068. ひこうき雲(GrandMap/だれか/45話読了推奨)



 − この手紙のこと、思い出したらでいいの。

 − 確かめてきて。 あたしの───…








 ばんっ
「はろーっ!」

 その扉を開けると、2人いる女のうち手前に立つほうは、まるで来るのが判っていたかのようにこちらを向いていた。何故だろう。ノックもしなかったのに。
 わずかに遅れて、奥に座っていたほうもこちらを見る。
 2人とも、突然現れた男に、特別驚いた様子は無かった。でも明かな違いがあって、手前の女は警戒心がそのまま顔に出ているし、奥の女は来客に見せる笑顔の裏でこちらの出方を窺っている様子だ。この時点で、多くの情報を持っているのは手前のほうだろう。
 さておき。
 登場の仕方に問題があったのか微妙な沈黙があった。けれど、扉を開けた男はそんなことを気にする性格ではない。
「フミオ、いる?」
 馴れ馴れしい口調でどちらともなく訊くと、
「…は?」
 女2人は今度は同じ、目を丸くして、これまた同じタイミングで目を合わせた。その視線でいくつかのやりとりがあったようだが、その詳細が解ったらそれは超能力だ。幸いだか災いだか男にそんなものは備わっていなかったのでもちろん解らなかった。別に解る必要もない。
 ややあって、奥に座っていた女が表情を改めてこちらを向いた。
「失礼ですが、あなたは?」
「俺? フミオの友達」
「──」
 奥の女は少し驚いたように目を細め、一方、手前の女は声を荒げた。
「ちょっと、あなた、いい加減に…」
「祥子」
「だって」
「いいのよ」
 おかしな会話だ。いい加減にしろと言われるほどの会話はまだしていないはずだが。
「あ。もしかして、君らのどっちかがフミオ?」
「たぶん、私のことだと思います」
 と、答えたのは奥に座る女だ。
「なにその思いますっていうのは」
「その前に、お名前をお聞きしてもよろしいですか」
「あ、俺? 俺はねー。アザワといいます」
 というと、手前の女は睨みつけてきた。何故、偽名だとバレたのだろう。幸いだか災いだかを持っているんだろうか。
 奥の女は澄ました顔で小さく笑った。
「あら、アナザワ(Another)さんかと思いました」
「イニシャルがAなんだ」
「ミドルネームがN?」
「そうそう」
 テンポの良い笑顔でのやりとりに、手前にいる女は挟まれておもしろく無さそうだ。けど、ターゲットが絞れた今、手前の女の機嫌は男の知るところではない。
「──名乗ったよ?」
「失礼しました。私は阿達史緒といいます」
「シオ? あぁ! シオって読むんだ?」
「ええ。よろしく。初対面だけど、私のお友達さん」
「シオかぁ、あはは、僕たち似てるねぇ。あははは」
 ひとしきり笑った後に、本題を切り出した。本題といっても、今、思いついたのだけど。
「俺とデートしよ」
「私が? あなたと?」
「そう。だめ?」
 さらに口説こうとしたところで、空気の読めない電話が鳴った。

 相手や他人だけでなく、モノや現象にまで空気の読解力を要求する日本人は頭がおかしいのでは無いかと思う。男は生粋の日本人であるが、空気を読むという日本語の意味がまるで理解できない。解るつもりもない。実践する気も努力する気も無かった。
 さておき。
 電話が鳴り響く室内、三つ巴の状態が少しあって、結局、手前の女が受話器に手を伸ばした。
「はい、A.CO.……あ、お世話になっております。──えっと、今は……来客中でして。お急ぎ…えっ?」
 言葉を切って、ちら、とこちらに目を向けた。
「はい、…そうですけど。どうして──えっ、桐生院さん?」
 その名を聞いて、男はにやりと笑った。遠慮無く足を進めて、電話中の女から受話器を奪い取った。
 抗議の声を無視。大きく、息を吸う。
「やーっほーぃ! 由眞さん。どうしたの? 俺のこと恋しくなったぁ?」
『そこでなにしてるのっ? 着いたら連絡しなさいって言ったでしょ!』
「そんな心配しなくても、俺が愛してるのは由眞さんだけさっ」
『いいから、すぐに帰ってきて! 史緒に関わるのはやめなさいっ』
「あ。それって俺のために言ってくれてるの? この史緒って、そんなやばいヒトなの?」
『……っ、もういいわ、史緒に替わって』
「はいはーい」
 男は耳から受話器を離し、史緒と名乗った女に渡す。声が漏れて状況は伝わっているのか、女はそれを受け取った。しかし、女は電話の相手の声を聞くことができなかった。なぜなら、男がごく自然な動作で、机の上の電話のフックを躊躇いなく押したからだ。
 女と目が合うと、男はにっこりと笑う。
「さっきのデートの申し込み、どう?」
「仕事中ですから」
 ぽーん、と、終業を知らせる時報が鳴った。
「終わったね」
「……」
 女は観念したように息を吐き、腰を上げた。男は丁寧な仕草で手を伸ばしエスコートする。
「じゃあ、行こうか」
「そうですね」
「史緒っ、その人は」
「わかってる。大丈夫よ」
 部屋に残った女は男を指して「その人は」なんだと言おうとしたのだろう。そして、男と一緒に部屋を出た女は、男についてなにを「わかってる」というのだろう。
 もちろん、男にはそんなことどうでもよかった。









