BlueRose-Side. 祐輔/実也子/知巳/
Side.祐輔


 神奈川県C市。十二月十日。

「ただいま」
 山田祐輔は自宅玄関をくぐり靴をぬいだ。そこで、予想しなかった声を耳にした。
「あ。山田くん」
 高く響く抑揚のない声。
 祐輔が顔を上げると、線の細い女性が立っていた。茶色い髪を肩の上で切り揃えて、オレンジ色のセーターと茶色のロングスカート、それから客用のスリッパを履いていた。
「沙耶。来てたんですか」
 祐輔は驚いた。少しだけ。
「うん。今日、帰ってくるって聞いて。お帰りなさい」
 本村沙耶は祐輔の肩に手をかけて、頬にキスした。祐輔もそれを返す。
「一昨日はすみませんでした。約束してたのに」
「いいの。代わりにおば様がデートしてくれたから。帽子を買っていただいたんだけど、よかったのかな」
「あの人も娘ができたみたいで、はしゃいでるんですよ。気にしないで」
 二人は自然に一つ目のドアの部屋へ入った。そこは祐輔が開いているピアノ教室の部屋で、グランドピアノとソファと本棚が置かれている。沙耶が祐輔の家へ来たときは、何となくこの部屋に居ることが多かった。
「で、その母さんは買い物ですか?」
 実際に居るべき人物は沙耶に留守を預けて出かけてしまったらしい。コートを脱ぎソファに腰かけて、祐輔は呆れた声を出した。一方、ピアノの前に座った沙耶は蓋を開け、でたらめに鍵盤を叩いている。彼女はピアノという楽器にあまり思い入れは無く、満足に弾ける曲もないので即席猫ふんじゃったを奏でていた。
「沙耶は今日は何時ごろに?」
「九時くらい」
「僕は今回東京へ行ってたんですよ。電話してくれれば向こうで会えたのに」
 祐輔は苦笑した。今、沙耶は横浜の祐輔の家に遊びに来ているが、彼女は東京在住なのだ。完璧にすれ違いだったことには笑うしかない。
 しかし沙耶は祐輔に背を向けたまま、相変わらず抑揚のない声で言った。
「嘘。連絡しても会ってくれなかったくせに」
「…何故?」
「質問するのは私。───何かあったんでしょう?」
 ピアノの音がやんだ。
 理由は沙耶がピアノの前を離れ、祐輔の隣に座ったからだ。
「話しにくいなら、話さなくてもいいよ? 聞きたいけど」
 すぐ隣から真っ直ぐな視線を当てられる。
 沙耶の正直な台詞を聞いて、祐輔は笑った。そして、すぐに事情を白状した。
「僕が『B.R.』のキーボードだって言ったら、驚きますか?」
 あっさり言葉にしたにも関わらず、それでも視線を外してしまったのは何故だろう。
 山田祐輔が本村沙耶と付き合い始めたのは、『B.R.』結成よりさらに一年前。
 『B.R.』を始めたときの約束通り、祐輔は『B.R.』について口外しないということを守り続けていた。二人の間の「隠し事」に、後ろめたさがあったのは確かだ。
 かなり長い沈黙の後、沙耶は言った。
「…情けなく思っちゃうかもしれない、な」
「?」
「『B.R.』は結構聴いているの、私も。…それを、山田くんの音だって気付かなかったのは、ちょっとしたショック」
 あいかわらず抑揚のない口調の、彼女なりの気遣い。
 そんな言い回しで、沙耶は秘密を抱えていた祐輔の罪悪感を軽減させた。
 祐輔は沙耶を抱き寄せた。
「ごめん」
「それだけ?」
 身じろぎもせず、間髪入れずに問う。祐輔はくすくすと笑い、細い肩を抱く腕に力を込めた。
「ありがとう」







 三年前───九月。

 薪坂千鶴音楽院は都内K市に本校舎を構える学校法人大学である。
 創立は昭和四五年、まだ歴史は浅いが国立・武蔵野と並ぶ音楽大学で、いわゆる名門と呼ばれる部類に属していた。カリキュラムは大きくわけて二つ───これは想像がつくだろうが、実技と規定。規定は主に楽典でこれは筆記試験がなく、実技試験の際の口頭試問によって評価される。実技は完全席次制で、同じ学科の生徒はAからEにランク分けされ、さらにその中で順位が付くというシビアなものだった。
 生徒数はおよそ一千人。一学年は二五〇人。そのうちピアノ科は一〇〇人と最多。
 そしてこの年の三回生、ピアノ科A組の一番に、山田祐輔が名を列ねていた。


「よー、山田ぁ」
 頭上から声がかかった。
 自分の名前だ。起きるしかないだろう。
 教室の机に伏して寝ていた山田祐輔は、睡眠を邪魔された不機嫌さを隠して頭を持ち上げた。
「何ですか?」
 祐輔は誰に対しても敬語を使う。それは癖なのだと、彼は言う。
 祐輔に声をかけたのは二人の男子生徒だった。同じクラスだが名前は覚えていない。
「席次見たぜー。一番。二〇週連続、憎たらしーけど、おめでと」
「校史初だって、先生言ってた。すげーよな」
 毎週発表される席次順は廊下に張り出されている。祐輔にはその発表を見る習慣は無かった。
「ありがとうございます」
 とりあえず笑顔で礼を言う。
 祐輔はこの学校の評価システムを小馬鹿にしている節があった。否定はしない、呆れているだけだ。
 音楽という点数化しにくいものにどうして順位が付けられるだろう。どんな基準で誰が評価するというのだ。その基準はとてもあいまいで、評価する先生方の耳にも気斑があるというのに。
 そういう環境だからというわけでなく、一番を取り続けているということに祐輔は優越や気負いを感じたりはしなかった。どんな採点方法でも、彼には興味がなかった。
 しかしそんな本人の思いとは裏腹に、席次発表のおかげで山田祐輔の名は学内ではちょっとした有名人扱いになっていた。
「山田ー、この間の授業の内容なんだけど、ちょっと訊いてもいい?」
「あ、ズルいっ。山田くん、私も教えて」
 主席を取ったからと言って、規定の成績も良いということにはならないのだが、こんな風に頼られることは多かった。断わる理由も無いので、自分の分かる範囲で教えてやる。
「ええ、いいですよ」
 貼り付けたような笑顔。自覚はある。それが悪いとは思わない。良いとも思わない。
 ただ周囲と問題を起こさない処世術を、自然と身に付けているだけだ。
 他人に好かれたいわけじゃない。嫌われても構わない。でも煩わしい人間関係に神経を使うのが面倒くさい。それらから避けるためには、当たり障りのない性格がベストなのだと、祐輔は知っていた。



 ピアノを弾くのは嫌いではなかった。
 とくにバッハのオルガン楽曲は好きだった。あの、数学で表せそうな音の集合体が、いい。音楽と数学が似通う学問だということがよく分かる。逆にショパンは苦手だった。ショパンの曲は切ったら血が出る、という名言があるが、それくらい生々しく人情的だということだ。感情を露にした人間的な曲を奏でるには、自分は人格的に問題があるようだから、と祐輔は思っていた。
 祐輔がピアノを弾くのは、数学の問題に挑む気持ちによく似ている。解けた後の満足感。達成感。そんな気持ち。

