キ/wam/01
≪6/7≫
6月24日火曜日。
放課後、図書館でのテスト勉強を終わらせた中村結歌は、忘れ物をとりに教室へ向かっていた。既に6時を回っている為、テスト前ということもあって校舎内は無人に近い。薄暗い教室の中で息をひそめてしまうのは、この沈黙さ故であろう。心細くなって、手に取った教科書をカバンの中に入れもせず、そのまま教室を後にした。
自分の足音だけが響く廊下を、結歌は足早に通り抜けた。2年生の教室は4階にあるので、
道程の遠さを考えると結歌が溜め息をつくのも致し方ない。
「・・・?」
─────────鳴った。
突然、床が消えたような、足元が浮くような感覚に陥る。
・・・・呼ばれた。
知っている感情。結歌は顔をしかめて立ち止まった。
(・・・・・)
衝動、というのだろうか。まるで波のように、周期をもってそれは押し寄せる。胸が熱くなり、溢れそうになる欲望。
それは懐かしく、悲しくて優しい。
今の生活には全くの無関係なものなのだが、無駄と分かっていても、捨てきれずにいるものは誰にでもあるものだ。
結歌は自分のその感情を否定している。いや、否定したい。
かなり長い時間迷って、結歌は振り返り階段を昇る。渡り廊下を通って本館の奥へと歩を進めた。
足が逸る。
屋上へと続く、いつも昇る階段を今日は素通りして、そのさらに奥の教室へ。
息を切らし、歩を緩めて歩み寄る。
「・・・・」
その扉は開かれていた。西日が照って窓枠のシルエットを床に映し出す。
存在する生命体は、その空間では結歌ただ一人だった。ひんやりとした空気は全てのものの侵入を拒絶するか如くその場を占めている。
そして当然のようにそこにある黒い、奇妙なかたちの楽器。
冷たい曲線を描くピアノ。
半瞬だけ躊躇して、結歌は室内に足を踏み入れた。
警鐘。
やめろという声がする。
結歌が自分の次の行動を予見するのは容易いことだった。
引き返したほうがいい。
(だけど)
たどりついたその手は、迷わずピアノのふたを開けた。
鍵は掛かっていなかった。
白と黒。両腕をいっぱいに広げた長さくらいに、並ぶ、モノトーンの鍵盤。
十本の指を置く。
懐かしい感触。
結歌は息を飲んだ。
ポ────ン。
軽い音が、部屋全体に響く。
そしてそれは結歌の心にも、大きな波紋を生んだ。
(・・・・お父さん)
結歌は笑った。その目には涙が浮かんでいた。
続けて、鍵盤をたたく。人差し指一本で、淡々と、一つの曲を弾いた。
アイネ・クライネ・ナハトムジーク。ト短調K.525。2楽章。
モーツァルト。
しばらくするとそれは変化した。伴奏がつく。ゆっくり、そして速く。原曲を無視して曲調は次々と変わっていく。
静かな、人気の無い校舎に響いた。
一人も観客はいない。それでもこの大気に震える音は、何かに伝わるのだろう。
愛しく思う。この音。そして奏でる指。
それは、北川萌子も松尾郁実も、内田桔梗さえ知らない、中村結歌の姿だった。
「あ・・・」
突然曲が止まる。指が絡まったのだ。
結歌は自分の両手を見つめて苦笑した。
「・・・やっぱり、いきなりは無理か」
何年も使っていない指だ。もう弾けなくなっていてもおかしくない。
(馬鹿みたい)
やりたい事ならばやればいい。
いつまでも過去に捕われていることはない。現在を生きればいいのに。
つまらないことに、自分はこだわっているのかもしれない。
「・・・驚いた」
「!」
突然の背後からの声。さほど驚いていないように感じられる言葉に、心臓が止まるかのような驚愕を味わらされたのは結歌のほうだった。
声の主を察して、結歌は振り返るよりも態勢を整えるほうに神経を張り巡らせる。
「音楽、嫌いって言ってなかった?」
三高祥子の意地悪い質問に、結歌は即答する。
「嫌いよ」
低く力強い台詞を吐いた結歌を祥子は横目で見やる。背を向けられている為表情は見えない。
もとより、祥子には相手の表情を見る気など無いのだが。
「・・・そうは見えないけど」
祥子は音楽室に入り、一番近くの机の上に腰を掛ける。結歌はぱたんとピアノのふたを閉めると、笑顔で振り返った。
「三高こそ、こんなに遅くまで何やってたわけ?」
「担任に呼び出されてたの」
その言葉に結歌は目を丸くした。内心では祥子がさらなる追求をしないことに安心しながら。
「何やらかしたのよー、高田さん、話し始めると長いんだから」
「この間の進路調査、白紙で提出しただけよ」
「だけ・・・ってあんた。そりゃ呼び出しもくらうよ。あの人こーいう事に厳しいのは知ってるでしょお?」
一応、この佐城高校は進学校と言われている。もし進学するとなれば受験対策が3年生になると同時に始まるので、せめてこの時期におおまかな進路を決めておかなければ外野がうるさいのも当然と言える。
「・・・三高って何やりたいわけ?」
ふと、結歌は思いついたことを素直に口にした。
「・・・・・わからない」
(あれ・・・?)
祥子の答えは結歌にとって意外なものだった。
今のはもしかして祥子の本心を聞いたのかもしれない。
「三高が自分のこと喋るなんて・・・・珍しいじゃん」
「失礼ね。私だって真剣に考えてるのよ。・・・お金払ってまで勉強したいことがあるわけでもないし、その金銭的余裕もない。就職するにしても、私の場合1ヵ月と経たないうちに辞めることになるだろうし」
ここまで祥子が雄弁だったことがいまだかつてあっただろうか。
そのことに驚きながらも、結歌は祥子の進路に関しての考えを黙って聞いていた。
「いっそのこと、山にこもって自給自足できたら楽かもしれない」
冗談とも取れる台詞を祥子は真顔で言う。その判断は結歌には下せない。しかし、一つわかったことがあった。
「・・・三高って、誰にも興味が無いのね。だからいつも平然と、一人でいられるんじゃない?」
「──────」
意表を突かれて祥子は沈黙した。しばらくして説得力の無い、弱い声で言う。
「違うわ。・・・誰にも興味を持たれたくないのよ」
「それは自意識過剰というのでは・・・・。まあ、人間関係うまくやらなきゃ就職はできないよねぇ」
祥子みたいな人は、きっと社会に馴染めずに息苦しい毎日になるだろう。とくに彼女のように、自分を変えようとしない不変の意志を持つ人には。
「中村さんはどうなのよ。経済学部だっけ?」
結歌は目を見開く。
祥子の無表情さが憎らしいと思ったのはいったい何回目のことだろう。
「なんであんたが知ってんのよっ!!」
「あの先生が、杜撰なのは知ってるでしょ。進路調査の紙が机の上でそのままだった」
ぱくぱくと結歌は口を開閉させる。すぐに言葉は出てこない。
別に知られるのが嫌なわけではない。何故か祥子には裏をかかれることが多いので、それがさらに一つ増えたことが不愉快だったのだ。
仕返しを試みても、別に罪ではあるまい。
「三高ってさー、何か私のこといろいろ聞いてくるし、付きまとってくるし。もしかして、あんた私に興味あるのー?」
わざと嫌味を込めて言った結歌の言葉に祥子は笑ったようだった。
「あるよ」
あまりにも簡単に、そう答える。しかしその口調はあまり社交的なものとは言えなかった。
「え・・・? 本気で?」
「興味あるよ。どちらかというと悪意がこもってる意味でね」
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