるが」
「そう言ったんだ」
「馬鹿言うな。私は10年後だって、今と同じように仕事してやるさ」
「ん、まぁ、あと10年は平気かな。ハタチ過ぎれば天才少女もただの人だろうけど」
「にーしーやーまー」

 バンッ

 ノックも無しに医務室のドアが開かれた。
 一瞬で空気が凍り付く。西山は目を瞠り、薫は青ざめた。
 そこには矢矧義経が立っていた。
「薫、すぐ俺の部屋に来い」
 無感情、けれど有無を言わせない口調だった。薫は強がって言い返した。
「休暇中なんだが」
「だったら、仕事中の西山の邪魔をするんじゃない」
 薫はしぶしぶ重い腰をあげた。矢矧と目を合わせないようにして医務室を出る。矢矧は薫に先に行くよう指示したあと、室内に視線を戻した。顎をしゃくって西山を呼ぶ。西山はゆっくり椅子から立ち上がり、ゆっくり足を運んで、矢矧のそばについた。
 矢矧は低い声で言った。
「薫をあまりここに来させるな」
 西山はできるだけ平静を保ち応える。
「視察に来た人間がここで寝てます。あまり大声で話さないほうがいいんじゃないですか?」
 矢矧は声を顰めて笑った。「西山」
「俺がおまえを、いつまでも大人しく飼ってるとは、まさか思ってなかったろう?」
「そうですね。まさかこんな長い間、放っておいてもらえるとは思ってませんでした」
「近いうち、かまってやるさ」
 矢矧は最後に冷酷な瞳を見せて踵を返した。
   *
 ふぅ、と西山は慎重に息を吐いた。ドアが閉まっても、安心できなかったからだ。遠くなる矢矧の足音を用心深く聞いて、やっと緊張を解くことができた。
 背中と手のひらに汗を掻いていた。
(矢矧さんと喋ったのは久しぶりだな)
 矢矧が自分を見る目はいつも刺すように鋭い。その目を意識し始めた頃、西山は自分に監視が付いていることを知った。そして気が付けば懇意だった人間は次々にいなくなり、そのほとんどの消息が知れない。連絡が取れている数人は手紙をくれる度に言う。「矢矧義経から離れろ」、と。
 けれど西山はこの施設から離れるわけにはいかない理由があった。
 西山はドアから離れデスクに戻り、引き出しを開けた。そこにはノートがしまってある。それを手に取ろうとした、
 そのときのことだった。

「さっきの女の子が“薫”? “保健室の先生”さん」

「!」
 突然の高い声に西山の心臓は跳ね上がった。いつも一人でいる医務室に他人の声は無い。無いはずの声を聞いて西山は後ろを振り返った。そのとき動揺が行動に表れて膝を椅子にぶつけた。派手な音を立てた。痛みを気にしている余裕はなかった。
 締めたはずの衝立のカーテンが開かれていた。そして先程まで眠っていたはずの女がベッドに座り西山を見つめていた。
「西山さん───でしたっけ?」
 背中まで伸びる長い髪を直して座り直す。外見はずいぶん若く見えるのに、落ち着いた口調。年齢を読みにくい女だった。
「視察というのは建前で、私はあなたに会いに来たんです」
「は?」
「桐生院さんが手を回して警察を動かしてるんですけど、これはあなたの希望に添ったかたちになるかしら?」
「…警察?」
「この研究施設が潰れてしまっても構わない? という意味です」
「ちょ…ちょっと、待って。何のことだ? それに、君は…」
 あっ、と女は口元に手を当てた。「失礼しました」その仕草は幼く、女の年齢を若く見せた。
「峰倉薬業にメモを残したでしょう?」
「───…?」
「“薫を助けてくれ”って」


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