 煙草の煙が空を舞った。
 一人になりたかったので祐輔は図書館へ来ていた。教室に居ると人の良いクラスメイトたちが豊富な話題を投げかけてくるからだ。嫌なわけではないが、長い時間付き合うのはさすがに疲れる。
 図書館の隅、本棚に埋もれた場所で祐輔は煙草を吸っていた。煙草と古い本の匂い、静かで落ち着く。
 祐輔のポケットの中にはいつも煙草が入っていた。しかし人前で吸うことは絶対にしなかった。これにはどうと言った理由はなく、単に二十歳前から吸っていたことの名残である。
「禁煙」
 心臓がドキッと鳴った気がした。その、突然の人の声に。振り返る。
「…なんだけど。ここ」
 まるで棒読みのような感情のない台詞。
 女生徒が一人、立っていた。髪をアップにまとめて、サマーセーターにロングスカート。そんな厚着な格好でも華奢だと分かる体格。片手にヴァイオリンケースを抱えていた。
「──失礼しました」
 祐輔はすぐに携帯灰皿に咥えていた煙草を捨てた。人に見られたのは迂闊だった。
「本、探したいの。ちょっと、ごめん」
 とゆっくり抑揚のない声で言うと、彼女は祐輔のすぐ隣の本棚に目を走らせ始めた。すでに祐輔の存在は意識の外の様子。
 祐輔は突然現われた女生徒にまだ驚いていた。喫煙姿を見られたこともそうだが、どうもこの女生徒は妙な雰囲気を持っていた。先程、祐輔を注意したにも関わらずその表情は非難も苦笑もなく無関心で、喋り方もどこかおかしい。
 そんな風に思っても、祐輔は長く気に留めることはなくその場を去ろうとした。その時、もう一度女生徒から声がかかった。
「ピアノ科の、ヒト?」
 やはりおかしなイントネーション。
「…そうですが、何故わかりました?」
 改めて女生徒と向き合うと、どうも焦点の合っていないような視線を向けられた。
「楽器、持ってないし。煙草吸っていたから、声楽のヒトじゃない、でしょ」
 ぼーっとしているように見えて結構観察眼があるらしい。質問を返された。
「ヤマダユウスケって、知ってる?」
 まっすぐに祐輔の目を見て、言う。
「は?」
 まさか自分の名前が出るとは思わなかった。しかも、知ってる? とはどういうことだ。わざと言っているのでなければ、彼女は山田祐輔の顔を知らないのだろう。
 どう答えるべきか祐輔は悩んだ。自分だと名乗るべきか、知っていると質問に答えるべきか、知らないと嘘付くべきか。
 この、奇妙な雰囲気の女性に長く関わりたくなかったので、祐輔は一番早く会話を終わらせることができる三つ目を選んだ。
「いえ、知りませんが」
「そう。じゃあ、皆が言ってる程、有名でもないんだ」
 と、簡単に納得する。
 わざと言ってるのか? と疑いもしたが、祐輔が観察する限り、嘘は付いてないと、思う。
「その人がどうかしたんですか?」
「ううん、…いい。ピアノ科には知り合いがいるから、そっちに訊いてみる。ありがと」
 礼まで言われる始末だ。
「…はあ」
 女生徒は祐輔から視線を外して本棚に意識を戻した。祐輔の存在はもう忘れたかのような態度。
(………)
 祐輔はその後ろをすり抜けて、図書館を後にした。
 妙な女と関わってしまった、と思った。


*  *  *


 翌日。
「祐輔っ」
 背後から呼び止められた。振り返らなくても分かる、この学校で祐輔を呼び付けにする人物は一人だけだ。
「張り紙見た。また一番か」
 これは賞賛じゃない。あからさまな嫉妬でもない。
 日阪慎也は手を振って駆け寄ると、そのまま祐輔の肩に手を回して体重をかけた。
 祐輔も平均よりは長身なほうだが、慎也の視線は祐輔より高い。
 この馴れ馴れしさは祐輔の苦手とするところだが、許せてしまう雰囲気が、彼にはある。
「おはようございます。慎也」
 祐輔が呼び付けにする相手も、一人かもしれない。
 日阪慎也は二十四歳。彼は別の大学に入学したものの、ピアニストになるという幼い頃の夢を諦められず、この音楽院に入学しなおした変わり種。学費をアルバイトで稼いでいる為、週に何日か学校をサボる日がある。勿論、興味の無い授業や必要ない単位を狙った日だけ。昨日発表された席次のことを今朝見たということは、昨日はサボりの日だったというわけだ。
 祐輔が慎也のことを気に入っているのには理由があって、他のクラスメイトと違って慎也だけが、堂々と率直な意見を口にするからだ。賞賛や批判、それらに付随する複雑な感情も。嫉妬という感情が彼には稀薄で、一度社会に出た人間であるのに繕おうとしない、年の割に良い意味でスレていない。そんな人間だった。
「さすが、コピー機≠セよな」
「ありがとうございます」
「…誉めたんじゃねーよ、皮肉ったんだよ」
 と口の端を持ち上げて呆れる慎也に、祐輔は笑った。
「もちろん、分かってますよ」
 ──山田祐輔には一ピアニストとしてかなり特異な特技があった。
 祐輔自身は早くからそれを自覚していた。それについては否定も肯定もしたことはない。
 この学校の生徒の幾人かが祐輔の演奏を聴いてそれに気付き、コピー機≠ニ呼んで嘲笑っているのは知ってる。しかしその一方で、先生方はそれに気付き、そして主席という成績をつけている。その特技が受け入れられている証拠だ。
 学校の成績はともかく、コピー機と呼ばれる祐輔の演奏は周囲に賞賛され、評価されている。
 祐輔がピアノを弾くのは誰の為でもないが、周囲の評価は自信につながる。自分の演奏に疑問を抱いたことはないし、スランプに陥ったこともない。コピー機というあだ名を、気にすることもなかった。
「昨日の楽典の授業、ノート貸してくれない?」
「ええ、いいですよ。学食の食券で手を打ちましょう」
「おまえな…」
「楽典の単位落としたら慎也危ないですよね? 昨日休んだのは新しいバイトでも入れたんですか?」
「いや、いつものピアノ弾き。貸し切りパーティするから出て欲しいって」
「さすが、うちの学科のナンバー2ですね」
「すげー嫌味だな、おい」
 結局、慎也は祐輔に昼食を奢ることになった。

*  *  *




 日阪慎也は学校の敷地内の芝生の上で昼寝をする習慣があった。
 昼休み。山田祐輔におごりつつ、自分も昼食を済ませ別れた。慎也はすでに行動パターンになっている昼寝を敢行するために校庭に出る。まず荷物を放り出すと、自分も腰を下ろしそのまま寝転んだ。日除け代わりのテキストを顔の上に乗せ、すぐに睡眠モードへと突入する。
「慎也」
 睡眠突入を妨げる高い声が頭上から聞えた。知っている声だった。
「…珍しいな。学内でおまえが声かけてくるなんて」
 トーンを落とした声で返事をする。顔の上からテキストを取り除くと、すぐ傍らに見知った人物が立ち、慎也を見下ろしていた。
 彼女が座ったので、慎也も視線の高さを合わせるために上体を起こし座り直す。
 こんな間近で彼女を見るのは本当に久しぶりのことだった。
「山田祐輔、って、知ってる?」
 唐突に、尋ねてくる。
 慎也は目を見開いた。二重の意味で驚いた。
 一つは、彼女が他人に興味を抱いているということ。
 一つは、山田祐輔の名を知らないこと。
 …とりあえず、後者について尋ねてみることにする。
「知らないのか? おまえと同じくらい学内じゃ有名人だけど」
「皆、そう言う。……でもじゃあ、その山田くんは、私のこと、知ってるの?」
 うっ、と慎也は答えにつまってしまった。祐輔と彼女の話をしたことは、ない。そして祐輔の性格を考えるに、多分、知らないだろう。彼は彼で、他人の演奏になど興味がないようだから。
「どんな人?」
 更なる質問。どんな人? とはどこに照準を合わせた問いなのだろうか。
「興味あんのか?」
 冷やかしも込めた言い方だった。分かってはいたが彼女には通用しない。慌てて否定するくらいのリアクションは欲しいものだが、彼女の表情は少しも変わらず、何の色気もない本当のことを告げた。
「コンクールの伴奏、に、薦められたの」
 相変わらず説明不足の言葉少なさはどうにかしてもらいたい。
 でもこれは慎也にも分かった。
 彼女の属するヴァイオリン科では近々学内主催のコンクールが行われる。そのコンクールの課題曲が、ピアノ伴奏付きであることが発表されたのはついこの間のことだ。コンクールにエントリーする生徒は学内からピアノ伴奏を担当する相棒を選出する権利がある。
「ああ、おまえ、出るんだっけ。でもあいつを誘うのは難しいと思うけど」
「どうして?」
「どうしてって…」
 説明は簡単だが納得してもらうのは難しいだろう。
「上手なの?」
「ああ。うちの科じゃ飛びぬけてな」
 山田祐輔の気難しさを伝えるのは難しい。そして彼のピアノの腕を説明するのも難しい。
 慎也は、ぴん、と思い付いて、彼女に問い掛けた。
「…聴いてみるか? 次の時間ちょうど講堂で公開授業だから」



