/薬姫/弐
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■ 4.

 所長室のドアを開けると矢矧はそのまままっすぐに歩き、正面の椅子に倒れ込むように座った。大きな構えで足を組むと、肘をついてドアの前に立つ薫に目を向ける。
 薫は居心地が悪そうに視線を微妙に逸らした。逸らしたまま言った。
「で? 何の話だって?」
 頼みたいことがあるんだ、と矢矧は言った。仕事はつい先日新しいものを受けたばかりだし、仕事以外の頼み事など想像できない。何にせよ、薫は早く聞いて早く帰りたかった。
「そろそろ本気を出してもらいたいと思ってね」
「本気?」
 矢矧はそのままの表情と声で言う。
「842番をまた作ってもらいたい」
「え」
 顔を上げると矢矧と目があった。矢矧の表情は少しも変わらない。
 冗談を言ったのだろう。薫はむっとした。
「馬鹿言うな、あんなものつくりたくもない」
「そう言わないで」
「それにあれは偶然の副産物だ、仕様(スペック)もなければ見本(モデル)もない。却下だ」
 話題を早く終わらせたくて適当に流そうとした、しかし、
「モデルならあるよ」
「───?」
 矢矧は薄く笑った。すっと右手を持ち上げると大きな動作で指先をひらめかせた。
 その指先には小さな薬瓶。
 赤い錠剤が詰まっていた。
「どうして…っ!??」
 薫はこれ以上無いくらい目を瞠る。
「すべて処分したはずだ!」
「処分したのは誰だった?」
「3班(うち)だ!」
 薫が怒鳴り返すと、矢矧は不敵に笑って頬杖をついた。
「さて、この所内の人間が、矢矧義経と島田芳野の娘と、どちらの命令を聞くと思う?」
 薫は言葉を失くした。最初は、ぽかん、とした表情で。次に唇を震わせ、顔を強ばらせて。
 その様子を見て矢矧は椅子から立ち上がった。
「ああ、驚いた!」
 大袈裟に手を広げて歩み寄る。薫のところまで来ると、髪に触れ、優しく撫でた。「…ッ」薫は凍り付いた。
「君は本当に頭がいいね。───ちゃんと解ってるじゃないか」
 耳元で囁かれる低い声に泣きそうになる。
 まるで頭蓋骨の内側に氷が張ったかのように、凍えて、気が遠くなった。
 どうしてその声を今まで普通に聞けていたのだろう。
「自分の立場をちゃんと解ってる。…いい子だ」
 やわらかな声で優しく頬を撫でられたはずなのに、喉もとに冷たい刃物を突きつけられたようだった。
 842番が残っていると知ってしまった今、薫のなかで膨らみつつあった矢矧への不信感は最高潮に達した。
(…なんとなく、わかっていたはずなのに)
 一年前、恵がいなくなった後の所内での自分の待遇の変化。矢矧の嘘。少しずつ沸き上がる不安。
(どうして矢矧は842番を処分しない?)
 人間には到底使えない。動物の安楽死だって、苦しまない薬は他にいくらでもあるのに。
(どうして?)
 一年前、万が一でも誤飲しないように薬を赤くしたのに、それでも薫には「誰かを死なせてしまうのでは」という強迫観念が消えなかった。変わらず日常を送っていても心のどこかで842番を気に掛けていた。
 恵の失踪と同時に薬は処分されて、肩の荷は降りた。それなのに、また、同じ心労を背負うことになるとは。
(何故、矢矧は処分しない!?)
 それを深く考えてしまうのは怖い気がした。
「…矢矧」
「ん? ああ、今日のところはもういいよ。残った仕事を…と言いたいところだけど、自室へ戻ってくれたほうがいいな。まだお客さんがうろついているからね」
 薫の頭のなかの混乱は収まらず、薫は言われた通り、踵を返しふらふらと部屋を出て行こうとする。
「薫」
 呼び掛けに足を止める。
「西山のところへ行くのはやめろ」
 私の勝手だ。そう言う覇気も持てない。
 薫は逃げるように矢矧のもとを去った。


 その日を境に、薫に監視が付くようになった。


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