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 音楽学部全学科全生徒に、個人レッスンの授業は設けられている。
 学校の敷地内には練習棟という建物があって、部屋数は三十近く、全て防音である。学期の初めにカリキュラムが組まれ、週4回、講師と一対一で向き直らなければならない。それは笑いあり涙あり口論ありの孤独でハードな時間であった。教えるほうも一人なら、教わるほうも一人。当然、注意されるのも一人だし、しぼられるのも一人である。練習不足を指摘されればひとたまりもない。最後まで気まずい雰囲気のまま、講師のマシンガントークを受けなければならなかった。
 作曲科もその例外ではなく、ピアノをはじめ、管楽器や弦楽器、その音を知るために打楽器もやらされる。時にはコールユーブンゲン程度の歌もやる。そして曲作りを要請される。
 今日、中村智幸の個人レッスンはピアノだった。そこまではよかった。しかしコンクールの曲ができてないことを白状させられると、後はもうボロボロ。一時間小言を聞いていたようなものだった。
 そんな授業をどうにか終えて、智幸が練習棟の廊下を歩いていた時のことだった。
「おーい、ユキー」
 背後から声が聞こえた。聞いたことのある声だったが、それが自分の名前を呼んでいるのだと気づくのには時間が必要だった。
 それに気づけば相手を確かめる必要もない。智幸をそう呼ぶのはこの学内でなくても一人だけだから。
 振り返る。そこにはくわえ煙草の男が立っていた。髪は少し長め(切るのが面倒なのだろう)皮ジャンにジーンズという格好で、片手にはクラリネットケースを抱えている。
「朗」
 智幸はその姿に目をやると、足を止めた。よっ、と男は軽く手を振って笑った。
 市川朗。器楽科クラリネットの三年生、一見コワイお兄さんにも見えるが、その、気の良さを智幸はよく知っていた。
「9月の合同演奏以来か。そんなに広くない校舎なのにめったに会わないな」
「最近、おまえがサボりがちなの知ってるよ」
「うるせー、バイトが忙しいんだ」
 朗のアルバイトはジャズ喫茶のバンドである。智幸も見に行ったことがあって、ピアノやサックス、コントラバスなどと一緒に演奏していた。それを聴いた智幸は、朗の音はオーケストラよりバンド向けだと、なるほど納得したものだ。
 そもそも朗と知り合ったのは、一年の時の森都祭。ひょんなことから、曲や音に対する意見がお互い共通していることがわかり、意気投合。二人で夜遅くまで討論したりもした。
 たまに会えば音楽の話で盛り上がる、気心が知れた仲だった。
「朗も個人レッスン?」
「そう、というか、ほとんどいびられてた。休みが多いから、一曲演ってみせろってさ。学校サボったくらいで腕を落とす俺じゃねーって、言ってやりたかったけどやめた」
 学校には来てなくても毎日吹いている。それで講師たちを納得させることはできないが、朗は実際、一曲演奏し、それで黙らせてきた。
 朗の自信がありそうな態度に、智幸にもそれがわかった。
「おまえは? そーいや、三年は強制だったな。モリオト祭のコンクール」
「ああ」
「ユキの曲、楽しみにしてるからな」
 わざとプレッシャーをかけさせるつもりの言葉だ。含み笑いとともに、意地の悪い視線を送っている。
「そっちは? オーケストラには出ないのか?」
「協調性がないもんで。・・・気楽に客席から聴いててやるよ」
 そう言うと、朗は腕時計を一瞥して荷物を抱え直す。
 智幸もその動作を見て了解する。
「クラリネットのソロがあるなら、二年の石原っていう男を誘え。おまえ好みの音、出すよ」
「考えとく」
 曲が出来ていないのに気が早いとも思うが、智幸はそう答えた。すると朗は、じゃーな、という言葉を捨て台詞に廊下を走り始めた。昼からのアルバイトに行くために。

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