*  *  *



 講堂は、コンサートホールの縮小版と思ってもらえばいい。
 各学科、週二回行われている公開授業。これは講堂の舞台の上で行われる個人レッスンで、学内の誰もが見学することができる。優秀な生徒の演奏を聴ける数少ない機会なので、教師のほうも茶々を入れ妨げたりせずに弾かせている。一人当たり約三十分。弾き手の腕前と聴衆の人数は完全に比例し、山田祐輔の場合は同じ学科のみならず、他の学科の生徒が授業をサボってまで聴きにくる始末だった。
 コピー機≠ニ呼ばれる、山田祐輔の演奏を。
 慎也が講堂に入った時、講堂の客席の三分の二が既に埋まっていた。
「さすが、祐輔の人気は相変わらずだな」
 勿論、祐輔本人に人気があるわけじゃない。祐輔のピアノ演奏に人気があるのだ。
 客席は薄暗く、その中には慎也の知っている顔や、学内の腕利きと呼ばれる人物の顔がいくつもあった。
「日阪、遅せーぞ」
 扉の近くにいたクラスメイトが声をかけてきた。目ざとく慎也の後ろにいる人物に目をやる。
「げっ、本村沙耶じゃん。知り合い?」
 その声にさらに別の生徒が聞きつけた。
「嘘っ、本村沙耶?」
 彼女───本村沙耶は慎也の背後に隠れた。不機嫌な表情こそ出さなかったものの、慎也にはそれが伝わった。
「沙耶…」
 苦笑いを向けると、
「この反応にも、慣れたわ」
 いつも通りの無機的な声が返ってきた。
 ヴァイオリン科三回生、本村沙耶。彼女も、学内有名人と呼ばれる一人だがそれを良しとしていない。
「日阪っ」
「うるさいって。祐輔は?」
「ああ、山田ならちょうど…ほら」
 ちょうど、山田祐輔は舞台の上にいた。光の中に。
「…」
 沙耶が前へ進み出る。
 舞台の上のピアノを弾くのは、長身の男の人。長い髪を一つに結び、指の動きにならってそれが揺れている。
「…あの人が、山田祐輔?」
 沙耶はその見覚えのある顔に眉をしかめた。図書館で目にした顔だ。
 ヤマダユウスケって知ってる?
 いえ、知りませんが。
 そう答えたはず。
 その人物が、舞台の上、グランドピアノを前に音を奏でていた。
(あの人が、山田祐輔…───)
 沙耶は山田祐輔の演奏を初めて聴いた。
 ショパンの、「革命」───。有名すぎるくらい有名な曲。
 あの力強い曲を、危なげなく弾きこなしている。指、そして手首と腕の力がなければこうはできない。
 押し寄せるような音の波と、溢れる躍動感。
 正確なタッチ。激しい強弱と、テンポの変化。
(……これが、山田祐輔)

 ヴァイオリンのコンクール。課題曲が伴奏付きだと聞いて、沙耶は悩んでしまった。
 誰かと共に演奏するなんて、今までしたことはない。
 想像しただけで、これはとんでもないことだと、分かった。
 ピアノ伴奏でやるということは、そのピアノの上で自分は演奏しなければならない。ピアノが不安定ではこちらも引きずられるだろうし、例えノーミスで弾ける人と組んでもお互いの息が合わなければ演奏はガタガタになる。対等なパートナーシップを持てる人を選ぶなんて。
 人付き合いが苦手な沙耶は考え込んでしまった。
 山田祐輔は? とクラスの子に言われた。
「沙耶と組むんだもの。腕前としては申し分ないと思うけど?」
 誰それ、と言ったらクラスメイトは大袈裟に驚いていた。かなりの有名人らしい。
 パートナーを組むかは別として、そんなに巧いのなら一度は聴いておこう、と沙耶はここまで来たのだ。
「……?」
 ふと、祐輔の演奏を聴いていた沙耶の頭に何か引っ掛かるものがあった。
 隣に立つ慎也の腕を掴む。
「……この演奏。…シーモン? まさか」
「やっぱり気付いた?」
 慎也は苦笑した。そして言う。
「これが、山田祐輔がコピー機と呼ばれる所以だよ」
 S.シーモンという現代のピアノ演奏者が居る。クラシック界の中でも知名度が高く、世界的に評価がある演奏者だ。
 沙耶は、祐輔の演奏とついこの間CDで聴いたシーモンの演奏法が似通っていることに気付いた。
 一つ一つの音の強弱。演奏構成、テンポ、ペダルの使い方──。全てにおいて。
 似ているというより、これは真似、模倣だ。
「……嘘でしょう?」
「あいつが何のCD聴いてるかって、すぐ分かるよ。音に表れるから」
 真似できるだけの耳と技量が、彼にはある。
 一部の生徒はこれに気付き、コピー機≠ニ呼んで嘲笑っている。
 教師もこれに気付きながら、主席という評価をしていた。
 そう、完璧に真似しているのだから巧いはずだ。
 完全なるコピー機。
 それが山田祐輔だった。