 かすれた記憶の端。

 街の喧噪の中。
 にぎやかな声があふれる公園。

 足を止め、空を仰ぐ子供たち。
 天を指し、大きな青に描かれる白い線にはしゃいでいる。

 その中に僕らはいた。

 まだ幼く無邪気だった僕は、他の子と同じように手を伸ばす。
 高く広く大きな、自由で、悩みを吹き飛ばす爽やかな風が生まれている、空へ。

 じゃあ、あいつは?
 同じように、手を伸ばしていただろうか。







紫苑(しおん)さん」
 上を見ていたら背後から声が掛かった。
 阿達史緒。今日、男がわざわざここまで足を運んだ理由だ。
 男──紫苑は、桐生院由眞(とその秘書)も含め誰にでもそうするように大きく笑い、馴れ馴れしく声を返した。
「もーちょっと引っ張りたかったんだけどなぁ。由眞さんからの電話は運が悪かったっ」
 本名はとうにバレてた。まぁ、偽名を名乗ったのはささやかな遊びだ。
「それと、名前が似てるって言ったでしょう?」
「阿達とアザワは似てるじゃん」
「似てると口にしたのは、名前の読み間違いを指摘した後ですよ」
「うわっ、俺の失態? かっこわりぃ〜」
 うちひしぐ紫苑の仕草に、女は声を立てて笑う。紫苑はそれを横目で見ていた。
(これは、無駄足だったかな)
 想像していたよりずっと、女は裏表ない表情で、普通に、明るく笑う。
「ねぇ。髪、切っちゃったの? きれいな長い黒髪って聞いてたのに」
 そう言うと、予想どおり、女の表情はかすかに翳った。
「──…藤子から?」
「そう。手紙で」
 これは特に隠すつもりはない。
「『あだしの友達!!』とか散々のろけてた。おい、そこは男のことでも書けよ、なに自慢してんだよ、って思った」
「仲良かったんですね」
「どうだろ。小さい頃はいつも一緒にいたらしいけど」
 へぇ、と女は驚きながらも、「“らしい”?」と、首を傾げる。紫苑は大袈裟に肩をすくめて見せた。
「子供の頃だもん、もう憶えてないよ」
「あら、でも藤子は、紫苑さんとは“一度会った”だけと言ってましたけど」
「そうそう。大きくなってからも一度会ったんだ。それが最後。───ていうか! やだなー、俺のことも相当バレてるねぇ、藤子のヤツ、俺のことなんて言ってた?」
「いえ、そんな、聞いてたって程では…。“桐生院さんには、紫苑くんっていう孫がいる”と」
「“紫苑くん”、ね」
「え?」
「いぃや。──他にはっ? 変なこと言ってなきゃいいけどなぁ、もぅ」
「それだけですよ。本当に」
 それだけ。
(なんだ。結局はその程度か)
「紫苑さん、苗字は…、桐生院さんでいいのかしら」
 はい、決定。期待した人物ではなかったようで、紫苑は投げやりな気持ちになって、もう帰りたくなった。
「今、個人でそう名乗ってるのは由眞さんだけだよ」
「じゃあ、あなたはなんて?」
「ん? 普通に本名だよ? あたりまえだけど」
 はぐらかしたことには気付いただろう。けど紫苑の笑顔に押し切られたようで、それ以上、女からの追求は無かった。
「紫苑さん、藤子とは手紙で?」
「うん。そんな頻繁にやりとりしてたわけじゃないけど」
 一通だけだし。
「そう…ですか。少し意外です」
「ん? なにが?」
「だって、似てるから。紫苑さん、藤子と」
 紫苑は足を止めた。

