/薬姫/弐
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■ 6.

 遠く、薫の悲鳴を聴いたような気がした。
(まさか)
 そう思いつつも自室のドアを開けると、それはいっそう鮮明になった。薫の叫ぶ声が聞こえた。
 西山は部屋を出て廊下を駆ける。
「薫!?」
 その姿をすぐに見つけることができた。ほっと安堵の息を吐きかけるが、その呼吸は途中で止まった。逃げようとする薫の腕を掴んでいるのは矢矧義経だった。
「ナイスタイミングだ」
 と、西山を見た矢矧が指を鳴らす。
「西山、逃げて!」
 薫は見たこともない悲痛な表情で叫ぶ。困惑した西山は矢矧と薫、両者を見比べた。そしてすぐに状況を察することができた。
(とうとう、この子も…)
 知ってしまったのだろう。今まで想像すらしなかった、沢山のことを。
「矢矧さん。薫には手を出さないでください」
「おまえにそんなことを言う権限があったとは知らなかった」
「西山! 逃げろ…早く」
 矢矧から逃げようとするが逃げられない薫を、西山は憐れむような目で見た。
「矢矧さんからは逃げられないよ。地下(ここ)にいる限り」
 それはここにいる職員全員が覚悟していることでもある。例外は薫だけだ。
「───うわっ」
 矢矧が薫の腕を引き、その手を遅れてやってきた黒服に引き継いだ。
「放せ!」
 その叫びが聞き届けられることは勿論なく、無視されて、薫は黒服に捕まった。
 手が空いた矢矧は西山へ近づいた。
 西山は一歩も動かずに、矢矧が目の前で止まるのを待った。
「矢矧さん、こんな遅くに何事ですか」
「地上(うえ)にいた頃の芳野派は、おまえが最後だな」
「ですね」
「芳野に心酔していたおまえがどうして地下(ここ)についてきたか、わかっていたよ。芳野(あいつ)が残したものを放っておけなかったのは大した忠義心だが、俺に楯突くようなら見過ごしてはおけないな」
「だから、今まで大人しくしてたでしょうが」
「そうそう、ひとつ聞きたいことがあったんだ」
「なんですか」
「恵をそそのかしたのはおまえか?」
「違いますよ」
「じゃあ、丸山か」
「違うんじゃないですか? ───あの子はここの職員が考えているよりずっと頭がよかった。自分の意志で逃げたんですよ、あなたから」
 卑しむように小さく嗤う。
 矢矧は目を細めた。
「ここに薫がつくった薬がある」
 と、指先の赤い薬を見せた。
「…?」
 赤い錠剤だった。1年前、西山は一度目にしている。しかしそれは処分されたはずではなかったか。
 矢矧はいっそう低い声で言った。
「おまえが飲まなきゃ、薫に飲ませるよ」
「───」
 西山の頭のなかで何かが弾けた。
(こうなることは解っていたじゃないか)
 どこか冷静に囁く自分がいる。
(解っていながら、今まで逃げなかったのは、俺の意志だろう)
「矢矧さん」
「決めたか?」
「俺が飲みますよ。でも、わざわざそれを薫に見せることはないでしょう?」
「いい覚悟だ。けど、見せなきゃ意味が無いんだ」
「…酷いな」
「それは5年前から解っていたはずだな?」
「ええ」
 不思議と胸の内は穏やかだった。苦笑さえこぼれるほどに。
「…少し、時間が足りなかったか」
「なに?」
 西山は首を横に振った。
「いえ、なんでも」




「だめだ! それは…」
 薫は矢矧の背に向かって叫んだ。その向こう側に立つ西山は目を見開き、目の前の赤い薬を凝視している。
「西山…、なにしてる、早く逃げろ!」
 掴まれている腕が軋んで痛む。けれどそれを気にしてはいられなかった。あの薬の犠牲者を出すわけにはいかないのだ。
 西山は矢矧をいくつか言葉を交わすと、矢矧の隣を通り過ぎてこちらに近づいてきた。
「西山!」
 黒服に捕まえられている状態のまま叫ぶ。
 西山は目の前までくると、いつもと同じようにおおらかに笑った。
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない、あの薬は」
「薫。───そうだな、あと2日ばかり眠っててくれないか」
「なにを…」
 西山は腰をかがめて薫を覗き込んだ。芳野と同じように。
 薫は言葉を出せなかった。背筋に言いようのない不安を感じて歯を食いしばった。
「そのあいだ悪い夢を見るかもしれないけど、それは少し運が悪かった悪夢でしかないから、目覚めたらすぐに忘れられる。大丈夫、忘れられる…忘れるんだ」
「西山ぁ」
「いいか? 2日だぞ。大丈夫。次に目が覚めたとき、悪夢は終わっている。次に見た景色が薫の未来を決める。とても素晴らしいものだ。怖がらないで───その目で見てくればいい」
 西山は微笑んだ。やさしい表情のはずなのに、薫は恐くて仕方なかった。
「そこまでだ」
 と、矢矧が西山の肩を掴んで引いた。
「矢矧! やめろッ」
 薫の声は割れていた。
「次に目が覚めたときも君はここにいるよ。当然だろう?」
 そう言うと矢矧は西山の腕を引いて一歩離れた。そして息を吸う。
「薫! よく見ておけ!」
 矢矧の声が高らかに響いた。
 片手で西山の胸ぐらを掴んだまま、別の手で西山の輪郭を握る。
 矢矧は西山の顎を掴んで口を開けさせた。
 薫は黒服から逃れることができない。
 矢矧は西山の口の中へ、赤い薬を投げ入れた。
 薫は歯を食いしばる。
「───…ッ!!」


 その毒性はつくった薫が一番よく知っている。
 西山が息絶えるまで5分間。
 薫は目を逸らすことも意識を放棄することもできず、最後まで薬に蝕まれる人体を目にしていた。


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