 やがて演奏が終わった。客席から拍手が巻き起こっても、祐輔はそれに応えることはせず舞台を降りる。声をかけるクラスメイトの間を縫って出て行こうとする。慎也の姿を見つけた。
「…慎也?」
「よっ」
「どこ行ってたんですか。はじめ居なかったでしょう? ───あ」
 慎也の後ろに隠れるように、女生徒が一人立っていた。知っている顔だった。
 自分でも驚いているが、よく顔を覚えていたものだ。クラスメイトの名前も覚えられないのに。
 図書館で「山田祐輔って知ってる?」と聴いた女。そう、彼女だった。
「祐輔、こいつ、おまえに用があるんだって」
「慎也の知り合いですか?」
「ん? ああ、まあ」
 慎也はあいまいな答えを返した。隣の女生徒は慎也の腕に手をかけたままだった。
 慎也の彼女なのだろうか、と祐輔は思った。
 そして何故か、先程から祐輔の顔を凝視している。それを不快に感じた。視線を捕まえられないように祐輔は顔を背けた。
「…何か?」
「山田祐輔って、知ってる?」
 やはりどこか無感情な口調だった。その疑問に慎也は不可解な眼差しを向けたが、祐輔にはその意図が分かっている。どうやら図書館で嘘をついたことを責められているらしい。図書館で会ったとき、同じ質問に祐輔は「いえ、知りませんが」と答えた。
 溜め息をついて、今度は真実を答える。
「…僕のことですよ」
「私、本村沙耶」
 彼女は名乗った。祐輔は初めてその名を知った。
「今度、ヴァイオリン科のほうでコンクールがあるの、知ってる?」
「知りません」
 素気無くあしらった。でも知らないのは事実だ。
 どうしてだろう。あまり関わりたくないと思っている。直感的に。
 沙耶は別に気にしていない様子で話を続けた。
「私の、伴奏を、お願いしたいの」
 そう言った途端、祐輔の背後が沸いた。
「本村沙耶の伴奏〜っ? すげーコンビだぜ、これ」
「山田が伴奏、って、もったいなくないか?」
「馬鹿、相手は本村だ。相手に不足なし、だよ」
 どうやら山田祐輔と本村沙耶の対面に、周囲は耳をそばだてていたらしい。
 慎也は呆れたような溜め息をついた。
 沙耶はそれを無視しているかのように、祐輔を見つめたままだ。
 その視線から逃れることができず、祐輔は居心地の悪い雰囲気を味わっていた。やはりこの女はあまりよくない存在だ。
「引き受けて、もらえる?」
 悩むまでもなかった。それが慎也の恋人であっても同じこと。
 祐輔はにっこり笑うと、
「お断りします」
 と、言い放った。背後の騒ぎが止む。祐輔はそのまま慎也の横を通りぬけ、扉をくぐり、廊下へと出て行った。
 慎也は嘆息して、こん、と沙耶の頭を軽く叩いた。
「だから言ったろ。あいつを誘うのは難しいって」
「そう、ね」
 沙耶は相変わらずの無表情だが、懲りた様子はない。
「あいつは誰の演奏にも興味が無いんだと。伴奏なんてもっての外だよ」
 諦めろ、と言外に匂わせる。
「でも、あの人の腕は、評判通りだって、わかった」
「沙耶?」
「……」
 何も、答えなかった。
 山田祐輔も本村沙耶も、他人にあまり興味がないという点において似ているが決定的に違うところがある。
 祐輔は他人の演奏も、そして自分の演奏にも無関心で、あるのは曲を弾きこなす興味だけ。数学の問題に挑む高揚感に似ている。完全な自己満足だった。
 沙耶は音楽で自分を表現するということにとても積極的で、そのための努力は惜しまない。共に演奏する者には同じものを要求する。音楽に対する厳しさを持っている。
 その二人が、出会った日のことだった。






「──は?」
 廊下で担当教師に呼び止められ、思ってもみない話題を振られた。
 同時に、(やられた)とも思った。
「だから、本村の伴奏、やってみたらどうだ。おまえ、そういう経験なかったろ」
 と、説得するような口調で言う。その様子は必死で、しつこく祐輔に食い下がってくる。
 大体どこから情報が伝わったのだろう。──決まっている。本村沙耶だ。
 あのぼーっとしている彼女はこんな裏技を使うタイプとは思えなかったのだが、それは侮りだったらしい。
 まさか教師陣から崩してくるとは。
「それについてははっきりと断わってあります」
 これまたはっきりと、祐輔は言った。
「まあ、そう言わずに。おまえ本村の演奏聴いたことないって? 一度くらい聴いてみろ。聴く価値はあるぞ」
「……」
「聴いてからでも、断わるのは遅くないだろ? な?」

「───と、いうわけなんですよ」
 刺々しい口調で言ってしまってから(これは自分らしくなかったかな)と祐輔は思ったが、まあ、いいことにする。相手は日阪慎也だ。
 慎也も一部始終を聞いて目を丸くしていた。
「…あいつがそこまで本気になってるとは思わなかった」
「本気?」
「悪ぃな、あいつ、本気になると手段選ばないから」
 諦めて降参してくれ、という色を含ませた口調で慎也は言う。しかしその中に第三者特有の面白がっている節があるのも事実だった。
「付き合い長いんですか? 彼女と」
「…え、ああ。まぁ普通」
 と、あいまいな答え方をする。
 はー、と大きな溜め息をついたのは祐輔だ。
 本村沙耶も、慎也も、担当教師も、沙耶の演奏を聴いてから改めて断われば納得してくれるというのだろうか。慎也が言う沙耶の性格通りならそううまくいくはずはないが、沙耶の演奏に興味がないのだといえば、少しは牽制できるのかもしれない。
 祐輔はそんな風に考えて、慎也に沙耶の演奏を聴く機会があるか尋ねた。





 あいつはヴァイオリンを弾くときだけ性格変わるんだ。と、慎也は言った。
 それは本村沙耶という人物を知り、その演奏を聴いたことがある者なら誰でも知っていることだった。
 祐輔は沙耶の演奏を聴いたことが一度もない。
 だから今日、今、それを思い知ることになった。

 空気が、張り詰めていた。
 スゥッと表情が変わる。緊張が伝わる。
 沙耶が操る弓が弦を響かせる。それは想像していたものとは全く違う音だった。
 激しく、荘厳。
 あの華奢な体のどこからこんな力強さが生まれるのだろう。
 いつもどこかぼーっとしているような沙耶からは考えられない、音。
 指先に集中していることが痛いほど伝わってきた。
 激しく揺られるトリル。吸い込まれそうな迫力。心臓を揺さぶられる感覚。
 性格変わるんだ、と言った慎也の言葉も今なら納得できる。
「─────」
 講堂、舞台の上で、本村沙耶はヴァイオリンを構え、弓を操っていた。
 それを聴きに来ている生徒数は祐輔のときより遥かに多いだろう。その理由も、この音を耳にすればよくわかる。
 いつものトロく感じられるほどの穏やかさは、このときの力を取っておく為かもしれない。
 そんな風に感じられるほど、激しいまでの迫力。
 譜面も見ないで、目を瞑り、音の世界を作り上げている。聴衆をも引き込む力強さ。
「どうだ? 祐輔」
 隣から慎也が声をかけた。
「……」
 答えることはできない。
「祐輔?」
 祐輔も、彼女の演奏に聞き入っていたのだ。
 ただ一言、
「…まいった」
 それだけを口にした。
 どうしよう、と思った。
 はじめて。
 ───はじめて、音楽に感動したかもしれない。







 伴奏を受ける旨、本村沙耶に伝えたところ、彼女は別段驚いたりしなかった。
 けれども少しの沈黙の後、彼女ははっきりした声で言った。
「条件があるの」
 その言葉は彼女のほうの優位性を示すものだった。
 柄にもなく、祐輔は意見する。
「…そちらから勧誘しておいて、条件ですか」
「そうよ」
「一応、覗いましょう」
「私、山田くんの演奏が、聞きたい」
 沙耶の言葉に、祐輔は眉をしかめた。
 伴奏を弾きうけると言っているのは自分だ。山田祐輔以外の何者でもない。
「…意味がわかりませんが」
 続ける。
「シモーンやケイナのピアノなんて、CDで聞けるもの。山田祐輔のピアノが聞きたいの。わからない? 私の伴奏にコピーはいらない、山田くんのピアノを聴かせて欲しい」
「────」
「山田くんの演奏を、聴かせて欲しいの」
 沈黙する祐輔の隣で、その一方的な会話を聞いていた慎也は溜め息をついた。
 沙耶の言いたいことも分からないでもない。名演奏家の完璧なコピーを平然と弾きこなす祐輔の、その本人の演奏というのは誰も聴いたことがない。聴いてみたいとは思う。
 演奏家というものは、それなりの技術さえ持っていれば、後は個人の感性、独自の世界観で個性が決まる。
 あまり「自分」を晒すことのない山田祐輔の感性を、そのピアノ演奏で聴いてみたい。しかし。
 山田祐輔の性格が、自分を晒すなんて、できるのだろうか。
「練習は火曜と金曜の放課後。あと一ヶ月、宜しく」
 返事も聞かないまま、沙耶は本件をまとめた。棒読みのような口調の割に容赦がなかった。
 じゃあ、やめます。と、断わればいい。
 けれど口は動かず、声も出なかった。
 一度受けてしまったこと。簡単に意見を返すわけにはいかない。
 これも、祐輔のプライド。
「…宜しく、お願いします」
 それだけ、硬い声で、言った。苦々しい口調だった。

