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 郁実は気づいていないらしいが、実は結歌も自分から謝るタイプではないのだ。
(私、三高に会うことを恐がっているのかもしれない)
 もし今日、三高祥子が登校していたら自分は目を合わせられただろうか。
 誰かに言い触らすほど浅はかではない。でも、これから三高祥子に対する自分の態度は、この間までのそれと違うものになる気がする。
 いつも通り笑って声をかけられないような気がする。
(誰だって内心を見透かされるのは嫌に決まってる)
(そうに決まってる)
 一階の渡り廊下の途中。掲示板に貼られた吹奏楽部の定期演奏会のポスターを見上げた時のことだった。
「中村結歌っ!!」
「・・・・っ」
 突然名前を叫ばれれば誰だって驚く。さらにその声が放課後の校舎にエコーが響くほどの音量があるならなおさら。
 一瞬だけ、使いが現われたのかとも思ったがその考えはすぐに消えた。何故なら、振り返ったそこにはどう見ても普通の人間・・・四十代と思われる女が立っていたからだ。
 その人物は息を荒くして物凄い形相で結歌を睨んでいる。つかつかと歩み寄ってきて結歌の肩を掴んだ。
(何なの? この人・・・)
「あなた、中村結歌ね?」
「は? ・・・はぁ、そうですけど」
 ぱん、と乾いた音がして左の頬が熱くなった。叩かれたのだ。手加減しての平手だということはわかったがそれなりに痛かった。何が起こったのかすぐには判断できず、左頬を手で押さえると、結歌は相手が誰かを確認しないうちに罵声を浴びせた。
「・・・いきなり何すんのよっ!」
「怒ってるのはこっちよっ!! ・・・・こんな所で何やってるのよ・・」
 最後の一言は泣きそうな表情だった。
(──────)
 ふと、その表情で何か思い出しかける。
 落ち着いて目の前の人間を見ると、何やら懐かしく感じなくも無い。どうにか思い出そうと記憶をたどるが、相手の態度を見ると思い出したくないようにも思う。
「・・・・誰?」
「忘れたとは言わせないわよ。・・・私よっ、あなたの両親の友人」
 頭の中で何かが閃いた。あ、と声が出かける。どうにか記憶の糸がつながると突然視界が開けたようにすっきりした気分になった。
 先程この人物が見せた表情は、結歌の両親の葬儀の時に見た巳取あかねの表情だったのだ。
「あかねさんっ!?」
 指を差しおもいきり叫んでから、はっと我に返る。目の前で腕を組み頷いている巳取あかねがどうして怒っているのか、だいたいの察しがついたからだ。
(そうだ・・・。この人は昔の私を知っている)
 というか、昔の結歌しか知らない人間なのだ。
「どうしてピアノをやめたの?」
 単刀直入。結歌を壁に押しつけて顔を近付ける。
 結歌は目を逸らした。
「あ・・あかねさんには関係ないじゃない」
 正直に話すことなどしない。だいたい十年前のあの日、ピアノをやめる為にあかねと一緒に暮らすのを拒んだのだ。
「・・・・あんたねぇ」
 あかねの低い声は憤りで震えていた。
「私の勝手な意見だけど、あなたには才能があるのよ! 努力で勝ち取る才能もあるけどそれさえ与えられない人間も沢山いるのっ! 生まれつき持ってる人間がそれをやらないなんて・・・・不条理だわっ」
 継続こそ力、なんて言葉は何の役にも立たない。天分の才の前には全てが無意味。それは万人の努力とその時間を無に帰すようなものだから。
 嫉妬と羨望、そして尊敬。・・・人、それを憧れと言う。
「才能なんてないっ!」
 あかねの言葉に我慢できなくなり結歌は叫んだ。
「空名を背負わされてるのは私よ、頭の中に聞こえてくる音をただ書き写すだけ、そんなものが才能なの・・・?」
 結歌に言わせればこれは「彼」のちから。それは望んだものではない。
「私が言いたいのは、どうしてそれを隠すのかってことよっ! ・・・・あっ」
 あかねの力説はいまひとつ決まらなかった。何故なら、丁度二人のすぐ後ろを数人の生徒が通り過ぎたからである。この状況では叱る教師と叱られている生徒、悪くて恐喝されているように見えなくもない。
 こほん、と体勢を整える為に咳を一つ。ひそひそと話ながらこちらに視線を送りつつ帰っていく生徒たちをやり過ごした。
 結歌に言わせれば、さっきの生徒たちがもう少し興味を示してくれれば、それに乗じて逃げられたのかもしれないのに。
「・・・・まぁいいわ、なんらかの事情があるんだろうから。その事情を聞くとあんたを許さなきゃならないから尋ねないでおく。それより・・・音楽の授業、ずっとサボってるらしいわね」
「何故それを・・・・」
「私がどうしてここにいると思ってんの。私は結歌がサボってる音楽の代理教師よ」
(そういえば郁実たちが言ってた音楽の・・・)
 おもしろい名前の人、と言い掛けてやめた。余裕があるのもここまでだった。
「嫌いだからってわけじゃないでしょ? そうやってそのものから離れていないと・・・無理にでも距離をおいておかないと音楽にのめり込んでしまうから。そうすることで音楽に夢中になってしまうのが恐いのね?」
「──────!!」
 図星だった。結歌は自分の行動の意味を他人から指摘されて、今まで目を背けていたことも認めざるを得ない。
 しかし、結歌はあかねの言葉を聞き、全く違う事を考え始めていた。
(そう、私は逃げてる。逃げることで笑っていられる。使いから逃れる為、音を手放した・・
・・・じゃあ三高は? 一人でいたいのに、人間の中で生きなければならない三高は?)
《いっそのこと、山にこもって自給自足できれば楽かもしれない》
 三高祥子は?
「結歌っ」
 しつこく絡んでくるあかねから逃げ出したい一心で、結歌は次のように叫んだ。
「放っておいてよっ、私の気持ちなんかわからないくせにっ」
 そして逃げる。
 年齢差からいってもあかねが結歌の足に追い付けるはずもなく、あかねは追跡を諦めた。
「・・・あのバカ」


 結歌は叫んで走りだしてから、自分自身の言葉に驚いていた。
 あかねが結歌のことを語る台詞で気づいたことがある。
 どうしても重なるのだ。・・・・祥子と、自分が。
『私の気持ちなんかわからないくせにっ』
 祥子にはわかる。
 結歌の恐怖心だけでなく。
 妙なちからを持って、そのせいで自分の生活が変貌したことの辛さ。
 本当の意味で同情するだけの材料が祥子にはある。
(私、三高と同じなんだ・・・)
 結歌は音を出すことで使いに見つかるのが恐い。だから音楽から逃げている。
 祥子はきっと、人の声を聞くのが恐い。だから、一人で行動している。誰も寄せ付けない。
 そして祥子は言った。
《あなたには相談できる友達が沢山いるじゃない!》
(三高にはいない)
「・・・・・三高」
 目頭が熱くなった。あの時祥子を否定した自分の愚行を責めたい。
《あんた何なの・・・?》
 祥子に向かってそう言った。あの時の自分にはわかってなかったが祥子は傷ついていたはず。
 結歌は校門の所まで走り、壁に手をついて足をとめた。距離はそんなになかったはずなのに運動不足がたたって心臓がばくばく言っている。
 しかし首筋を流れる汗を、結歌は気持ち良く感じていた。
「・・・私って、おーばかものだわ」
 壁に額をつけてくすくす笑う結歌を、通り過ぎる生徒たちは不気味そうに眺めていた。

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