 瞠り、表情を作ることも忘れた。
「はぁ?」
 素で訊き返してしまった。女が言ったことか理解できなかった。
 似てる? なにが?
 男と女でずばり指摘されるほど容姿が似ているとは思えない。前の会話の流れからもそれはあり得ない。
 じゃあ、気性? 印象? 性格? 表情? ──もっとあり得ない。
(あの手負いの獣と俺が似てるだって!?)
「…なにそれ、どういうジョーク?」
 本性が染み出てしまったのか、女は少し怯えたような目をする。
「え、いえ、そんなつもりは」
「う〜ん、そうだっ。写真とかない? 声とか、なにかに残ってるなら聞きたいな。ほら、俺、ずっと会ってなかったからさ」
「…無いですね。藤子は、写真とか、自分の痕跡を残さないよう、酷く気を遣っていたから」
「それって、職業柄?」
「────」
 目が合う。お互い、そのことを知っていることを確認する。
 ついさっき思いついた可能性、もしかしたら激しい勘違いをしていてお互いが別人について語っているのかもしれないというのはこれで消えた。
「え〜っ、プリクラも無いの? 友達だったんでしょ?」
「ありません。……藤子は」
「ストップ」
 紫苑は会話を中断させる。女を振り返り、笑う。
「もういいや。君の目を通したあいつを知りたいわけじゃない」
 紫苑にとって、阿達史緒は期待外れだった。
 なにを期待していたのか。それは紫苑本人もよく解っていない。でも、彼女は藤子の過去をまったく知らないし、紫苑が知らない藤子の本心を知ってるとも思えない。友達ゴッコの相手から聞き出したいことなんて無い。
 手紙でのろけてたというのは嘘。藤子の“遺書”にそんなことは書かれていなかった。
「やっぱり今日は帰るよ。由眞さんも待ってるみたいだし」
「あの、紫苑さん」
「僕は由眞さんのトコにいるから、また会えるよね。そのとき、改めてデートに誘うよ」
 もう用は無い。もちろん、また会う気などさらさら無かった。






 最後に会った日。

 2人だけの部屋、その部屋の端と端で。
 一言も喋らなかった、あの距離。

 毛布を被って、窓際の床に座って、妹は空を見てた。
 人が近づくと牙を剥くのに、一転穏やかな表情で窓の外を見上げる。


 幼い頃と同じ。
 手を伸ばそうとしない。

 その目は解っている。
 どれだけ手を伸ばしても、その手に届かないことを。


 それなのに。

 その妹が、抱きしめたもの。




 紫苑は、今日、留学先から戻ったばかりだった。
 空港から史緒の事務所へ直行した。
 でもすぐに用は済ませ、由眞に会いに行き、帰国の挨拶をして、食事に連れ出した。といっても、支払いは由眞だ。紫苑のサイフではとても払えないかつて贔屓にしていた店、そこに勝手に個室で予約を入れて、さらに由眞の運転手に送ってもらった。
 久しぶりの祖母とのデートに紫苑は上機嫌だった。小綺麗な個室での食事も一段落して、コーヒーを飲む。
「由眞さんさぁ、まだ仕事してるの?」
 向かいに座る祖母は小さく首を傾げる。
「どういう意味?」
「いーかげん、のんびりしたらいいのに。由眞さん一人くらい、俺が面倒見るよ」
「立派な言葉をありがとう。でも、そういうことは、せめて就職してから言ってもらいたいわね」
「ははは」
「まぁ、あなたなら心配無いだろうけど」
「うん、期待してて」
「のんびり報告を待ってるわ」
「あ。俺が由眞さんを養えるようになったら、六紗(りさ)はクビだから。よろしく」
「いいわよ」
「え、ほんとに?」
「私を養う、なんて言葉は、もちろん、私より収入が多くなってからのことよね?」
「て、えぇっ!? ちょっと、ムリムリ! それひでぇ」
 六紗というのは由眞の秘書の名前だ。紫苑とはそりが合わない。
「六紗、怒ってたわよ」
「どして?」
「空港から電話して、私に頼まれたって嘘吐いて、史緒の住所を聞き出したらしいじゃない」
「あれは騙されるほうが悪い」
 次の言葉を発するのに、由眞は表情を硬くする。
「──…史緒のこと、誰から聞いたの? 私は口にしたことないわよね」
「うん、由眞さんからじゃないね」
「紫苑…、あなた、藤子と連絡取ってたの?」
「さぁ。──心配しないでよ。史緒とはもう会わない。その必要も無いし」
「必要?」
「史緒って、藤子と仲が良かったんだろ?」
「……」
「でも、なにも知らない。藤子のことをなにも、由眞さんとの関係だって知らなかったよ? 仲が良かったなんて信じられなかったけど、やっぱりその程度。あれなら、わざわざ会いに行くことも無かったな」
 かつん。由眞のカップが置かれる音が響いた。
「どうかしら」
「由眞さん?」
「私やあなたより、案外、史緒のほうが知ってるんじゃないかしら。本当の、藤子(あのこ)の素顔 ──」
「まさか…」
 そのとき由眞の携帯電話が鳴って、紫苑の言葉は途切れた。

「はい──、あら、どうしたの。…えぇ、いるわ。待って」
 由眞は自分の携帯電話を紫苑に差し出した。
「なに?」
「あなたによ。史緒から」
「史緒? なんで?」
 怪訝な声を上げながらも、紫苑は電話を受け取る。
 でもすぐには喋らず、気持ちを切り替えるために、大きく息を吸った。
「はいはい、紫苑でーすっ」
 目の前で由眞が重い溜め息を吐いた。
「やぁ! 史緒! どうしたの? 俺からの連絡を待ちきれないほど、早く俺とデートしたかったのかな? でもごめん、今は最愛の由眞さんと食事中だから、ほんと申し訳ないけど、またあとで連絡を入れるよっ」
 ジャマするな、という意味だ。
 直球な言い回しだったこともあって、電話の向こうの史緒は正確に意味を受け取ったらしい。
「す、すみません。あの、じゃあ、すぐ済むので」
「うんっ、なにかな?」

