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 練習棟の部屋の鍵を管理室に預け、智幸と朗は本館の廊下を歩いていた。寒く薄暗い空間は、肝試しに最適かもしれないが、少々季節はずれの感もある。見慣れた場所を暗いからといって怖がる歳でもない。二人は会話をしながら平然と歩いていた。
「あの楽器やってて、不都合とかないか?」
 譜面こそ持っていないものの、智幸の頭の中ではさっきから曲が回っている。例の曲をどう演出していくかを、ずっと考えているのだ。
「不都合って?」
「クラリネットをやるうえでの後遺症とか」
「ないよ。俺がやる楽器はクラリネットと運指は同じだしな。吐く息の量の違いは、悩むほどのものじゃない」
「そうか・・・」
 明日、他の六人にも聞いてみる必要があるだろう。もし何か弊害があるようなら、智幸はすぐ降ろさせるつもりでいた。その人の専門でないことを、わざわざやらせているのだ。それが原因で元の楽器の演奏に害を加えたりしたら、申し訳が立たない。
 智幸は作曲するうえでの歯がゆさを実感していた。ピアノはともかく、管弦楽器を満足にやれない自分が、それらの作曲をしなければならないのだ。楽器の名称や外形や音は知っていても、演奏できない。そのことがこんなに隘路になるとは思わなかった。
「それにしても本当、あの曲はすごい。モチーフ提供の沙都子ちゃんには頭が下がるね」
「モチーフ・・・というか、キエチーフというか。沙都子の言葉が、きっかけになったってことは否めないよ」
「それでも、さ。今の歌謡曲もそうだけど、新しいものばかりがうけてる。新しいものを否定しないけど、俺はフォークとかも好きだ。それで言うと、ユキの曲はフォークのほうの部類に入るだろ? 使う楽器がどうこう言う前に、音楽が。どの時代になっても、そういう原点みたいな曲は残っていてほしい」
 朗の音楽論に智幸は返事を返せないほどの感銘を受けた。そんな智幸の状態は眼中にないのか、朗はさらに続けた。
「みんなもあの曲、すごいって言ってたじゃん。おまえ、やっぱり才能あるんじゃないか?」
(──────)
 何気なく言った朗の言葉は、その場に沈黙を生んだ。
「・・・・・・・・・・・・そんなことないよ」
 かなり遅れて智幸が返事をする。そして続ける。智幸はためらわなかった。
「だけど、僕の子供は才能を持って生まれてくるらしいよ」
 智幸は少しの皮肉がこもった言葉を吐いて失笑した。
 朗には誰への皮肉なのかもわからない。その言葉の真の意味を理解することはできないが、朗は手持ちのバックをわざと智幸の頭にぶつけて言った。
「何言ってんだ。おまえの子供に才能があるなら、おまえにもあるってことだろ。同じ遺伝子なんだから」
「・・・っ」
 智幸は目を見開いた。
 才能、という言葉の意味は、生まれつきの優れた能力や知恵のことである。
 理想論や道徳観は別問題だ。そういう意味を表す言葉が「才能」なのだから。少なくとも、この世界の言葉では。
 それを知っていた朗は、はっきりと言う。
「それに才能のある奴が大成するとは限らない。自分のちからをうまく使えないような奴からは、努力で名声を奪ってもいいと思うよ」
「・・・・・・」
「それにそれって、この学校にいる奴なら一度は悩むことじゃないか? 下手に開き直るより悟ったほうが強気でいられる」
 そう言う朗の口調は、まるで自分に才能が無いことを認めているようだ。それでも淡々と語るのは、過去、このような事を悩み、自分なりに考えた結果なのだろう。
 智幸は言葉も無く、朗の言葉を聞いていた。
 外に出ると、もう夕方を通り越して夜だった。まだ校舎のあちこちにあかりが灯っていて、生徒が残っているのが分かる。凍えるような風は、皮膚を切るようだった。
「俺、車だけど。ユキの家、この辺なんだろ? 送ろうか?」
「いや、歩いて帰るよ」
「そっか。じゃ、また明日。放課後の練習には顔を出すよ」
「・・・授業にも出たほうがいいと思う」
「ヒマだったらなー」
 朗は右手でキーを鳴らしながら、駐車場のほうへと走っていった。
 息をついて、智幸も校門のほうへと歩き始めた。
 黒い空を仰ぐと、その中に高く三日月が浮かんでいた。
 白く輝く弓形の三日月を見ると、ふと、ある人物を思い出す。
 胃の口が閉まるような感覚に襲われ、少しだけ吐き気を覚えた。
 その姿が闇に浮かばないうちに、視線を街の灯に戻し、足を速める。
 月を目に入れないように、家まで帰ろうと思った。

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