キ/wam/SOE
≪6/14≫
4.
翌日。
中村智幸は学校の廊下を疾走していた。
だいたい大学生にもなって、こんな風に走ることなど滅多にできるものではない。そんな貴重な体験、全速力で走りながらも智幸は両手の楽譜だけはしっかりと抱えていた。
朝イチの授業が終わった後の休み時間。それぞれの教室からは楽器を持った生徒たちが、ぞろぞろと廊下に溢れていた。たいていケースを片手に持っているが、皆、慣れてくると面倒臭がって楽器をしまわず、そのまま持ち歩いている。だから楽器どうしがぶつかった時は大惨事になりかねない。だが慣れている、というのは楽器の扱いに慣れているという意味だ。そんなへまをする者は本当に少なかった。
そんな状況の中を智幸はうまく進んでいく。そして少しでも見知った人間を見ると、こんな風に声をかけた。
「クラリネットの市川朗、どこにいるか知らないかっ?」
器楽科クラリネットの学生のほとんどは、この時間208教室に集まっていた。
作曲科が一斉に集まる授業があれば、クラリネットの学生が一同に会する授業もある。アンサンブルやちょっとした曲もやるが、ほとんどは基本的なことで、お互いの音を聴き合う。まあ、そんな授業だ。
よほど大きい楽器でない限り、個人レッスンも含めて実技の授業は立って行なう。
その為、教室に机は無く、椅子が部屋の隅によせられていた。ちょっとした広場のような空間になっており、中央にはいくつかの譜面台が置かれている。
講師が来るまでの時間、所々で調音や音だしが始められていて、室内は独特の雰囲気に包まれていた。タンキングやロングトーンの練習も始まりにぎやかになった。
しかし、
バンッ
そのにぎやかさを吹き飛ばす音をたてて、入り口のドアが開かれた。
「朗っ!」
突然、大声で現れた人間に、教室の中は一瞬静かになった。
室内の人数×2の視線を受けることになったが、当の本人はそんなことは気にしてない様子。目的の人物が目に入らないのか、そのままの姿勢で視線を左右に大きく走らせていた。
教室の奥で人影が動く。窓際に椅子を引き寄せて座り、窓枠を枕に居眠りをしていたらしい。
「・・・どうしたんだ、んなにあわてて」
夢からさめきれてない様子であくび混じりの声、のっそりと起き上がった。
両手を頭上に上げて、大きな伸びをする。ごしごしと目をこする。どこかぼんやりしている。
しかし次の中村智幸の台詞に、市川朗の眠気は一気に覚めた。
智幸は息を整え、真っすぐな視線、深い声で言う。
「出演依頼だ」
「・・・・・・・・・は?」
「モリオト祭で僕の曲を頼む」
「ちょっと待てよ」
智幸の言葉を理解すると、厳しいまでの真剣な顔になる。同じ学科の人の間を縫って、ツカツカと教室を横切った。半ば智幸の体を押し出すように廊下に出て後ろ手でドアを閉める。
「あのなぁ」
智幸の表情が本気だとわかるからこそ、朗は声を荒げた。
「俺はそーいう団体行動は嫌いだって言ったろ? それもついこの間」
「オケじゃないんだよっ」
「は?」
声がうわずり、声が震えるのは、隠しきれない興奮の表れだ。それでも自信に満ちた笑みを浮かべている智幸は朗に詰め寄った。
「できればクラリネットを他に六人・・・いや、この楽器をそれなりにできる人ならだれでも」
(六人・・・って)
訝りながらも、勢いづく智幸から、半ば強引に楽譜を渡される。朗は肩をすくめて、それに目を走らせた。
一枚目にはタイトルが大きく書かれていた。
ぱっと見て、書きなおした後がほとんど無い。それは直観的に書かれた曲ということだろう。音を出さないで曲を読む側にとっては、見やすい楽譜だった。二枚、三枚、四枚・・・さっと目を通してページをめくっていく。
(・・・ずいぶん単純な曲だな)
譜面に散らばるオタマジャクシの間隔が全体的に広い。十六分音符より短い音符は無さそうだ。全体的な並びを見て思う。
ユキの曲らしくない。
智幸の創作をいくつか知っている朗は眉をしかめた。しかし。
「───────」
音符を目で追う。曲が頭の中に聞こえてくる。イメージが広がる。
朗は息を飲んだ。
まばたきを忘れて、楽譜に見入ってしまった。
智幸は本気だ。この曲から、それが伝わってくる。
そして最後のページ。まだ未完成なのだろう、七枚目で曲は途切れていた。
「・・・?」
その楽譜は総譜だったが、大譜表がやたらと狭いことに、朗は気づいた。全体のパートが極端に少ないのだ。オーケストラの場合、パート数が軽く十数はあるはずである。
パート数は七。つまり使う楽器が七個ということ。
いったい何の楽器なのか、朗は一枚目、一小節目の上の文字を見た。それぞれのパートに使う楽器が指示されている。
驚く。総譜では見慣れない楽器名が、そこには書かれていた。クラリネットではない。
「・・・これなら、誰だって・・・」
誰だってできる。
そう言いかけたが、朗は言葉を切って考え込んだ。
(おもしろいかもしれない)
朗もその楽器のプロの音色を知っている。加えてこの曲・・・。完成を想像して思わず緩む口元を手で押さえた。
朗は胸が熱くなるのを感じた。
「マジでやるのか?」
「もちろん。規定には反していない、確認済みだ」
智幸は大きく頷いた。
「多分、多くの人にとって懐かしい音だと思うから」
そして多くの人に懐かしさを感じさせる曲を、智幸は書こうとしている。
パンッと、朗は楽譜を叩いた。
「OK、おもしろそうだ。他の人選は任せてくれ。この企画を真顔で聞く奴を選ぶ」
「頼むっ」
「ところでこの楽器、学校にあるのか? 見たことないぞ」
「器楽科の先生を端から洗うよ。無かったら買ってでもやる。レンタルっていう手もあるしね。・・・それからフルートの人はさけて。変な癖をつけさせたら、責任とれないから」
使用するものと共通点を持つが、フルートとでは楽器につける口の形が全く違う。無理にを使わせたりしたら、その人のフルートの腕前は確実に落ちるだろう。
そんなところにまで気を回す智幸に、朗は笑った。
「りょーかい」
朗は智幸の創る曲が好きだった。
今回は自分がその演奏に携わろうとしている。これは演奏者として、至福の喜びではないだろうか。
その後、朗は人員集め、智幸は楽器集めに加え、曲のタイトル提出、実行委員との打ち合わせ、練習室の確保に奔走することになった。
かくして、中村智幸プロデュースの企画が、今、始まろうとしていた。
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