キ/wam/01
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02. 予兆
1987年12月10日。
23時41分。G県K市内にある中村智幸の家の居間で、3つのグラスが鳴った。
中村智幸、その妻・沙都子、そして二人の大学時代からの友人である巳取あかね。3人は3日後に控えた、中村結歌のコンクール当日の打ち合せをしているのだった。
『しっかし大変ねー、あんた達も。恩師の結婚式ぃ? それが娘の晴舞台より大事かなぁ。ねぇ沙都子』
酔いが回っていつも以上に饒舌なあかねはソファに背を持たせ横目で智幸を見る。沙都子を名指ししているものの、自分への当て付けだということはあまり勘のよくない智幸でも分かった。
『当日には戻るんだからいいだろ』
『結歌を置いていくのは心残りだけど、あかねっていう頼りになる人もいることだしね』
『・・・相変わらず口がうまーい』
『それにー、久しぶりに二人だけで旅行だもーん。しかも北海道。結歌には悪いけど楽しんでくるよー。あかね、お土産買ってくるからね』
智幸の腕にしがみ付いて、沙都子は本当に嬉しそうに笑った。
あかねはそんな二人を見て溜め息をつく。
この夫婦は本当に仲がいい。10年の付き合いになるが喧嘩らしい喧嘩も見たことがないし、人の目の前で(沙都子が一方的に)いちゃつくのはいつもの事だし。
お互い最良の相棒を得たということだ。
『あーあ、私も早く結婚したいなーっと』
あかねの誰に向けたでもない台詞に智幸が反応した。
『巳取って高校の音楽教師なんだろ? 職場結婚とかあるんじゃないか?』
『私はもう三十よぉ。あるとしたら校長が見合い話持ってくるくらいね』
『あかね、恋愛結婚するって昔から言ってたもんね』
沙都子はワインを注ぎながら昔話を持ち出した。
(・・・そんな古いこと、よく憶えてるな)
もしそれで恋愛結婚できなかったら立つ瀬がないではないか。自分が持ち出した話題とはいえ、これ以上続くと返答に困ることになりそうなので、あかねは話を逸らした。
『そうそう、音楽の先生なんてやってるとわかるんだけど、やっぱり結歌の才能は異常よねー』
『才能・・っていうのかしらね、あれも』
『何言ってんの沙都子。3日後は全国コンクールよ、7歳で全国。立派なもんじゃない』
『環境がものを言ったって気がするけど、あの子の場合』
環境、というのは両親が芸大卒で、二人とも音楽に心酔していた為、それを学ぶ知識と時間には不自由しなかった、という意味だ。加えて本人のやる気があればこうなっても当然だと、沙都子は思っていた。
『環境だって才能よ。・・・でもやっぱり、結歌はそれだけじゃない気がするのよね』
『天才・・・か。モーツァルトに例えるなら、あなたは最初の師、まさしくレオポルトね』
沙都子はくすくす笑いながら智幸のほうへ振り返る。
『・・・違うよ』
今まで黙り込んでいた智幸が苦笑する。グラスの中の氷を眺めて目を細めた。
『え?』
『僕はレオポルトじゃない。どちらかというとモーツァルトの才能を妬んでいた、サリエリのほうさ』
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