「藤子の写真に心当たりがあります。もし宜しかったら後日…」

 紫苑は勢いよく椅子から立ち上がった。
「今いこう!」
「え」
「すぐ行きたい。どこにいる? どこへ行けばいい?」
「今…って、──え? いま? これから?」
「そう」
 喋りながら急に帰り支度を始めた紫苑に由眞は目を丸くしている。
「え…、ええと、じゃあ──」
「わかった。一時間くらいで行ける。じゃあ、また」
 電話を切って、紫苑はディスプレイに表示されていたナンバーを頭に叩き込む。帰国したばかりで電話を持っていない。史緒と合流する為に連絡を取るにしても公衆電話からだ。
「ちょっと、紫苑、何事?」
「ごめん、由眞さんっ。先に帰ってて。途中、変な男に引っかかっちゃだめだよ!」
 普段なら、由眞に対してこんな失礼なことはしない。
 けれど今、紫苑は由眞を置いて、レストランを飛び出した。





 1時間後。
 待ち合わせ場所が明確だったこともあり、紫苑は公衆電話に頼ることなく史緒と合流することができた。
 まさかまた会うとは思っていなかったその姿を見つけたとき、史緒は昼間に会ったときとは違い、深く考え込んでいるような、曇った表情をしていた。
「史緒? どうかした?」
 簡単な挨拶の後、お愛想で訊いてみると、
「思い出したことがあるんです」
 と、史緒は言う。
 紫苑としては早く写真を見たいのだが、気持ちを抑えて、史緒を促した。
「なにを?」
「藤子。…兄がいるって」
「うん、いるよ」
「あなたのこと?」
「うん。あたり」
「じゃあ…っ、祖母もいるっていうのは」
「そう。由眞さんのこと」
「…っ」
 史緒は顔を強ばらせて、なにやら考え込んだ。それならあの話は、と小さく聞こえてきた。あの話?
「…もうひとつ、聞いたことがあって」
「うん?」
「桐生院さんには、早くに家を出た息子さんがいた、…と」
 今度は紫苑が笑みを消す番だった。
「息子さんには子供が2人いて、そのうち一人は桐生院さんに引き取られた──それが、…紫苑さん?」
「うん、そう」
 今までと同じ返事、でも感情の無い声で、紫苑は返す。
「もう一人の子は、犯罪に巻き込まれた父親と……」
「うん、海外へ高飛びしました。それが藤子」
「……」
「けっこう酷い生活だったみたいだよ。あいつの職業をみれば解るだろうけど」
「紫苑さんの苗字は、國枝?」
「うん。由眞さんの本名でもある」
「あぁ──」

「由眞さんの子供や孫のこと、藤子は自分のこととして話さなかったんだね」
「…はい」
「ショック?」
「…はい」
「本当の自分のことを隠していたから?」
「いえ、…そうじゃなくて」
「なに?」
 少し言葉に悩んだあと、史緒は苦そうに笑った。
「藤子がなにを考えているかなんて、いつだって解りませんでした。隠してたこともあるだろうし、もしかしたら嘘を吐いていたこともあるかも…でもそれは、私にとってはどうでもいいことです。あの子はいつも笑ってて、嬉しい言葉も厳しい言葉もくれた、それだけで充分でした。ただ、こうやって後になってから聞くのは少しショックで…」
「──ちょっと待って」
 強い言葉で中断させる。
 どうも、昼間から大きな違和感がある。
「いつも笑ってたって、──藤子が?」
 史緒は、奇妙なことを訊ねられた、という顔でぎこちなく頷く。
「え? …えぇ」
「写真、どこにあるの」
「え、っと…、ここからすぐ近くのバーに…」
 言い終わる前に、紫苑は史緒の腕を掴んで歩き始めた。
「きゃ…」
「早く行こう」
「ま、待って!」
 史緒が渋るので、紫苑は足を止めた。手は離さなかったが。
「どうしたの?」
「…すみません、個人的にすごく顔を出しにくい事情がありまして、心構えが…」
「あ、そう」
「ちょ…っ、紫苑さん!」
 紫苑は歩きを再開させて、容赦なく史緒を引っ張っていった。










