/薬姫/弐
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 薄暗い廊下を、矢矧の一歩後ろを薫は歩く。
 そっと矢矧の表情を窺う。けれど、なにも読めない表情があるだけだった。その視線に気付いたのか、矢矧がわずかな動作で振り返る。薫は慌てて目を落とした。
(───いつからだろう、矢矧の顔色を気にするようになったのは)
「…薫も、あまり西山と遊んでるんじゃない」
 低く響いた声に薫は身体を強ばらせる。
「私が勝手に押しかけてるだけだ。西山は悪くない」
 そう答えると、矢矧はひとつ息を吐いた。
「仕事はもう面白くなくなった?」
「ちがう」薫は即答できる。「仕事が嫌なんじゃない」
「それはよかった」
 矢矧は視線を前に戻す。視線による戒めが無くなり少し楽になった。
「実は頼みたいことがあったんだ」


*  *  *


 西山がこの施設を離れない理由は放っておけないものがあるからだ。それが解決するならここにいる意味はない。リスクは承知の上で、西山はすぐにでも脱走するだろう。
 その「理由」を、高ぶる感情に任せて書き残したことがあった。月に一度、外に出たときに(監視付だが)、薬品店で。
「え…? あの、メモ?」
 驚愕のあまり声が裏返ってしまった。張り上げてしまいそうになる声をどうにか落として西山は言う。
「峰倉さんのところの?」
 残したメモは、そのままゴミ箱に棄てられてもおかしくないような紙くずだった。神にも祈るような、藁にも縋るような気持ちで、吐き捨てたい思いをそのまま書いた。それがまさかこうして実を結ぶとは。
「それだけで、ここまで来たのか?」
「いいえ」
 と、女は苦笑する。
「西山さんのメモで私は動いたけど、こちらはついでなんです。───本筋は別にあって、そちらと協力しているだけです」
「別って」
「国薬連の幹部が桐生院という人物に相談を持ちかけています。矢矧義経の処置について」
「!」
「この2つの依頼を調べた桐生院さんが警察を巻き込んで、こうして動いたということです。矢矧義経を摘発するために。つまり───近いうちに警察の強制捜査が入ります。書類待ちですから、時間の問題ですね。そう、遅くても3日くらい」
「……」
 西山は両膝の力が抜けてその場にへたり込みそうになった。全身を静かに襲う安堵感に、張りつめていた精神の糸が途切れたように感じた。
「そして私は峰倉さんとちょっとした知り合いなんです。峰倉さんからあなたが残したメモの相談を受けました。でもあのメモからじゃ何の情報も読みとれないのであまり相手にしてなかったんですけど、あの人にしてはやけに気に掛けてたし…。よくよく付き合わせてみると、桐生院さんのほうと関連性があったので驚きました」
「君は何者なんだ?」
「阿達…じゃなくて、御園まりえ。入門の手続きはそういうことになってます」
「え?」
「偽名です。一応、駆け出しの興信所なんですが、今回は単に桐生院さんの手伝い。警察の書類を待ってるのも馬鹿馬鹿しかったので先に来ることにしたんです。西山さんに聞きたいことがあって」
「…なに」
 自称・御園まりえはまっすぐに視線を寄こした。
「どうやって“薫”を助ければいいの? なにから、助ければいいの?」
「───」
 西山は冷静を取り戻した。
 まさしく今がその好機だということは明白。しかし身体がすぐには付いていかなかった。
 深く息を吸うと踵を返し、足を鳴らしてデスクに戻る。躊躇無く引き出しを開けるとそこにあるノートを取った。
「これを」
 振り返り、御園まりえに言う。
「え?」
 足早に歩き、御園まりえにノートを受け取るよう促した。西山の勢いに呑まれて御園まりえは両手を伸ばす。
「俺が言いたいのは、これがすべてです」


 その日、御園まりえは地上へ帰って行った。
 彼女の言を信じるなら、警察が来るのは3日後である。


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