「何で祐輔に拘るんだ」
 帰り際、慎也は沙耶に尋ねた。駅まで一緒に行こうと誘ったのは沙耶のほうだった。
「…」
 慎也の問いに沙耶は答えない。
「あいつは、お前と同じく伴奏者に収まるタマじゃないと思うぜ?」
「…そう言っても、山田くんだって今のままじゃソリストには、なれない」
「あいつにその気はないよ」
「え?」
「演奏家にはならない、って。祐輔の口癖だから」
 口癖。
 というよりも、慎也にはもっと別のもののように思える。
 僕は、演奏家になるつもりはありませんよ。
 祐輔はそう言うけれど、本当は、他人に言うことによって、自分を戒めてるような。
 そんな気がする。
「どうしてもだめだったら、俺がやろうか?」
 慎也の申し出に沙耶は素直に驚いた。微かに笑いながら、
「慎也も、私の伴奏なんてやりたくないくせに」
 と言う。
「そんなことないよ」
「でも私も、七歳の女の子に引きずられてるような演奏者は、遠慮するわ」
 だははっ、と慎也は声をあげて笑った。
「その嫌味っぷり。祐輔と似てるわ」
 当たってるけどな、と慎也は笑いをしまいこむ。そして話題を転じた。
「…気が向いたら顔見せに来いって、父さんが言ってるぞ」
 慎也の台詞に、沙耶は肩をすくめた。
「気が向いたら、ね」
「オイ…」
 このぶんじゃ、いつ気が向くのやら。
 慎也は呆れて苦笑いしつつも、改札で別れる沙耶を見送った。



*  *  *


 山田祐輔は寮の練習室にあるピアノの前に座っていた。
 そして考える。自分の指を見て。
(僕の、演奏…?)
 ずっと、本村沙耶の言葉がひっかかっている。
 今まで考えたこともなかった。
 コピーの特技は昔から持っていたし、その演奏で周囲は評価してくれた。
 それでいいと思っていた。
 それでいいわけじゃないのか?
 ──演奏家の存在価値について、考えたことがある。
 昔の巨匠が書いた曲を奏でるだけの存在。勝手に解釈を歪曲させて、同じものを表現した気になっている存在。そうだ、大体。クラシックを奏でること事体、模倣でしかない。
 既成の曲をカラオケで歌う素人や、昔話を読んで聞かせる年長者と、一体どれだけの差があるというのだろう。──差、など無い。まるきり同じ存在。
 奏でるだけならレコードやCDと同じだ。…そこで生まれる矛盾。レコードだって、演奏者の演奏なのだ。
 では、古い時代の音楽をレコードにして、周囲に聴かせるだけの存在?
 よく耳にする「名演奏者」とは一体なんだ。何が優れているというのだろう。
 表現力? ただ、他人の曲を自分なりに解釈しただけで、何が表現力だ。
 何を言っても、演奏者など、演奏するだけでしかないのに。
 何も創り出すことができないくせに。
「……っ」
 ふと、とあるメロディーが頭の中を過ぎった。
 音楽に携わっている者なら、こういうことはよくある。
(───ああ、これは)
 最近、聴いた曲。
 本村沙耶の、演奏だった。
 この曲は知ってる。何人もの演奏を聴いた。何も思わないはずなのに。
 心の中で繰り返される音楽。
 本村沙耶の演奏を聴いてから。
 これが、本村沙耶の演奏……。





*  *  *


「禁煙、なんだけどな」
 ごほっ、と祐輔はむせた。
 いつものように図書館で煙草を吸っていると、本村沙耶が現われたのだ。
 最近は週二回顔を合わせているのに、わざわざこんな所で会うなんて。
 祐輔は前回と同じように携帯灰皿に揉み消し、ぱちんと蓋を閉める。
「失礼しました」
 何となく、長く同じ空間に居たくなかったので、祐輔は早々に立ち去ろうと荷物をまとめる。そんな中で、沙耶は本棚に向かいながらも、背後の祐輔に声をかけてきた。
「山田祐輔は、見つかった?」
 山田祐輔は、見つかった?
「──」
 祐輔は立ち止まり、息を飲んだ。
 見抜かれている、と思った。自分が今闘っている、葛藤。
「…そんな人間は、元々いないのかもしれませんよ」
 そう返すのがやっとだった。
 強がりでもいい。弱さを見せたくなかった。
 沙耶が振り返る。逃げ出したかった。でも、足が動かなかった。
「私は」
 沙耶の声。
「私は、見えてる、けど」
「え?」
 不可解な台詞に、反射的に祐輔は聞き返した。
(見えてる…?)
 何を?
 沙耶はまた本棚に向き直って、
「何でもない」
 と言った。





 十月最初の週、学内を揺るがすニュースが起こった。
 ピアノ科三回生、万年A組一番だった山田祐輔がE組に転落したのだ。
「山田がEぃ? うっそだろー。んな急に下手になるわけないじゃん」
「はじめてじゃないか? あいつ入学以来Aに居たもんな」
「先生方も大騒ぎだってさ」
「そりゃそーだろ、学校期待の星の危機だもん」
 恒例発表の日の朝。校内は上よ下よの大騒ぎだった。学年・学科問わずこの話題で持ち切りになっていた。
 様々な憶測が飛び交い、情報が入り混じる。
 事実を知るのは、同じクラスの面々だけだ。しかしピアノ科三回生A組の二十名は口を重くし、そのうちの誰かはこの結果は納得しないと言ったという。
「日阪っ、説明しろっ」
 と、教室に飛び込んできたのはピアノ科四回生数名だった。日阪慎也を名指ししたのは、山田祐輔と仲が良いことを知っているからであろう。
「…おはよーございます。先輩方」
「挨拶はいいっ、山田の転落劇は何事だ」
 四回生の間でも山田祐輔の腕と、今回の事件は噂のネタになっていた。
 慎也は何名かのクラスメイトと視線を合わせた後、苦々しい口調で言った。
「サボリですよ」
「なにぃ?」
「先週、あいつは実技の授業をぜんぶサボったんです」

 山田祐輔は、学校の練習室でひとり、ピアノを弾いていた。
「……っ」
 指がかたい。たどたどしく、いつものように弾けない。
 イメージが湧いてこない。
 何故、と思う前に祐輔は、どうしよう、と思った。
 忘れてしまっている。
 指が動かない。
 忘れてしまった? コピーの弾き方さえ。
 焦り始めると気持ちは止まらない。
(…本村沙耶のヴァイオリン)
 今まで祐輔は、尊敬する音楽家はいなかったし、特に好きという音楽もなかった。
 沙耶が弾いた曲は、既成の、何度も聴いたことがあるクラシック曲。
 それなのにどうして、こうも沙耶の曲が耳に残る?
 どうして。
 本村沙耶。ヴァイオリン。
 山田祐輔の演奏が、聴きたいの。
「っ!」
 バーンッ
 何かが弾けたように、祐輔は両の拳を鍵盤に叩き付けた。
 そして駆け出した。