 史緒が無駄に抵抗を続けるものだから、「すぐ近く」にあるはずのバーに着くまで、いくらか時間が必要だった。
 紫苑は史緒の腕を掴んでひきずるように歩く。史緒は抵抗するも、元から体力が無いのか息を切らせていた。そんな2人が行く歩道は、夜中とはいえ人通りは少なくない。周囲から奇異の目で見られるのは紫苑だって本意ではないのに。
「ちょっとぉ」
 その紫苑はさも史緒が悪いと言わんばかりに文句を口にする。
「大人しくしてよ。俺が女の子に乱暴してるみたいじゃん。通報されたらどうすんの」
「その手を離してくれれば大人しくしますっ」
「そうしたら逃げるくせに」
「逃げませんから」
「大体、写真を見せてやるって言ったのはそっちでしょ。呼び出しておいて、行きたくないってどういう了見?」
「私は、後日にって言ったんです! 紫苑さんが今夜行くって駄々こねたんじゃないですかっ」
 お互いの性質が解ってきたのか、紫苑は貼り付けたような笑顔はやめているし、史緒は遠慮が無くなってきている。既に店の前に着いているというのに2人の睨み合いは続いていた。
「……ほんと、強引なところがそっくり」
 視線を逸らした史緒の小さな呟きが聞こえて、紫苑は顔を寄せる。
「え? なんだって?」
「なんでもありません」
「あ、そう」
 紫苑にとっては、桐生院由眞以外の人間の事情や心境など、どうでもいいことだ。だから、今日、この状況における史緒の独り言に耳を傾けるつもりは毛頭無い。
 紫苑は顔を上げて店の看板を確認する。黒に銀色の文字で“RITE”。“ダーツバー”とある。その看板の横に下へ降りる階段があり、店の入り口は地下にあるらしい。2人がここで足を止めている間、数組の客が階段を下りたり、上がってきたりしている。その客層からも、とくに怪しい店でもなさそうだ。
「じゃ、行くよ」
「……っ」
 史緒の腕を放し、階段へ足を進める。ここまで来た目的は明確だ。にもかかわらず、史緒の足は動かない。
「どうしたの、この店でいいんでしょ?」
「……はい」
 いい加減観念したのか、史緒は後ろからついてきた。紫苑は振り返らない。史緒が階段の途中で何度か足を止めたのがその気配から判る。紫苑は気にせず階段を下り、、そのまま店の扉を開けた。


「いらっしゃいませーっ」
 元気なウエイターの声が響く。紫苑は店内を見渡しながら「どーもー」と返しておいた。
 紫苑はぐるりと店内を見渡した。
 店の中は少し照明を抑えているが足りないと感じるほどでもない。奥にはダーツの が並んでおり、10代のパーティが声をあげて楽しんでいた。2次会かなにかだろうか、人数が多い。吹き抜けの二階席(ここは地下だから正確には1階だが)では、若いのから年配まで料理を食べたりのんびり飲んだりしている。若い連中もいるが、店内はそう派手でもない。年季の入ったカウンターテーブルなどから、そこそこ長くやっている店なのだろう。
「お一人様ですか?」
 愛想のよいウエイターが訊いてくる。
「いや…」
 振り返ると、やはりドアの近くで挙動不審だった史緒。紫苑の視線に呼ばれると、早足で寄って紫苑の背中に隠れてあたりを伺った。
「なにやってんだ?」
「…」
 どうやら隠れたいらしい。店の中に知り合いでもいるのか?
「まぁ、いいや。…これ、ツレね」
「はい。お席どうします? ダーツは今埋まってますけど、そろそろ空きますよ。お食事でしたら上の階と、カウンターも空いてますけど」
「えーと…、おい、史緒、どーするの?」
 ここにくれば写真が見られるというが、肝心の案内役が後ろにいては話にならない。
「…」
 意を決したように史緒は顔をあげる。ウエイターに向かって言った。
「すみません、リテさん、いますか?」
「あれえぇっ?」
「えっ?」
 応答の素早さと意外さに史緒は驚いてウエイターの顔を見る。紫苑も。ウエイターの顔は目と口を開き、驚きを表していた。
「阿達さんっ!?」
「……え?」
 思いっきり名指しされて史緒は面食らったようだ。
「…、──…あ。…サクマくん?」
「そう! うわぁあああ、超久しぶりじゃん」
「えっ? サクマくん、その格好…」
「俺、ここで働いてんの。もう1年以上やってるよ。あ、そだ おーい! リテさーん! 阿達さんが来たよー」
 どうやら史緒の馴染みの店だったようだ。でも久しぶり、とは? サクマとやらが店の中を振り返りリテさんとやらを呼ぶ。史緒は自分が呼んでもらったにもかかわらず、まだこの場から逃げたいようだった。

「史緒っ」
 青いドレスの年配女性が小走りでやってきた。
 史緒はその声に肩が揺れて、恐る恐る向き直る。
 青いドレスは派手ではなくどちらかというと地味で、同じ色の髪飾りと胸元の紫色の花がよく似合っていた。彼女が店員だと判ったのは、「STAFF」と書かれた無粋なプレートも付けていたからだ。
「…リテさん」
 叱られることを恐れる子供のような表情で史緒は呟いた。
「まったく、この子は」
 リテさんと呼ばれた女性はつかつかと歩み寄る。史緒は肩をすくめた。リテは史緒の前まで来ると遠慮なく乱暴に史緒を抱きしめた。史緒は小さな悲鳴をあげた。
「突然来なくなったとおもったら、ほんと突然やってきて」
「……ご無沙汰してました」
「藤子のことはあの後、人伝に聞いた」
「っ!!」
 史緒だけでなく、紫苑も驚いた。まさかこの人からその名前が出てくるとは思わなかったので。
「心配したよ。でも良かった。あんたは元気でやってるんだね」
「…はい。連絡しなくて、すみませんでした」
「本当だよね〜」
 リテは腕に力を入れて、史緒は先ほどとは違う悲鳴をあげた。



