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3.

 モリオト祭まであと五週間。
 中村智幸は本格的に切羽詰まってきていた。
 まわりはとうにオーケストラとの練習を始めている。智幸の五線譜には、まだ音符が乗っていなかった。少し書いては消して、また少し書く。その繰り返しだ。
 さあ、どうするか。
 書こうと思えば書ける。いざとなったら、昔、創った曲をオーケストラ用にして持ってくる、という手段もある。そのかわり同じ学科の人間には白い目で見られること、間違いないだろう。
 それとも。
(“いいもの”を書けるほど、自分の力が無いということだろうか)
 できるだけいいものを書こうと、今、悩んでいるのは、自分のちからを過信しているということかもしれない。
 自分に才能がないことくらいわかっている。
 そう、わかっているのだ。
 それでも試してみたいというのは、愚かなことなのだろうか。

「ねぇ、聞いて聞いてっ」
 ドーン、とほとんどタックルをくらったような衝撃を、中村智幸はその身に受けた。
 構内の中庭を抜ける通路で思いっきり転びそうになる。天下の往来でそれは避けたい事態だ。
 身を切るような寒さをものともしない勢いでやってきた人物は、そのまま智幸にしがみ付き、興奮を隠せない表情で聞いて聞いてと繰り返している。
「・・・沙都子」
 ずれた眼鏡を指で直し、智幸はその名を呼んだ。
「聞いてっ。すごいの。すっごい歌を今日習ったの」
 鈴木沙都子はこの学校の器楽科声楽(通称・うた科)に属している。確か2限目は音楽史だったはずだ。智幸も受講しているが、カリキュラムの都合上その講義で二人が会うことはない。
「一体何を習ったの?」
 その気迫に押されながら智幸は言う。すると沙都子は熱が冷めない表情で、尋ねられるのを待っていたかのように叫んだ。
「“歓喜の歌”よ。音楽史の先生、それが好きなんだって。講義の途中で聞かせてくれたのっ」
「歓喜の歌って、ベートーベンの?」
「そう、第九よ」
 その時の感動を再び思い出したのか、沙都子は智幸の手を握って大きく振った。
 ベートーベンの交響曲第九番と言えば、日本では有名すぎるほど有名だ。もしかしたら知らない人はいないのではないだろうか。年末恒例の合唱曲であるアレである。
 通路で大騒ぎする二人を、通り過ぎる生徒たちは振り返って見ていた。その中には智幸の見知った顔もあり、智幸と沙都子の仲を知っている友人たちは笑いながら手を振っていた。
「私、モリオト祭の合唱には絶対参加するっ! 学内の公募、締切まだだよねっ」
「あ、ああ。確か、二十日までって書いてあったかな」
 智幸は沙都子がここまで興奮している理由をいまだ分からないでいる。第九は智幸も習ったが、基本的なデータくらいしか覚えてない。
「沙都子っ!」
 二人のもとに駆け寄ってきた影があった。息せき切ってやってくるのは、沙都子と同じ器楽科の巳取あかねであった。
「突然いなくなったと思ったらやっぱり・・・。どーしてこの広い建物の中から、中村の所に行けるのよ」
 あかねは先程まで一緒に講義を受けていた沙都子の不在に気づき、構内中を探し回っていたのだ。しかし無駄に駆け回っていたわけではない。あかねは沙都子の探し方を、経験から心得ていた。
 学部内で沙都子と智幸の仲は有名である。
 変人集団うた科の中でもその存在が際立つ鈴木沙都子。少数精鋭個性派揃いの作曲科の中、大人しい性格でなぜか人望のある中村智幸。
 沙都子を探したいなら、智幸の居場所を調べればいい。そのへんの音楽学部の連中に尋ねれば、情報は伝わってくる。
 そんな人の苦労も知らず、沙都子は今度はあかねに詰め寄った。
「あかねも一緒に出ようっ。モリオト祭の合唱っ」

  わが抱擁を受けよ 幾百万の人々よ
  この口づけを全世界に
  喜びに満ちた歌を!
  兄弟たちよ 星空の彼方に
  愛する父は 必ずや 住みたもう
  あなたの力は世間が厳しく分け隔てるものを再び結びつけ
  そして

「“すべての人々はあなたの優しい翼のもとで兄弟となる”」

「今はどこかしらで戦争が絶えない時代だけど、いつか世界中がこの歌を歌う時がくればいいね。こんなに素敵な歌をみんな知らないなんてもったいないよ」
 ついこの間、同じ地球上、遥か遠くの土地で起こったベトナム戦争は終結を迎えた。
 テレビのニュースから伝わる映像は衝撃的なものだったが、多くの人たちにとっては遠い国の出来事でしかない。智幸は自分もその一人であることを自覚している。
「・・・・・・・・中村」
 あかねは、はしゃいでいる沙都子に聞こえないよう小声で、隣の智幸に声をかける。
「第九の講義、あんたも受けたんでしょ?」
「ああ」
 智幸もそれに合わせて小声で返事をする。あかねの言いたいことは何となくわかった。
 目の前で大騒ぎしている人物に、二人は同じ意味の視線を送る。
「あんな風に、考えたりした?」
「いや、思ってもみなかった」
 智幸は苦笑いを返した。
 鈴木沙都子の感性は2度と出会えない類のものかもしれない。寛大でグローバリズムと言えるほどの視野の広さ。しかも本人はそれが天然で真実本気なのだ。無知からくる幼さとも違う。同じ歳で、同じ時代を見てきたはずなのに。
 聞いているこちらは、照れ笑いではなく、泣きたくなるのは何故だろうか。
 翼を失ったような思いに駆られるのはどうしてだろう。
 神しか持ち得ないはずの翼を、沙都子はその身に宿しているような気がする。
「一人で歌うのもいいけど、皆で歌うのも好き。不思議な統一感・・・っていうか、一緒にいるんだなぁって気がするもの。
 歌が世界を結ぶの。すごいでしょう?」
「───── 」

 沙都子、そしてあかねは気づかなかった。沙都子の言葉を聞いて、智幸のなかに火が灯ったことを。
 そう、彼は今、すぐにでも、ピアノの前に飛んでいきたかった。

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