/海還日/一章
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〇一.

 ザザァァァン
 視界の端から端まで、青い海が広がっている。

「…すごい、───すごいっ」
 リン・カートライトは初めて見るそれに思わず声を漏らした。
 湧き上がる興奮に手足が震える。大きなものを目の前にして身体が小さくなったような錯覚を起こす。それくらい大きい、それはとにかく大きかった。全身に受ける潮気を含む風、地鳴りのように体に伝わる海潮音。水平線はゆるくカーブを描き、この星のかたちを表している。海原とはよくいったものだ。それが水だと解っていても、このまま広い広い海へまっすぐに駆けていきたくなった。
(これが海かぁ!)
 内陸生まれのリンは、地表の約70%、三億六千万平方キロメートルが海であることは知識として知っていても、実際に自分の目でそれを見たことはなかった。衛生画像や前世紀のマリンスポーツPVは見たことがある。けれどそれらは、この潮の匂いや風や、なによりこのスケールの大きさを伝えてはこなかった。
 軽いめまいがした。目は景色に奪われ、脳からは思考が吸い取られてしまったよう。今、頭のなかに余計なものが無い。その空虚感に膝を落としそうになるほど。身体前面に受ける強い圧迫感に、素直に身体が驚いている。大きなものを目の前にしたときの、人間の本能的な畏怖なのかもしれない。
 知らず踏み出していたつま先が「海」に触れた。大きなものに触れたという言いようのない感動がある、けれどそれは長くは続かなかった。ここへ来た面白くもない目的を思い出したので。
(とうとう、ここまで来ちゃったよ。おばあちゃん)
 この夏、リンは地元の大学を卒業した。半年前にもぎ取った採用内定について学友からは散々言われたものだ。「そんな地の果てでなにすんの?」「確かに第一線かもしれないけど、あんまり評判良くないじゃん」そして祖母は寂しそうに笑う。「おめでとう。これでリンも一人前だね」
(ごめんなさい)
 目を瞑ると波の音だけが自分を囲む。音だけでも、そこに大きなものがあるとわかる。
「…ごめんなさい」
 二人きりだった祖母を置いて、リンはこの土地まで来た。13時間前、空港で祖母は笑って見送ってくれた。それが一層、胸を痛くする。
(ごめんなさい、おばあちゃん。すぐに帰るから。目的を果たしたら、飛んで帰るから)
 心の内で強く呟くと、リンは彼方水平線を睨みつけた。自分自身を鼓舞するように。
(そうよっ、あたしがここに来たのは───)