 なるほど、と紫苑は理解した。
 この店はかつて藤子と史緒がよく利用していたのだろう。しかし、藤子が死んで史緒も足を運ばなくなった。いや、避けていた。長らく避けていた店、懐かしい面々に会うのが怖くて、史緒は来辛かったのだろう。
 それに、もしリテやサクマが藤子の死を知らなかったら、今日、史緒は自分の口から言わなければならなかった。本当はそれを、一番、恐れていたのかもしれない。

 しかし。
 いつまでも感動の再会をやられては困る。
 史緒の肩をトンと叩く。それだけで理解したようで、史緒は気を取り直して言った。
「そうだ、リテさん」
「なぁに?」
 史緒は腕を上げて肘を伸ばし、奥の壁を指した。
「あれ、まだ残ってます?」
(“あれ”…?)
 店内の照度は低い。史緒がなにを指しているのか、紫苑にはすぐには判らなかった。
「あぁ、そういえば。史緒のときに…」
「ええ。藤子はキリ無かったし」
「あるわよ。見てきたら? たぶん正面の…、右あたりのはずよ。日付が書いてあるから、そこから捜して」
「ありがとう。…紫苑さん」
「うん。…なにがあるわけ?」
「写真です」
「いや、そうなんだけど」
 テーブルが並ぶ客席の端、狭い通路を通って店の奥へ進む。
「ここはダーツバーです」
「見ればわかるよ」
「COUNTUPで500点以上を出すと、記録として写真を撮るんです。…ほら」
 近づけばわかった。壁一面に無数のポラロイド写真。ぎっしりと壁が埋め尽くされていた。
「…」
 壁の前に立つ。ポラがピンで止められている。1000枚はくだらない。ともかくすごい量だ。
 友人と。恋人と。一人でも。Vサイン、ガッツポーズ、スコアボードを指差して自慢げに、パーティでフォーメーションを組んで。
 共通なのはまぶしいほどの笑顔。
 それらに感銘を受ける紫苑ではないが、その数に少しばかり驚いていた。壮観である。一体、何年分、貼られているのだろう。
「私も一度だけ、撮ったことがあったんです」
 そういうことか、と紫苑は理解した。
 藤子の写真に心当たりがあると言ってこんな店に連れてきたから、てっきりここの店員あたりが持っているのかと推測していたのだが。
「おす、どうしたの?」
 サクマが空いたトレイを持ったまま寄ってきた。席に収まろうとしない2人を妙に感じたのだろう。
「私たちの写真があったと思うんだけど……」
「あ。それは知ってる。たまに見るから」
 サクマは3歩ほど移動して、
「これだよ」
 いとも簡単に、紫苑の視線より少し低い位置を指す。壁に貼られた無数のポラ。そのうちの一枚。
 紫苑はその一枚に目をやった。


 まず目に入ったのは白い余白に書かれた黒いペン字。
<祝☆500点!!!>
 その下に小さく、
<あたしのおかげだよねっ♪>
 写真には2人の女が写っている。名前は書いてない。
 ひとりは、黒く長い髪、はにかむような笑顔。史緒だ。今より若い。
 そして史緒の肩にじゃれるようにかぶさる、もう一人。
 年齢は史緒と同じくらい。少し茶色い髪、ブレスレットにごついシルバーの指輪でカメラに向かってVサイン。
 仲の良さそうな2人。どこにでもいそうな10代の女の子たち。紫苑はこの写真が示すものが何なのか、再確認しなければならなかった。
 面影なんか無い。記憶とは何一つ一致しない。でも。
 写真に写っているのは2人。
 手紙を書いた藤子。手紙に書かれていた史緒。
 部屋の隅で佇んでいた痩せこけた子供が藤子。写真より若干年をとった、今、すぐ隣にいる史緒。
 壁に貼られた写真はどれも同じ、みんな楽しそうに笑っている。その中にあって違和感のない、埋もれてしまいそうな一枚。



「あいつ…笑ってたのか」



 紫苑が思わず呟いた声に、史緒とサクマが目を合わせる。そこになんかしらの意思疎通があったのか。なかったのか。
 史緒は不思議そうに首をかしげた。
「どうも、昼間から話が合わないなぁと思ってたんですけど…」
「あいつが笑ってないときなんてないよ」
 まるで本人に向けるように、うんざりした表情でサクマは肩を落とす。
「──」
 紫苑は写真から目を離し2人を見る。
「…そう、なんだ」


