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 中村智幸は、響森館のロビーの椅子に座っていた。
 ホールに入って誰もいなくなったロビーに、スピーカーから、智幸の曲が流れていた。
 基本的にアンサンブルに指揮者は無用だ。本番になればただ黙って聴いているしかない。市川朗たちなら、うまくやってくれる。同じ練習期間を過ごしてきた智幸は、あの七人に信頼を預けていた。
 ロビーの大きい窓から外を眺め、智幸は自分の曲を、耳を澄ませて聴いていた。

 去年の今頃はそれどころじゃなかったんだ
 一年前のモリオト祭に出場しなかった理由を、智幸は沙都子にそう言った。
 去年の今頃、というのは1978年11月のこと。
 ツカイと出会い、そして別れて1年が経過していた。
 黒い服と帽子とマント、銀色の錫杖、そして智幸以外の人間には見えない姿で、ここに現れた。そして、いくつかのものを残して消えた。
 ツカイは何も教えてはくれなかった。ただ現実になる未来を突きつけただけだった。
 鈴木沙都子とのこと。
 そして、近い未来に誕生する命のこと。
 いや、一つだけ、ツカイが智幸に教えたことがあった。
 W・A・M。
 それが何を示す単語なのか、この一年の間に智幸は気づいていた。智幸の推理が合っているのか確証はない。それでもツカイの唱えた「才能の定義」を信じるなら、間違っていないような気がするのだ。
 ツカイとはあれから再会はしてない。これからも逢うことはないだろう、と智幸は思う。
 次はあなたの子供に会いにくる。
 ツカイはそう言った。それが数年後か、数十年後かはわからない。
 あなたにはもう会わないから。
 そうとも言った。その言葉を素直に認めるのは恐い。その言葉の意味を、未だはっきり分かってないフリをしている。
 ただ、今、言えることは、力の限り、自分の未来を守る。
 そう、決心する。




 智幸は最後まで動かなかった。そこで曲が終わるのを聴いた。
 最後のデクレッシェンドまで、きれいに終わるのを聴いた。
 ロビーにはスピーカーで流しているが、防音壁一枚向こうのホールでは、生演奏で客は聴いたはずだ。沢山の人たちが、この曲を聴いてくれた。
 体が熱い。静かな充実感を得る。
 しかし次の瞬間、智幸は心臓が破裂しそうな衝撃を受けることになった。
 ドワッ
「!」
 拍手。そして喝采。
 壁を破りそうな歓声が、ロビーまで聞こえた。
「・・・・・っ」
 拍手は鳴りやまない。誰かの叫び声や口笛が聞き取れる。ホールでは、智幸の曲の演奏より何倍も大きい音が、反響しているに違いない。
 これらの喝采は、市川朗ら七人、そして智幸への称賛だ。謙遜はない。素直にそれを受けとめられた。
(・・・・・・・・)
 眼鏡を外して、椅子の上に置く。
 智幸は両手で自分の頭を押さえ、座ったままうつむいた。寒気と勘違いするほどの震え、しかしそれは歓びでしかない。
 自分の創作を聴いてもらう最後のチャンス。
 それでもいい。それでもかまわない。
 この拍手をもらうだけのことをやった。自分の曲でこれだけの人が感動した。
(これだけのことをやった)
 視界がぼやけるのを見てとる。歯を割って出そうになる声を圧し殺すが、その顔は満足げに笑っていた。

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