キ/wam/SOE
≪13/14≫
8.
『作曲コンクールの全てのプログラムが終了致しました。お手元の用紙にエントリーナンバーを記入して、所定の投票箱にお入れ下さい』
実行委員長の放送が全校に響く。いっきに会場が騒がしくなり、みんな席を立ち始めた。
一般投票は、外からの客と出場者以外の学生が参加できる。その結果に教授たちの票と評を交えたうえで、受賞者が決まるのだ。
開票の間の第九合唱は、沙都子(と、あかね)が参加する。智幸がホールに向かい始めた時のことだった。
休憩時間になり、ホールの扉からは人が溢れている。その人波に目をやると、智幸は目をしかめた。そして次に、器用にも目を見開かせた。
「・・・えっ!?」
絶対、ぜったいここにいるはずのない人物を見かけて、智幸は裏返ったような声をあげた。
(なっ・・・な、なんでっ)
明らかにここの学生ではない人物(そんな人はまわりに沢山いるが)、智幸がよく知った顔、三十になるはずだが、若々しい格好でやたらと目立つ女性が近づいてきた。
失礼にあたるがおもいっきり指を差し、驚きのあまり声は言葉にならない。
「しばらくぶりね、智幸」
ショートヘアも凛々しく、白いスーツを完璧に着こなしている女性は、智幸の目の前で笑顔を見せた。光モノのピアスに赤すぎないルージュ。ヒールを履いていても、智幸のほうが少しだけ背が高い。
「ねっ・・・姉さんっ!」
「うむ。今、帰ったぞ」
腕を組んで胸を張り、豪快な返事であるが、智幸を驚かそうと、シチュエーションを画策したのが読み取れる態度だった。
中村茅子。現在29歳で、某企業に勤務する東京人、自称キャリアウーマンである。仕事が忙しくてなかなか帰ってこないのに、何故、今、こんなところに悠然と立っているのか。
「昨日、でっかい仕事が終わってね。それまで休み無しだったから、お正月休暇を長くしてもらったの。だから私は今、冬休み」
「だからって・・・」
「家に帰ったら、母さんにこのイベントのこと聞いて、せっかくだから弟の晴舞台を見てやろうと思ったわけよ。悪い?」
久しぶりに会っても変わらぬ強引さに、智幸は溜め息とともに言葉を返せなかった。
「それよりっ」
がしっと、茅子は智幸の首に後ろから手を回すと、そのまま引き寄せた。
突然のことに智幸はバランスを崩すが、それを保つには体を屈めなければならなかった。抵抗すれば離れられるだろうが、茅子の睨む視線が返ってこないという保証はない。大人しくされるままにする。
「聴いたわよ。あんたの曲」
「・・・・・・」
茅子はぱっと手を離すと、今度はガッツポーズをとる。
「さすが、私の弟っ!」
そして派手に笑う。当然、そこは休憩中のロビーなのだから人目もある。何人かは大声で笑う女性に振り返っていた。
「姉さんっ」
人目を気にしたのは智幸のほうで、本人は何とも思っていない。
「そうそう、沙都子ちゃんにも会ったわ。この後、合唱に出るんでしょ? 見に行きましょうよ」
強引に手を捕まれ、引きずられるようにホールへと向かわされた。
しかし、智幸を呼び止める声がかかった。
「ユキっ! 聞いてたか? あの歓声っ」
ステージ衣装のまま、市川朗が走ってきた。興奮を隠しきれず、微かに指が震えているのを見て取ることができる。智幸はその手を取り、強く握った。朗もそれを握り返す。
「もちろん聞いてたよ。おつかれ」
「ホールでのリハ、やらなかったから心配だったけど、結構響くんだな。俺、一瞬、自分の音に酔ったよ」
「僕の想像以上の出来だった。こんな風に音にできたのも朗たちのおかげだよ。本当にありがとう」
「礼を言いたいのはこっちだって。サンキューな」
もう一度握手を交わすと、ようやく朗は、智幸の隣の茅子の存在に気づいた。智幸に顔を近づけて耳打ちする。
「おまえー、沙都子ちゃんというものがありながら」
こんな年上の美人と、と朗は言いたいのだ。智幸は冗談じゃない、と言わんばかりに頭を振った。
「これは・・・」
「どおもー、沙都子ちゃんに続き二号さんの茅子でーす。よろしく」
わざとらしく科を作り、茅子はポーズを取る。げっ、と智幸は叫んだが、さらに朗にも発言権を取られた。
