/薬姫/弐
8/11

■ 5.

 薫は地上へつながる長い廊下に立つ。
 これ以上、進む気は無い。廊下のその先をただ見ているだけだ。
 ここは地下の出入りを監視する守衛室より外側。この施設の、最も地上に近い場所。薫がそこに立ったのは初めてだった。
 経路図を信じるならここから数十メートル先の階段を上ればそこは地上である。薫は5年間、そこを通ってない。一度も、外に出ていない。
 昨日から薫に張り付いていた監視は、今も3班の部屋の前で突っ立っているだろう。彼らより長くここに住んでいる薫は、彼らの目を盗み、抜け道を使って逃げることなど簡単。見張られる生活はもううんざりだった。
 薫はもう30分、その場に立ちつくしている。
 長く続く廊下の真ん中で。
(…地上(うえ)に出たい、とは思わない)
(だから、この足はこれ以上動こうとしないんだ)

 1年前、恵はここから出て行った。
 守衛室前の監視カメラには、恵の「あっかんべー」が映っていたという。それを聞いたとき、薫は笑ってしまった。
 恵らしい。さらにそれは恵が自分の意志で失踪したという証拠になり、薫は安心した。
(恵、今、どこにいる?)
 懐かしみを込めて問う。
 きっと今も、周囲に少しの迷惑をかけながら好き勝手やってるんだろうな、と思うとまた笑いがこみ上げる。同時に目頭が熱くなる。
(どんな場所にいる?)
 ここ以外の景色を薫は知らない。
 外に出たいと思ったことはなかった。ここで働くことは面白かったし、ここを離れたい理由も無かったから。けれど、
(息苦しい)
 842番が存在する重圧に耐えられそうもない。
 矢矧はそれを造れと言う。嫌だと突っぱねるだけで済めばいい。けれど、ここでの自分の立場を考えたらそうもいかないことはよく解っていた。
(ここから出たいと思わないのは、まったく知らない世界に飛び込むのが恐いからだ)
 新しいものを知るのが恐いなんて研究者失格だな、と西山は言った。まったく、その通りだと思う。
(でも…わからない)
 外になにがあるのか。ここにいるより良い状態なのか。
 なにをすべきか。
 どうしたいのか。
(わからないんだ)
「───薫」
「…っ!!」
 いつのまにか背後に矢矧が立っていた。撒いてきた黒服の監視2人も矢矧の後ろにひかえている。
 矢矧は手を差し伸べた。
「だめだよ、部屋に戻ろう」
「矢矧…」
 無力感に襲われ泣きそうになる。
 足を運ぶことができない。差し出された手に応えることも、身動きすることもできずに薫はただうつむいた。
 矢矧は息を吐いた。振り返り、手振りで黒服の監視たちを退がらせる。薫に視線を戻し、一歩踏み出して、幼子を宥めるように言った。
「どうした薫。悩み事でもあるのか?」
「恵は…どこに行ったんだろう」
「寂しい?」
 ───ちがう。
「僕がいるじゃないか」
「ちがう…」
 うまく口にできないもどかしさに首を横に振るだけしかできない。
(そうじゃないんだ)
 本心を言えば、恵がいなくなった寂しさはある。ただそれ以上に、今、恵がどんな場所にいるのか、どんな人と一緒にいるのか、それを思うと訳も分からず心がはやる。
「薫はここにいればいいじゃないか」
「…」
「芳野だって、生きていればここにいた。一日中、好きなことを研究できるんだからね」
(…おとうさん?)
 その瞬間、
 ちりっ
 音を立てて脳の神経が焼き付いたような気がした。
 一瞬でたくさんの風景が頭のなかを駆け抜けた。そのうち拾うことができたのはほんのわずか。あまりの衝撃に悲鳴をあげそうになった。膨大な量の情報を処理したせいで、とてつもない疲労感に襲われた。
「矢矧…、それ、ちがう」
「ん?」
 拾うことができた記憶は父親の言葉を残していた。
「ちがう…ちがう! おとうさんはこんな所にじっとしてる人じゃなかった、おとうさんは仕事が好きだったわけでも、研究作業が好きだったわけでもなかったんだ」



 いつも抱き上げてくれた。同じ目の高さで世界を見せてくれた。
 どうして忘れていた? いつも言われていたのに。
「いいかい、───」
 名前を呼び、言い聞かされる。
「ヒトの役に立たなきゃ、学問の意味は無い」
 研究の意味も無い。仕事の意味も無い。
「だから」
 いろんなヒトに会いに行こう。
 なにに苦しんでいて、どんなものが欲しいのか訊きに行こう。
「それがわかったらもっと仕事が楽しくなる」
「僕は自己満足で仕事しているけどね、それはヒトの為になるという自己満足だよ」



(ばか…っ!)
 父の言葉を忘れていた己をなじる。仕事の作業にしか面白みを感じていなかった自分を呪った。5年という長い時間、自分はなにをしてきただろう。
 自分がしていることは正しい。そんな根拠の無い自信に酔っていただけか。


8/11
/薬姫/弐