 べしっ


 前触れなく側頭部になにかが飛んできた。鋭くはないが重いパンチにリンの身体はニュートンの第一法則から解放され第二法則へ移行、その場に倒れた。海を見るのが初めてなら、砂浜に突っ伏したのも初めてである。慣れない地面にリンは手足を取られ、しばしもがくことになった。
「………な」
 辺りに人の気配はない。スーツ姿で砂浜に転がる様を笑われるのはやはり恥ずかしいから、この場合それはありがたいことだ。しかし、醜態を突っ込まれない空しさはじわじわとやってくる。いっそのこと清々しく笑い飛ばしてもらいたいのに、やはりあたりには誰もいなかった。
「なんなのよっ!」
 ようやく顔を上げて見回すと、頭にぶつかってきた物体であろうソレはすぐそばで端座していた。リンの足下に。
(ん?)
 ソレは黒い毛並みに長い尻尾、ファイバのようなヒゲ、産毛の生える耳。意表を突かれてリンは目を丸くした。
「…猫!?」
 どうやら顔に激突してきたのは、この黒猫らしい。
 黒猫は前脚をきっちり揃えて座り、ふるふると尻尾を揺らす。リンのほうに顔を向けて「なー」と小さく鳴いた。リンは奇しくも黒猫と同じくポーズで砂浜に座っている。ビー玉のような黒い目をのぞき込んでも黒猫に逃げる気配はなかった。近くの家の飼い猫なのだろうか。
 猫はリンに向かってふるふるとのんびり尻尾を振っている。一方、リンのほうはスーツは汚れ短い髪からも砂がパラパラと落ちてくる。猫相手に怒るわけにもいかないがひとこと言わせて欲しい。
「あたしになんか恨みでもあるの?」
 やわらかな絨毯のような毛並みに触れようとしたとき、
「シュレディンガー」
 と、遠くから声がした。
 黒猫の耳がピンと立つ。リンも顔を上げる。海岸線に沿って走ってくる人影があった。黒猫と同じような黒髪の青年だ。
 リンが生まれた地方では黒髪は珍しかったが、ここではリンのような赤毛のほうが珍しいのだという。
 まず青年はリンではなく猫に声をかけた。「こら、何やってるんだ…っと」
 黒猫はトトトと軽快に走り、跳ねて、青年の腕と肩を経由し、頭の上で丸くなった。黒髪の上に黒猫が乗っている。その毛並みはよく似ていた。頭に乗っている体勢はかなり無茶に見えるが猫はのんびりとしている。青年はずれた銀縁のめがねを掛け直してからリンのほうへ駆け寄った。
「ごめん、大丈夫だった?」
 と、猫を頭に載せた青年は心配そうに手を差し伸べる。その真剣な表情にリンはたまらず噴き出した。
「あははっ」
「え? なに?」
「だって、頭に猫のっけたままいうんだもん。おかしくって」
「ああ、なんでか定位置にされてるんだ」
 猫男は苦笑する。改めて手を借りて、リンは立ち上がった。ずっと海風に吹かれていたので猫男の手はとても温かく感じられた。
「あ〜砂だらけだ」
「へいき。叩けば落ちるよ」
 砂浜は乾いていたので、適当に服を払うとパラパラと砂はすぐに落ちた。
「シュレディンガー、君ねぇ」
 猫男は頭の上に乗る猫を諫める。当たり前だがいっこうに話を聞く気配がない猫に、猫男はぐらぐらと頭を振って抗議した。それでも猫はあぶなげなく頭の上でくつろいでいる。
「その猫、シュレディンガーっていうの?」
「うん」
「量子力学?」
 にやり、とリンが笑うと猫男も「そう」と合わせて笑う。
 猫にシュレディンガーという名は、共通の知識を持つ者に通じる一種のシャレだ。
「犬にパブロフって付けるようなもんだよね」
「そうそう、卵にコロンブスって名付けたり」
「壺にクライン?」
「海にディラック」
 何個目かのやり取りで、リンは思い出したように海へ向き直った。
「───"限りなく広く深きもの"。本当にそうね」
 それが海だ。風が吹いてくる。一体、どんな場所で風が生まれているのだろう。
 猫男も倣って海を見た。
「朝早くからここでなにしてたの?」
「海、みてたのよ」
「見てるだけ?」
「そう。あたし、欧州(EU)の内陸から来たから、海が珍しいの」
「じゃあ、こっちには最近?」
「そう、たった今」
 胸を張って言うリンに青年はくすりと笑う。
「ようこそ極東(ファーイースト)ジャポニカへ」
 改めて握手をした。
「ねぇ。やっぱり泳ぐ人はいない?」
「いまどき、そういう海辺は珍しいと思うけど」
「あのね、いくらあたしが内陸出でも知ってるわよ? VOIDのとき死体が積み上げられて感染源にもなったから、って理由は」
 猫男ののんびり口調に少しだけ苛ついて、つい声を荒げてしまった。
 またやってしまった、とリンは内心で舌を出す。こうやって意味もなくつっかかってしまうのは悪い癖だ。猫男はあまり気にしていない様子で頷いた。
 辺りに人影が無いのは朝早いという理由だけではないらしい。
「こんな綺麗なのに…。GE(ゲー)機関の調査ではもう問題無いんでしょ?」
「昔の惨状を知ってる人はなかなか近寄れないんじゃないかな。僕の職場の人たちもめったに降りて来ない」
 それは悲しい現実だ。こんな大きな、こんな綺麗な景色に人が誰もいない。ただ海だけがそこにあって、人間は近づこうともしないなんて。
「…それでもやっぱり、ここに還るのかなぁ」
 リンは無意識のうちに呟いていた。
「え?」
「あたしのおばあちゃんがよく言ってたんだ。“すべての生命は海から生まれ、死して海へ帰する”」
 リンは暖炉の前に座る祖母を思い返す。
「“其れは誰しも辿る終の径。何れは大海へ還るのだから、いずくんぞ迷わん”」
 祖母はたくさんのことをリンに教えてくれた。大きな手で頭を撫でながら、いつも話をしてくれた。
 どんなに迷っても還る場所は決まっている、なにも不安になることはないのだと。今、迷っていることは長くは迷わない、目を瞑り落ち着いて考えた末にその先を決めればいい。
「あたしが生まれたところは海がなかったから、ずっと想像するだけだったの。だから死ぬ前に、一度は見てみたかった」
 猫男は興味深そうに聞き返してくる。
「すべての生命?」
「そう、ぜんぶ」
 すると猫男は遠くの波を見て目を細めた。
「じゃあ、こんな広い海へ還ってしまったら、会いたいヒトを探すのも難しいね」
 意外な言葉を聞いてリンは返事をするのが遅れた。
「それは、しょうがないよ。死んでからも会いたいヒトに会えたら、生きてる意味がないもの。…って、これもおばあちゃんからの受け売り」
 猫男はリンに笑顔を見せた。
「こっちにはどうして? 観光?」
「就職」
「もしかして、そこ?」
 と、猫男が背後を指差す。海辺の小高い丘の上に大きな白い建物があった。さらにその向こうには高いビルも見える。
 リンは目を瞠った。
「あなた、AILA(アイラ)の人?」
「そうだけど」
 のんびり答える猫男の回答に、リンは表情を険しくする。さらに問い返した。
「技術?」
「うん」
 頓着なく頷く猫男。リンはしばし絶句したあと、猫男に背を向けた。
「なーんだ、そうなんだ」
 冷ややかに口にして、そのまま3歩、砂浜を歩く。そして振り返った。
「ねぇ、アルティマー博士ってどんな人だった?」
「A博士は1年前に亡くなったよ」
「知ってるわよ! だから過去形で訊いたじゃない、鈍い人ね」
「僕は半年前に入ったから、面識は無いんだ」
「ふぅん。…ねぇ、あなたはどうしてAILAに入ったの?」
「Hu(ヒュー)の完成をこの目で見るためかな」
「そう」
 リンはもう一度水平線を睨んだ。
「あたしは、Huの失敗を見届けるためにここへ来たの」

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