「作曲科の奴らがここにいたら面白いことになるだろうに」
それこそ冗談では済まされない。卒業までこの話題を持ち出されることになるだろう。智幸は本気で焦って、どうにか口にした。
「朗っ、これは僕の姉! そんなんじゃないってっ。・・・姉さんも、変な噂立てられるようなこと言わないで」
「ジョークよ。ねぇ? 朗くん」
「ま、そんなオチだとは思ってたけどな」
茅子一人でも大変なのに、タッグを組まれては反撃のしようがない。これ以上、遊ばれないためにも、智幸は黙るしかなかった。茅子は時計を見て、大変、と声を高くした。
「それより、合唱、始まるわよ。朗くんも早く着替えてきて、一緒に見なきゃ。お疲れさまはその後よ」
今回、合唱に参加したのは約二百人。実に学内生徒数の五分の一である。
それだけの人数がステージに入りきるはずもなく、客席にも溢れでている。このホールの人数構成比は、客と合唱団+オーケストラでほぼ二対一。それだけの人数の演奏。聴いているほうはその迫力に誰もが口を閉ざした。
音を全身に受ける、という体感は生演奏でしかわからない。音は空気の振動であり、その振動は音を聴く者の体をも震わせる。
演奏側はその練習や仲間との関わりが全体の結びつきを強くする。同じ苦労、同じ歓び、同じ時間を過ごし、歌を通じて一つになる。もちろん、同じ歌を聴いている人も。
人が人だけで奏でる和音。
たぶん、演奏を聴いて泣きたくなるのは、この空間にいることの歓びだと思う。そして歴史の永さを知る。
この曲は約二百年、歌い継がれてきた。それだけの歴史を生きた世界中の人が、この歌を歌ってきたのだ。
中村智幸は客席の一番後ろ、ロビーへと続く扉の前でそれを聴いていた。
白と黒の服を着た合唱団は、整然としているものの、その表情を見ると、皆楽しんでいることがわかる。オーケストラボックスでは、全員の目が指揮者に向けられ、不思議な統一感がある。そして、それらと向かい合う聴衆。一番後ろにいる智幸からは背中しか見えない。それでも多くの人が、その声と演奏に引き込まれているのが空気でわかった。
あなたの力は世間が厳しく分け隔てるものを再び結びつけ
すべての人々はあなたの優しい翼のもとで兄弟となる
ドイツ語の滑らかな発音で荘厳な曲が語られる。心臓を揺らす激しいユニゾン。ホール全体にそれは響き、聴く人の体と心をも震わせた。
そう、沙都子が言うとおり、いつか世界中が、この唄を歌えばいい。
(大丈夫)
自分のなかに、そう言い聞かせる。
智幸も他の人と同様、同じ空間にいる。同じ大気の振動を感じている。この世界にいる。あたりまえのことかもしれないが、智幸は最高の安らぎを覚えた。
一年前、ツカイに出会った後から、周りの人との疎外感を持つことがあった。ツカイという人間外の存在を、自分だけが見えたという反優越感。誰もが知り得ないはずの未来、運命を少しだけでも教えられたこと。そして自分だけが知る、という重責。秘密を抱えることの重さ。
自分だけが違うとは思わない。それでも、よくわからない、周りに取り残されたような感覚に陥ることが、この一年の間に少なからずあった。
でも大丈夫。
音楽を聴いて感動を覚えるあいだは、自分を好きでいられる。自分を好きでいられるうちは、この先長く悩まされ続けるであろう“教えられた未来”のことに、押し潰されないはずだ。
未来のことは、いつか過去になるから。
“教えられた未来”が違え、今悩んでいることが、ばかばかしかったと思う時がくる。ツカイと交わした言葉を笑い話に、沙都子や未来の子供に話せる日がくる。智幸はそう願う。
ツカイの言葉に惑わされない。
悩んでもいい、でも迷ってはいけない。自分の生き方を。
ツカイの言うことは真実ではない。この先自分が体験していくことが、正真正銘の真実なのだから。
《智幸は彼女と結婚するよ》
ツカイにそう言われなくても、ステージの上、天を仰ぎ歌う彼女を見て、智幸は確信する。
きっと、彼女と生きていく。
そしてこの決断に後悔しないことを誓う。
この日の、この歌に。
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