/薬姫/弐
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 ふぅ、と重々しい溜息が響く。薄暗い廊下がさらに暗くなったように感じた。
「まったく…、───忌々しいな」
 矢矧は薫を見下ろした。父の言葉を思い出し高揚していた薫の身体は、その冷めた視線で瞬時に凍り付いた。
「あまり違う違う言わないでくれないか。否定されるのは不愉快だ」
「…やはぎ?」
 薫は思わず一歩退がった。
 寒気がした。その声色に。
 いつもの口調とは明らかに違う響きで言い放つ。
「戻れ」
 有無を言わせない口調。薫はもっと退がりたかったが足が竦んで動けなかった。わけもわからず膝が震えた。薫の後ろには長く廊下が続いている。それなのにどうして、追い詰められたような気持ちになるのだろう。
 矢矧のほうが足を進めて薫の前で腰を落とし、目線を合わせてきた。「…っ」歯を食いしばり悲鳴を堪える。思わず身構える。
「俺の姫はもうおまえしかいない、おまえはここにいるしかないんだ」
 薫は絶句した。
(だから…?)
(だから、監視を付けたのか? 恵にも───私にも)
 このとき初めて薫は置かれている状況を理解した。好きなようにしてきたつもりが、矢矧の手の上でしかなかったことを。
 大きなショックがあった。薫は今まで矢矧を信用していた。ものごころ着いた頃には毎日のように顔を合わせていた、父親が死んで身寄りが無かった薫をここに連れてきてくれた。薬の知識を惜しみ無く教えてくれたのも、大人ばかりの施設で仕事と部下を与えてくれたのも矢矧だ。
 その矢矧が今、842番を複製させるために薫を縛り付けようとしている。
(それは絶対にできない)
 言葉にはできなくて、薫は乱暴に頭を振った。すると矢矧が責めるように言う。
「父親のことが忘れられないのか? 君は、自分の本名はすぐに忘れてくれたのに」
 矢矧との距離が縮まって薫はまた一歩退がる。
「芳野もそうだ。結局、最後まで俺の理想を否定し続けた。あれでさえ、俺を理解できなかったんだ。君もそうなのか? 人体の機能を素晴らしいと思わないのか? 解明されている部分は一握りだが、それを支配できる悦びは無いのか? プリミティブな論理式でインナースペースをコントロールできる、とても美しいじゃないか」
 薫は愕然とした。矢矧と父親の理想は違うものではない。
 ただ、ベクトルの方向が違うだけで。
「あの薬」
「!」
「残数の3分の1を斉藤のところで解析させてるんだけどなかなか進まなくてさ。協力してよ」
「…やだ。もう、あれは棄てて…」
「どちらにしろ、君はここは出られないよ。それでも?」
「いやだ!!」
「自分がどんなに強力な武器か解らないのかッ!?」
「───っ」
 頬を叩かれたような衝撃があった。
(武器?)
 そんなつもりは無かった。
 面白がって、楽しくやっていることは、知らない場所にいる多くのヒトを助けるものだと思っていた。だから何の憂いも無く、そのまま面白がっていればいいのだと。
「すばらしい能力じゃないか。どうしてそれを使わずにいられるんだ」
「…わか…らない」
「解らせてやろう」
 矢矧は無感情な声で言うと、白衣のポケットから何かを取り出した。
「…っ!」
 それは赤い錠剤───842番だった。
 わざと薫に見せつけたあと、矢矧はそれを手のひらにしまい、踵を返す。
「待て、矢矧…何する気だ」
 矢矧は控えていた黒服たちに命令を出した。「西山を連れてこい」
「西山?」薫はその背中を追う。「どうして…矢矧、…待て!」
 引き留めようと手を伸ばすと、逆に手を掴まれた。
「君もおいで」矢矧は静かに笑う。「見せてやろう」
「…うぁ」
 酷い力で腕を引かれる。転びそうになってもそれを許さない力で手首を掴まれている。
「や、矢矧?」
 一歩先を行くその表情は見えない。いつのまにか黒服の監視役も見えなくなっていた。おそらく矢矧の命令通り西山のところへ…。
(───)
 瞬間、頭の芯が冷たくなった。
 見せてやろう。
(…何を?)
 薫は問う。
 ひきずられるように暗い廊下を進む。その闇に飲み込まれるようで、薫は背中に虫が這うような寒気を感じた。
「…やだ」
(見せる?)
(何を?)
 足を踏ん張って抵抗を試みるが矢矧の足の速度は少しも変わらない。
「…っ」
(私が武器だという証拠?)
(───どうやって!?)
 矢矧の反対の手は軽くこぶしを作っている。842番を持っているのだ。
 背筋が震え上がった。悲鳴をあげた。
「いやだっ! 矢矧!」
 その叫びは渾身の力だったが、矢矧は気にも留めず足を進めていく。歩く速度は少しも落ちない。腕を掴まれている薫はひきずられるしかなかった。
(やだ───)
 ガチガチと奥歯が鳴りだした。それを止めようと歯を食いしばると、理由もわからず泣きそうになる。パニックを起こしそうになる。
 恵がいなくなって1年。まとわり続けていた不透明な気持ちはやっと言葉になった。
(こわい)
 そう、やっと言葉になった。
(怖い…っ!)
(矢矧は何をする?)
(想像したくない)
(何を解らせようとしている?)
(解りたくない!)
「薬(これ)を隠蔽したのは君の判断ミスだ」矢矧が口を開いた。「解毒剤を作ることもできただろう?」
 薫は己を鼓舞して言い返す。
「そ…それは完全な失敗作だ、だから隠したんだ」
 使わない薬の解毒剤など必要無いはずだから。
「万が一にも誤飲しないように赤く着色した、誰だって危険だと判るだろう!?」
「その危険な薬を他人に使うということは、想像しないんだ?」
「───」
 矢矧はくすくすと笑い声をたてた。
「君は大概、馬鹿だなぁ」
「…っ!!」
 薫はわけもわからず愕然とした。まったく知らなかった知識を教えられて、なんとなく使っていて、ある日突然それを「理解した」ときの感覚に近い。けれどそこにあるのは指先が震える高揚感ではなく、頭の芯が冷たくなる恐怖だった。
(なにがいけなかった?)
 父の言葉を忘れていたこと?
 無責任に仕事を面白がっていたこと?
 真実を知らなかったこと?
 知ろうとしなかったこと?
(こわい)
 目尻に溜まっていた涙がこぼれた。
(───おとうさん!)
 薄暗い廊下はとても長く続く。
 地上への階段とは逆方向へ。


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