 その日。昼になっても、山田祐輔は教室に現われなかった。





 本村沙耶は山田祐輔を探しに図書館へ来ていた。
 静かで、穏やかな空間。本校舎での慌ただしい様子とはまるで違った、別世界。
「……」
 沙耶はそっと、足を踏み入れた。
 日阪慎也は、今日は祐輔は来ていないと言った。
 沙耶は、祐輔がここに居ると確信があるわけじゃない。居ないなら居ないで別の場所を探すだけ。
 何故なら。
 今、山田祐輔に会いたいと思った。
 それだけなんだけど。
 図書館の司書は事務室に篭っている。他に人の気配は無い。
 静まり返った部屋に、本棚の林、古い本の葉。
 この、妙に閉塞感があるくせに、不安になる広さを感じさせる部屋を、沙耶は好きではなかった。
 好きだという人間は、どんな思いでこの空気に浸るのだろう。
「山田くん…?」
 祐輔はそこにいた。
 いつも、煙草を吸っている窓のそば、その壁にもたれ、祐輔は座り込んでいた。
 手足を投げ、頭を垂れて。
 沙耶の声が聞えたのか、腕がぴくと微かに動いた。
「──君のせいで弾けなくなった」
 うつむいたまま、低く、小さな声。
「どうしてくれるんですか」
 額を手の平で支えて、自棄気味に発音されてしまう言葉を繕うこともしないで。
 祐輔は沙耶に言った。
 山田祐輔の演奏が聴きたい。
 ただそれだけの、沙耶の一言に、祐輔は潰されてしまった。
 ピアノを弾けなくなった。もう弾きたいとも思わない。指が動かない。十年近くやってきたことを、一瞬で忘れてしまった。
 そうだ。そもそも。
 ピアノを弾きたいなんて、思ったことがあっただろうか?
 どうして始めた? いつ? どうして続けてきた? 何か理由があった?
 誉めてくれていた。
 コピーで皆、満足してくれていたじゃないか。
 山田祐輔の演奏が聴きたい。
 本村沙耶。
 嫌な存在。直感があった。
 関わりたくない。
 でも、彼女の演奏を聴いた。───初めて、音楽に感動した。
 あの深さ、音の表現力。彼女の内なる世界。
 嫉妬? あんな風に演奏できたらいいと思った。
 それだけ。
 でも、自分は弾けなくなった。
「…山田くん」
 沙耶の声。
 コツコツと近づく音がして、沙耶は祐輔のすぐ隣に座りこんだ。
 顔を上げると、その顔がすぐ近くにあった。じっ、と、祐輔を見つめている。
 そして、顔が近づいて。
「沙──…?」
 唇が触れあった。
 沙耶は、祐輔にキスした。
 図書館の中、他に人の気配はなかった。
 祐輔が目を見開きただ驚いているだけの間に、沙耶は離れた。
「……山田くんは」
「え?」
「山田くんは、山田くんの中の山田くんに、何もないと思ってる」
「……?」
 祐輔は混乱した。沙耶にキスされたこと、そして沙耶の言葉にも。
 沙耶は変わらない表情で続けた。
「だから、他人と同じように弾けるの。他人の真似しかできない。だって真似しないと弾けないもの。山田くんは、自分のなかに何も無いと思ってるから」
「───」
 祐輔は不思議と、素直に沙耶の言葉を聞くことができた。
「でも私には、ちゃんと見えるよ? 山田祐輔というヒトが。他人の真似しかしないけど、音楽好きなこと。それを自覚してないこと。他人と上手く付き合えない自分にストレスを感じてること。煙草を吸うことで解消してること。本の匂いで落ち着こうとする、他人に弱いところを見せたくないプライド、弱さ。この窓からの景色が好きなこと。…それが、山田くんの知らない、山田くん」
 間を開けた。
「自分を分かろうとしなきゃ、ピアノも弾けないよ」
 ピアノで音を出すのは本当に簡単で、ただ、鍵盤を押すだけでいい。ピアノはある意味打楽器なので、それだけで音が出る。
 でも音を出すことと、楽器を奏でることは違うから。
 そして演奏というのはやはり表現で、表現するのは演奏者。演奏者は何を表現するのかというと、それはいろいろあるけれど、結局は「自分」。それにすべては回帰する。
 自分を、表現する。
 自分を晒す? そんなことできない。わざわざ、他人に自分を見せるなんて。
 そう思っていた。つい、さっきまでは。
 祐輔はくくっと、微かに笑ったようだった。
「山田、くん?」
「……僕の知らない山田祐輔は、随分と器が小さいんですね」
 と、言った。顔に手をあてて、苦笑していた。
 沙耶も、笑ったようだった。
 初めて、笑顔を見た。

 次のチャイムが鳴るまで、二人は壁のもたれ寄り添って、その場に座りこんでいた。
「…慎也と付き合ってるんじゃないんですか?」
 そういえばこんな風に尋ねたこともなかった。
 先ほどのキスがただの慰めなのか確認するために言った。
 沙耶は微かに笑って、
「慎也は、私の、兄」
 と言った。
(……?)
 祐輔は我が耳を疑う。
「はぁっ?」
 大声を出した。沙耶は落ち着き払った様子で言葉を続けた。
「両親が離婚してるの。もう十年くらい前。苗字が違うのはそのせい」
「慎也は何も言ってませんでしたよ?」
「妹が同じ学校の同級生、っていうのは、慎也のコンプレックス。妹のほうが成績が良いっていうのも、そう」
 勝手に入学してきたのはそっちだっていうのに、と、沙耶は勝手なことを言う。
 本村沙耶と日阪慎也は兄妹だった。
「慎也も成績が悪いわけじゃないですよ。常に五番以内にはいますし」
「私は、ヴァイオリン科の一番だもん。…なんて、奢るほうも馬鹿みたいだけど、それにコンプレックス持つほうも馬鹿みたいだよね。そもそも学科が違うんじゃ、勝負にも、ならないし」
「同じ学科には僕がいるからだめですよ」
 くすくすと、二人は笑い合った。
「──それにね」
 と、沙耶が話し掛ける。
「慎也は、だめなの。昔聴いた、ある人の演奏を今も、引きずってるから」
「ある人?」
「…多分、慎也が十一歳のとき、かな。まだ一緒に暮らしてたときだから。私は八歳とか九歳とか、そのくらいだった。慎也がコンクールの全国大会に、出たの。大会の優勝者は七歳の女の子。その女の子は当時は新聞に取り上げられたりもして騒がれていたって。その演奏を、ずっと忘れられないって、言ってた。でも女の子はその大会を最後に音楽界から消えた。──慎也は女の子の弾いた曲を今も弾いてるし、当時の記事の切り抜きを保管してる。…妹としては、この人大丈夫かなって、心配したこともあるけど」
 間を開けた。
「どの音楽を追いかけて行くか、なんて。……個人の自由だもん、ね」
 慎也の経緯にそんなことがあったとは知らなかった。
「私は、初めて山田くんの演奏を聴いたとき、すごく感動した。だからコピーじゃなくて、山田くんの音も聴きたいと思った」
 ほんとだよ、と付け加えた。


 その後。
 山田祐輔は一週間でA組に復帰し、さらに次の週にはトップに返り咲いていた。
 ヴァイオリン科のコンクール課題曲は「亡き王女のためのパヴァーヌ」。ピアノ伴奏にヴァイオリン・ソロという構成。
 本村沙耶・山田祐輔のタッグは話題を呼んで、先生方の間でも噂のタネになり、周囲の予想通り、一位となった。
 後に二人が付き合い始め、同学院新聞部主催のアンケートで「ベストカップル賞」を受賞したときの、山田祐輔による「ま、当然でしょう」という名言は後世に語り継がれているという。
 そして卒業するまで、山田祐輔は「演奏家にはならない」と公言していた。

