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「・・・始まったな」
 舞台裏の第五楽屋では、スピーカーから流れてくるオーケストラの曲を聴いて、市川朗が呟いた。
 今、この部屋にいるのは、出場者数人と、それに選ばれた数人のソリスト、計十五人程度だった。
 その中には中村智幸も含まれている。智幸の曲の演奏者のうち、朗以外はオーケストラと掛け持ちなので、今は舞台の上だ。うた科の久保も合唱のほうの打ち合わせにでかけている。
「僕はもう腰を据えたよ」
「おまえは聴いているだけだろーがっ、舞台に立つのはこっちなんだぞ」
 極度の緊張のせいもあるが、智幸の落ち着いた態度がしゃくにさわる。八つ当たりを慣行しても、責められるのは朗ではないだろう。
(まったく、変なところで度胸があるからなー、こいつは)
 今の智幸にそんなことを言ったら、真正面から礼を述べられそうで口をつぐんだ。
「客の前で演奏するのは慣れてるんだろ?」
「バイト先とは客の数が違う」
 場慣れしていると思われても困る。買いかぶられないためにも、朗は正直に言った。
 こんなに緊張したのは、本当に久しぶりのことだ。しかし緊張の中にも、わくわくする気持ちがある。
 テーブルの上に置かれた朗の指が、無意識に動いているのを見て、智幸は笑った。
「そうそう、僕はあんまり舞台に立ったことないからわからないけど、照明が眩しくて譜面が見えないってこと、あるんだって?」
「だからプレッシャーかけるようなこと言うなって。・・・あーもう、舞台で調音できないんだよな、リハの時、ピッチ合わせとかないと。それから・・・」
 早口で独り言を言う朗だが、別に彼はあがり症ではない。本番に強いタイプだということを、智幸は知っていた。まあ、そうでなければバンドのバイトも務まらないだろうが。
 智幸がコンクールの音に耳を澄ましたとき、ちょうど級友の服部の曲が流れていた。

「おまたせー」
 コンクールのプログラムが十三番に入ったころ、オーケストラに出ていた五人が帰ってきた。
 オーケストラの一人が続けて演奏できるのはせいぜい三曲である。理由は疲労。その為、一曲終わるごとに、必ず数人が入れ替わることになっていた。五人はあらかじめ、始めのほうの数曲にシフトを入れておいたのだ。
「客の反応はどうだった?」
 智幸が尋ねる。
「まあ、例年通りっつーか。特に一般客は飽きてくるんだよな。かといって、コンクールでポップスなんてできないし」
「クラシックに慣れてる教授たちは喜んでたらしいよ。今年はレベルが高いって」
 手際良く楽器を磨くと、丁寧にケースにしまう。あまり管弦楽器に縁の無い智幸は、そういう作業につい見入ってしまった。しかし、次の朗の言葉に顔を上げる。
「でも、ま、これからが本番だよな」
「そーいうこと」
「なっ? ユキ」
 突然、七人の視線を一斉に受けて、智幸は一瞬、表情に迷う。しかしここまできたことを思うと、自然と笑みがこぼれた。
「ああ」
 それぞれが楽器を組み立て始める。
 すると、同じ楽屋の中にいた他の人達が、次々と振り返った。遠慮がちに視線を送り、ひそひそと話を始める。もちろん、その話とは、七人が使う楽器のことについて、だ。
 始めは皆、驚いているが、少したつと明らかに態度が分かれる。少しの嘲笑と、呆然とした視線。
 智幸たちは、そんなことは全く気にしていない。
「僕は賞を取ろうなんて思ってないよ。ただ、多くの人に、この曲を聴いてもらいたいんだ」
 最後に、智幸は七人にそう言った。
 すでに承知しているのか、朗たちは自信のある表情を、智幸に返した。
 その時、ノックと共に、実行委員が現れる。
「十九番の中村さん、一番のリハーサル室に入ってください」
「わかりました」
 はっきりとした声で智幸は答えた。しかし、ここで智幸は別れることになる。ここから先、智幸がやることはないのだ。
「じゃーな、ユキ。ちゃんと聴いてろよ」
「もちろん。皆、がんばって」
 全員と真剣な視線を合わせる。
 そして、七人はリハーサル室へ、智幸は出入口へと歩き始めた。


 「関係者以外立入禁止」。そう書かれたドアから、中村智幸が出てきた時、ちょうど合唱団が楽屋入りするところだった。
 かなりの団体で、彼らは第一から第四楽屋に入ることになっている。第五楽屋は、先程、智幸がいたところで、作曲コンクールの出場者があと四組残っているのだ。
 もしかしたら鈴木沙都子も、この団体の中にいるかもしれない。そう思ったが、智幸が見る限り、その姿は見えなかった。
 智幸は階段を登り、ロビーに出た。
 赤い絨毯の上を歩き、窓際へと近づく。窓の外は、その気温がわからなくても、どこから見ても冬で、枯れ木が風に揺れていた。
(・・・・・・一年、過ぎたのか)
 あまり良くない意味の表情を浮かばせる。それからも分かる通り、鈴木沙都子と付き合い始めて一年過ぎた、ということではなかった。
 熱くなる頭を抑えるように、頭を左右に振って、智幸はロビーの椅子に座った。
 その時、アナウンスが流れた。

『エントリーナンバー19。音楽学部作曲科三年生、中村智幸作曲。「大地の歌」』

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