 紫苑が最後に見たのは、部屋の隅で丸くなる獣だった。こちらを警戒するだけで、威嚇し、人間らしい表情を見せることもなかった。
 それが、この写真の女と同一人物だと言われても信じられるはずがない。
(…あの日)
「なんでもいいから笑え。明るく馬鹿みたい笑ってろ。大抵の人間はそれで騙せる。笑うことで由眞さんを安心させられるなら安いもんだろう?」

 そう言ったこと、あいつは覚えていただろうか。

 − 紫苑くん、ごめんね───
 − 約束を守れなかった

 
 由眞のために、笑っていてくれたのだろうか。
 幼い頃に別れ、その後あの日一日だけの邂逅。
 会話は無かった。紫苑が一方的にいくつかの言葉を押し付けただけ。それを、藤子は覚えていたのだろうか。


「いっつもへらへら笑っててさぁ。最初はむかついたけど、でも、あれが地なんだよな」
「そう──」
 サクマとの掛け合いの合間、そこで史緒は表情を崩して笑った。ややあって視線を移す。写真に写る藤子を見て、眩しそうに目を細めた。
「楽しかった、んでしょうね」
 過去を思い出したのか、史緒の声は遠くを向いている。その横顔は写真の中の藤子へ笑いかけているようだった。
「…楽しい?」
 紫苑が聞くと史緒は顔を上げた。気づいてないのだろうが、少し目が赤い。
「私の主観ですけど…、ええ、やっぱり楽しんでいたんだと思います」
「なにに?」
「生きることに」
 声にも言葉にも迷い無く史緒は即答した。
「不満や悩みをこぼすことはあってもあの子は笑ってました。むしろ、それ自体を楽しんでいるような。自分の生活を、生き方を、楽しくしようとしていた。得られないことでさえ楽しんでいた、満足しようとしていた……、今、思うとそういうことなのかもしれません」
(あぁ──)
 ようやく記憶と一致するものを見つけて、紫苑は過去を思い返す。



 あれはいつだったか。
 藤子と再会する前。
 由眞と出会う前。
 3人で走った夜より前。
 ほとんどかすれた遠い日の記憶。
 天気の良い昼下がり。青く晴れ渡る空。心地よい温かな空気。公園ではしゃぐ子供たち。
 その中に紫苑と藤子はいた。
 青い空に引かれた白い線に子供たちは声を上げる。
 空を見上げ手を伸ばす。──ひこうき雲へ。
 でも。
 あいつは手を伸ばさなかった。
 見上げて、自分の立ち位置を確認して、届かないことを楽しみ、それに満足するように。
 欲しがらない人間はいる。紫苑にとってそれは「馬鹿」だけど、そういう人間がいることは理解できる。藤子もそのうちの一人。
 多くを望まない。それも処世術のひとつだろう。
 離れていた間、遠い地でどんな生活だったかは聞きたくもない。でも、ここでの生活と掛け離れていたことは明白。
 白と黒。光と影。足元が崩れるような、恐ろしいまでの日常のギャップ。たとえこの安息の地でも、身体に染み付いた習慣はすぐには消せない。その「ずれ」に、どうやって耐えたのだろう。たった一人で。由眞の前で笑いながら。
 多くを望まなかった。楽しく生きようとしていた。満足しようとしていた。
 そうやって生きながらも、出会ったもの。手に入れたもの。手を伸ばしたもの。




 − この手紙のこと、思い出したらでいいの。

 − 確かめてきて。 あたしの友達のこと。

 − あたしのことを忘れて、ちゃんと笑ってくれているかどうか。





(……ばからし)
 藤子の心配は的外れもいいとこだ。
(ほんと、ばか)
 紫苑は溜め息を吐く。その息は多くの意味を持っていたけど、大きくはない。
 でもそれだけで、体が軽くなった気がした。
「史緒」
「はい?」
「ありがと。もういいや」
 紫苑は踵を返し壁から離れる。振り返りもせずカウンターのほうへと足を進めた。
「紫苑さん?」
「なんか飲も〜。今回は面倒掛けたし、おごるよ?」



 かつて一人置き去りにされたときの、藤子への感情をなんというのだろう。
 家族3人で走って逃げた夜。父は藤子だけを連れて行った。独り、置き去りにされて。
 妬み、恨み、羨み。
 それらに支配され、出来上がったのはこの性格の悪さ。自覚はある。美しい方程式のよう。
 そしてまた、今、藤子に対して嫉妬に近い感情があった。
 でも、前とは違う。自分の中でうまく付き合っていけるものだ。
 素直に、捻くれない気持ちで羨ましいと思う。
 少しのものだけを望み、それを手に入れて、最期まで手放さずにいられたこと。