 ───この次の年の夏、祐輔はKanonという名を知ることになる。





「…煙草の味」
 唇を離した後、沙耶が呟く。もう四年も経つのに、思い出したかのように繰り返される台詞。
「沙耶が嫌ならやめます」
 その度に、同じ回答をする祐輔。
 本日は東京、沙耶のマンションに祐輔はお邪魔していた。
「いいよ。嫌いじゃないし……それに、煙草やめたら山田くん困るでしょ?」
 本村沙耶は音楽院卒業後、東京ミュー・フィル・ハーモニーにオーケストラ要員として入団。現在はビオラのセカンドをつとめるまでになった。
 一方、山田祐輔は卒業後、横浜の実家でピアノ教室を営んでいたが、色々あって現在は芸能界で「Blue Rose」というバンドのキーボードを担当している。
「山田くんはストレス溜めてるしね」
 喫煙が祐輔のストレス解消法だと、沙耶は知っている。
 祐輔はそれを素直に認めたくなく、何か言い返そうとしたがやめた。確かにそういう時期もあったからだ。
「沙耶は違うんですか?」
 彼女の実兄に言わせると「似過ぎている二人」の沙耶と祐輔。負荷がかかるところは同じかもしれない。
「私は演奏することで発散してる。でも、山田くんはそれ、できないもんね」
 それは適性の問題。
 あ、と沙耶が思い出したように声をあげた。
「慎也が、結婚決めたみたい」
 祐輔はさして驚かなかった。
「ショウコさんと?」
 慎也の彼女とは、何度か面識がある。
「勿論。六月だって」
「あの二人も長かったですね。付き合い始めて三年くらい経つでしょう?」
「私もそう言ったら、おまえらはどうなんだ≠チて言われちゃった」
 二人、笑い合う。沙耶と祐輔が付き合い始めてから四年、経とうとしていた。
 祐輔は沙耶を抱き寄せて平然と言う。
「沙耶が結婚したいなら今すぐにでも」
「んー。とりあえず、慎也を送り出してから、かな」
 普通は逆でしょう? と言って祐輔は笑った。
 そして、あ、と今度は祐輔が思い出したように声をあげた。
「そうそう沙耶。実はこんな話がきてるんですけど」
 それは「Blue Rose」のカップリングで弦楽器を用いた楽曲を使用する、それに当たりヴァイオリニストを探しているという内容だった。その候補に沙耶の名が挙がっているのだ。
 沙耶は首を傾げた。
「それって、山田くんのコネにならない?」
 普通なら有名なソリストの起用やオーディションを行うところだ。祐輔も頷いた。
「嫌なら断わってください。僕もそれには意見したんですけど、彼らは単に、僕の彼女が見たいだけなんですよ」
「いつも話してる、愉快な仲間の人達?」
「そう。どうしますか?」

「はじめまして。本村沙耶、です」
 山田祐輔が本村沙耶を連れて練習スタジオに現われたとき、その場にはメンバー全員が既に揃っていた。
 小林圭、中野浩太、片桐実也子、長壁知己、叶みゆき。 
 一瞬の空白の後、実也子は隣に居た浩太に小声で耳打ちする。
「……知らなかった。祐輔って面食いなんだね」
「予想つくだろ、それくらい」
「俺はちょっと意外。あの祐輔の性格と付き合えるってどんな女かなーと思ってたんだけど、結構まとも?」
 会話に加わったのは圭だ。
 その会話がしっかり聞えていた祐輔は笑顔で口を挟んだ。
「性格は僕と似てるって言われますよ」
「うわっ、最悪」
「祐輔、その紹介は彼女に失礼じゃないっ?」
 騒然とするメンバーを前に、祐輔は沙耶に囁いた。
「ね、愉快でしょう」
「…ほんと」
 沙耶は初めて会った祐輔の仲間たちに、好感を覚えていた。

「ちょっ、え? 嘘でしょ?」
 打ち合わせの最中、突然立ち上がり異論を申し立てたのは実也子だった。
「おまえ、話聞いてたか? この曲の使用楽器は、ギターとヴァイオリン二本。浩太と、本村さん、そして実也子だ」
 リーダーである知己が呆れたように言う。その隣でエディターのみゆきも頷いている。
 実也子は天を仰いだ。
「嘘ー。私、もう一人フィーチャー(特別出演)するのかと思ってたよぉ」
「前に、ヴァイオリンやってたって言ってただろ」
「でもー…」
 実也子は普段はベースパート担当。楽器はコントラバス。確かに、コントラバスを始めた初めの頃は、体が楽器を支えられない為にヴァイオリンで練習していた。
「でも、私、下手だよ? 現役のヴァイオリニストと共演なんてできないよー」
「話にならないくらい下手なら、かのんも再考するってさ。とりあえずは合わせてみろよ」
 きゃー、と半ばパニックになっている実也子に同情する者は一人もいなかった。
 結局、その日のうちに圭(ボーカル)、浩太、(ギター)、沙耶(ヴァイオリン)、実也子(ヴァイオリン)によるセッションが行われ、みゆきのOKが出たので明日本撮りを行うことになった。
 帰り際、実也子はまだ渋々言っていた。沙耶の音を聴いてさらに怖じ気づいたらしい。
 しかし。
「山田くん」
 そしてこちらも帰り際。沙耶は祐輔に話し掛けた。
「どうかしました?」
「片桐さんて何者?」
 質問の意図が分からず、祐輔は首をかしげた。
「どういう意味ですか?」
「趣味でやってた人の、音じゃない。…誰かに、ついてたんじゃない?」
 沙耶は実際、今日、実也子の演奏を聴いて驚いた。確かにコントラバスとヴァイオリンは姉妹楽器だが、ここまでの弾き手だとは予想していなかった。
 やはり個人の腕前は、音が薄くなってこそよく表れる。「Blue Rose」ではベースというあまり目立たないパートなので気付かなかったが、実也子の演奏には正直驚いた。
「ああ、…そんな風に言ってたことが、確かにありました」
 以前、実也子は「先生に弟子入りしていた」と言っていた。
「誰?」
「そこまでは。気になりますか?」
「うん…。多分、すごく有名な人だと、思う」
「そうですねぇ、コントラバスっていうと───」
「遠藤周雄、前田公昭、大島秀、杜山雄一郎…。それから」
「でもまさかそんな有名どころではないでしょう」
 祐輔は苦笑した。沙耶も、そっか、と考え直す。
「──でも、今日は楽しかった。山田くんの仲間とも、仲良くなれたし」
「こちらこそ、ありがとうございました」
 


 六月。
 初夏を感じさせる青い空の、暖かい日だった。
 指定された駐車場は丘の中腹にあった。木々に囲まれて、舗装されていない砂利敷き。あまり広くもないその場所に車を止めて、祐輔は目的地へ足を運ばせていた。
 駐車場からは歩いて十分、とある。先程車で昇ってきたアスファルトの坂道を、今度は徒歩で歩く。狭い道で、谷側には都心の街並みが見渡せた。良い天気だった。
 慣れないスーツはどこか着心地が悪くて、とりあえずネクタイを崩してみる。腕時計に目をやると、待ち合わせまであと二十分。十分余裕のある時間だった。
 途中、同じ目的かと思われる何人かと出会う。その中の数人は知り合いで、音楽院時代の同級生だった。あまり付き合いはなかったので挨拶程度の言葉を交わす。
 祐輔は視界の端に、見知った後ろ姿を認めた。
「沙耶」
 その後ろ姿が振り返る。
「おはよう。山田くん」
 沙耶は紺色のキャミソールドレスにシースルーのショールと、肘まである白い手袋をしていた。
「おはようございます。ドレス、似合ってますよ」
「山田くんも、かっこいいよ」
 二人は並んで歩き始めた。
「いい天気、だね。良かった」
「そうですね。折角のおめでたい日ですし」
 森林の中へこのまま散歩にでも出かけたいような、そんな日だった。
 祐輔はちょっと迷ってから尋ねた。
「余計な事かもしれませんけど、今日は沙耶のお母さんは来ないんですか?」
「多分、来ると思う。慎也も招待状出してた、みたいだし」
 バラのアーチをくぐると、そこはもう目的地。
 場所は都内郊外にある教会。
 今日は祐輔の友人であり、沙耶の実兄である日阪慎也の結婚式だった。