「ね〜、史緒」
「はい?」
 カウンターの中のリテと話しているところを割り込んでも、隣に座る史緒は何の気負いも嫌味もなく目を向けてくる。──並んで座ったものの、紫苑が一人考え込んでしまったので、わざと放っておいてくれたようだ。(同伴女性を放置するなんて最低だって? そんな気遣いは由眞さんにだけで十分だ)
 史緒はまっすぐにこちらを見ている。その顔を覗き込むように、
「友達ごっこしようか」
 紫苑がそう言うと、史緒はひとつ瞬きしてから、
「──っ」
 息を詰め、顔を強張らせた。
(あれ)
 予想していた反応と違う。ここは笑うところ。
 さらに史緒だけでなく、カウンターの中にいたリテも驚いたように目を見開いていた。しかし、ふっと声を立てて口端をもたげる。少しだけ憂いの残る笑みだった。
 ──かつてこの席で、藤子が史緒に同じ科白を言ったことを、紫苑は当然知らなかった。リテは知っていた。この場所で同じように、若い2人の少女の不器用で不細工な会話を聞いていたのだから。
「友達…ごっこ?」
 史緒が復唱する。
「そう。あ、別に“友達からはじめましょう”とかそういうのじゃないから。本当に友達。俺が添い遂げたいのは由眞さんだけだから」
「は?」
「あ、詳しく聞きたい?」
「……桐生院さんのくだりは必要ありません」
「なんだ。ノロケられると思ったのに。──で? なんだっけ?」
「友達ごっこの意図…」
「そうそう、それそれ。俺も考えるわけだ、将来のこと。あと何年、由眞さんと一緒にいられるかなって。10年…、20年は無理かな。ともかく由眞さんが死んだとき慰めてくれる友達が欲しくて」
「えっ、…ちょっと待って、そんな縁起でも無い…」
「そうやって目を逸らしてたって、いずれ確実に来る未来じゃん。未来のことを思うのは前向きだと思わない?」
「それは流石に屁理屈だと思います」
「俺は絶対、由眞さんより先に死なない。由眞さんが悲しむから。俺は由眞さんの死に際を絶対見届けなきゃいけないんだ」
 夫も息子も孫も失ったあの人のために。
 それは本当に辛いことだと解っているから、ずっと先になればなるほどいいけど、絶対にある未来だから。
「由眞さんが亡くなったら一番悲しむのは俺だし。あ、史緒は3位以下だから」
「…2位は誰なんです?」
「六紗」
「りさ?」
「いるんだよ、そういうやつが。会ったことない?」
「ちょっと思い当たる人がいないんですけど…。いっそのこと、その人に慰めてもらったらいいじゃないですか」
「おぞましいこと言わないで」
 本当におぞましかったので真剣に抗議すると、史緒は笑った。真剣な抗議なのに。
「で、どう? この提案」
「友達ごっこはやめておきます」
「わぁ、傷つくぅ〜」
 まぁ、断られることも予想していなかったわけじゃない。「友達をスタートする」ことを好しとしないタイプかもしれないし、単純に紫苑が嫌いなのかもしれない。
 史緒は少し笑ったが、表情を改めて言った。
「“ごっこ”はもうこりごりです。そうじゃなければ、いいですよ?」



*   *   *



 史緒は少しの疲労を感じていた。微かな開放感もあった。
 夕方、事務所に現れた紫苑。誰かを思い出させる言動。知らなかった藤子の過去。紫苑、由眞の関係。
 たった一日が嵐のよう。
 久しぶりにリテの店に行って、久しぶりに藤子の顔を見て。
 紫苑と話すことで気持ちが整理できた気もする。──その紫苑も、口には出さないが色々と思うところがあったようだ。
 リテが「また来てね」と言って、紫苑は笑って手を振っていたけど。
 おそらく、紫苑は二度とあの店に行かないだろう。藤子の写真がある、あの店には。

 タクシーが史緒の自宅前に着いたとき、ぶり返す記憶に、思わず篤志がいないか辺りを確認してしまった。似たようなシチュエーションが、ずっと昔にあった。それを思い出して史緒は苦笑する。
「送ってくださってありがとうございました」
 降りてから振り返ると、車中の紫苑が子供のように言う。
「送ってくれたのは運転手さんだよ」
 今度は史緒だけでなく運転手も笑った。
「──あ、そうだ。史緒、ひとつ訊きたかったんだけど」
「はい、なんでしょう?」
「史緒ってお兄さんいる?」
「え? あ、はい」
「ハルって名前?」
「…? いいえ?」
「ふーん。気のせいか。じゃ、いいや。またね」
 ドアが閉まって、タクシーは暗い夜道に消えた。タクシーの中の紫苑のお喋りから一転静かになって寂しさが残る。
「………あれ?」
 一人残された史緒は、小さな違和感、わずかに引っかかるものを感じた。もどかしいほど頭が働かず、史緒が違和感の原因に気づくまで時間が必要だった。
「えっ、なんで!?」
 夜道を振り返るがもう遅い。タクシーのテールランプはもう見えなかった。




end
20081003/20081012/20081026/20100327
関連:GrandMap42話6章紫苑桐生院由眞[gm42の没]