「よぉ、来たな」
 新郎側の部屋を訪れると、真っ白いスーツの慎也が振り返り笑った。髪も整えてあり、いつもより三割増、と沙耶も祐輔も同じことを思ったが、本日はめでたい席、控えることにする。隣には慎也の父親が式服で座っていた。
「本日は、ご結婚おめでとうございます」
「おめでとうございます」
 沙耶と祐輔は同時に頭を下げた。
「ありがとう」
 と慎也。照れ臭そうに笑う。そして沙耶はふいともう一人に向き直り、改めて挨拶をした。
「お父さん、久しぶり」
 慎也の父親ということは沙耶の父親でもある。二人の両親は十年以上前に離婚していて、沙耶は母親に引き取られた。その母親はすでに再婚している。
「沙耶。おまえは結婚しないのか?」
 と顔に皺を寄せてからからと笑う父親(気さくな人らしい)に、沙耶は苦笑した。
「会うとそればっかり」
「大丈夫だよ、父さん。遅かれ早かれ隣にいる男とくっつくからさ」
 慎也の台詞に、なにっ、と微かな敵意が込められた視線を父親に向けられた祐輔は、
「はじめまして。山田祐輔といいます」
 と、冷静に名乗った。こういう場面で、微塵も緊張しないのが山田祐輔の特徴でもある。
 続けて、慎也と沙耶の同級生であること、慎也の友人であり、沙耶と付き合いがあることを簡単に並べる。その落ち着きぶりに慎也は舌打ちした。父親に質問攻めにされて慌てる姿を期待していたのに。
 父親のほうからもあれこれ質問されても、祐輔はいつも通り、少しよそ行きの笑顔を見せて、素直に答えていた。
「そうそう、慎也のやつ、沙耶が同じ大学にいるなんて言わなくてな」
「卒業する前にバレただろ」
 突然向けられた父親の愚痴に慎也は肩をすくめる。沙耶も会話に入った。
「でもお父さん。私たちも、狙って同じ大学に入ったわけじゃないよ」
「だよな。俺だって入学してから驚いたし」
 それなら祐輔も知ってる。
 慎也はピアニストになる夢を諦められず二十二歳で音楽院入りした変わり種で、入学してから一ヶ月後、新入生最初の席次発表で沙耶の名前を見つけて驚いたという。二人は両親には秘密にするという同盟を組み、卒業まで隠し通したのだ。祐輔は途中で知らされた。
「あれ。じゃあ山田くんは今は何をしているんだい?」
 合間に、そんな質問があった。
 何気ない質問だった。
「───」
 祐輔は答えるのが遅れた
 質問に意表を突かれたわけではない。ただ、自分の今の職業を何と言い表せばいいのか、分からなかった。
 数ヶ月前までは「ピアノ教室の先生をやっています」と言えば済んだ。現在は?
 何度か、「Blue Roseでキーボードやってます」と答えたことがあるが、これは職業ではない。それ以前にこの父親は「Blue Rose」を知っているだろうか。はたまた「芸能人」などと答えたら笑われるかもしれない。大体、芸能人は職業名なのだろうか。「音楽関係者」と呼ばれたこともあるが、これも職業であるかは謎だ。
「演奏家、だよ」
 沙耶だった。
「!」
 祐輔は胸を突かれた。
 振り返ると、沙耶は微笑んで祐輔を見つめていた。
「山田くんは、演奏家、だよ。ピアノだけじゃなく、電子楽器もこなしてる。テレビに出たりもする、演奏家だよね」
 慎也も、沙耶の言いたいことが分かったらしく祐輔に笑顔を向けた。
「………」
 演奏家。
 くすぐったい響きだった。
 それは学生時代に既に諦めていた道、散々否定してきた未来。
 今、祐輔はそれを生業としているのだ。運命とは、不思議なものである。
「ほう、それはすごい」
 父親が頷いた。
「───…ありがとうございます」
 会話のつながりとしてはおかしかったかもしれない。
 でも祐輔は、慎也たちの父親だけでなく、慎也と、沙耶に、感謝を述べたかった。

「じゃあ、その演奏家にお願いがあるんだけど」
 にかっと笑う慎也。何か企んでいるようだ。すぐ傍らに置かれていた紙の束を無造作に掴み祐輔に手渡す。
「式のとき、この曲弾いて欲しいんだ」
 と言った。紙の束は楽譜だった。何気なく受け取ってしまった後に気付いた。
 祐輔は目を丸くして言う。
「は? 聞いてませんよ」
「言ってない。祐輔なら大丈夫だろ。沙耶、おまえも一緒な。どうせ車に楽器積んであるだろ?」
 とんとんと話を進めてしまう慎也に、祐輔は口を挟んだ。
「ちょっと待ってください。教会にはピアノなんて無いでしょう?」
「大丈夫。借りてあるから」
 抜け目無かった。
「慎也、あのですねぇ」
「おまえ、親友の結婚式なんだから文句言わずに大人しくやれよ」
「そういう台詞は事前に打ち合わせの段取りを組む親友に言ってもらいたいですね」
 二人の会話に沙耶は笑ったようだった。
 ふと、祐輔と目が合う。黙契が成り立ち、二人は笑いあった。
「それに──── 一応、私たち二人ともプロなんだけどな」
「まあまあ。他ならぬ慎也のため、ノーギャラでも演りましょう」
 アイ・コンタクトで意地悪な芝居を打つ二人は、どう考えても性格が悪い。分かっているはいるが、慎也は素直じゃない二人に嘆息した。
「おまえらな…」
「何の曲なんです? …ああ、これって、慎也が学生時代からしつこく弾いてる曲ですよね」
「違うよ山田くん。これ、慎也は十七年前から弾いてる」
 この曲を初めて耳にした時から。
 ───以前、聞いたことがある。
 慎也と、彼の恋人はこの曲をきっかけに出会ったということ。
 まあ、有り体に言えばノロケなのだが、随分と感慨深げに語っていたことを覚えている。
 慎也の彼女とは祐輔も何度か対面したことがあるが、あまり笑うことが得意ではない美人、という認識がある。笑顔が板に付いてないというか、ある種、叶みゆきのようなぎこちなさがある。かと言って大人しいわけじゃない。
 付き合いがあるわけではないので詳しくは分からない。
 でも慎也の隣で見せる幸せそうな笑顔を、祐輔も沙耶も知っている。
 お似合いだね、と沙耶が言う。僕たちほどではありませんが、と祐輔が言う。
 幸せだな、と思った。
「山田くんと演奏するのも、久しぶりだね」
 沙耶が笑う。
 二人はこの四年間、一緒に何度も演奏してきた。
 でも、いつも。思い出す気持ちは四年前の秋───。
 まだ二人が、お互いの音を知らずにいた頃のこと…。




 それは、タイトルもない。
 十七年前の全国音楽コンクールで、七歳の少女が奏でた曲だという。
 この曲が、今日結婚する二人をどのように巡り合わせたのか、祐輔たちは知らない。
 ただ二人が喧嘩しているときも、笑い合っているときも、常にこの曲を意識し続けていたことは、分かっている。
 七歳の少女が作曲したとは思えないこの優しい曲に、慎也たちは二人だけの題名を付けたと言っていた。アルファベット三文字。音楽家の巨匠、そのイニシャルを───。
 その由来も意味も知らない。知らなくていい。でも。
 そんな風に、一つの音楽をきっかけに出会った二人が、どうか幸せでありますようにと。
 祈った。

 ピアノとヴァイオリンの音が、教会の鐘と共に響いていた。

 初夏を感じさせる青い空の、暖かい日だった。







Side.祐輔 END
BlueRose-Side. 祐輔/実也子/知巳/