BlueRose-Side. 祐輔/実也子/知巳/
Side.実也子


 生まれて初めて買ったCDはジャズ・バンド「RIZ」のファーストだった。
 十一歳のとき。
 デッキの前に座って、夢中になって、一日中聴いていた。
 古い家に音は筒抜けで、両親によく叱られていた。
 それでも、手放せない音楽だった。






 Blue Roseという突然現われたバンドに、世間は大騒ぎになっていた。
 三年前の夏、デビュー直後に爆発的ヒットを果たした正体不明のロックバンド『B.R.』。その正体が明らかにされたのが昨年末だった。彼らは全員普通の一般人で、年に一度だけ東京へ集まり、レコーディングをしていたというのだ。クリスマスに行われた記者会見では、「全員それぞれの生活がありますから」と理由付けをして、世間に惜しまれながらも『B.R.』は解散した。
 それから四ヶ月後。Blue Roseというバンドがデビューした。何とメンバーは全員、元『B.R.』。ボーカルが変声期を迎えたため声は変わっているが、それ以外は『B.R.』そのものだった。
 『B.R.』の復帰を待ち望んでいたファンは大喜びで、この復活劇にマスコミも飛びついた。さらに今までのロック調だけでなく、ギター・ソロや弦楽器を用いるなどして幅を広げている。これからの活躍が期待された。
 ファースト・シングルを発表し、数々の雑誌や新聞、テレビ番組などの取材をこなして、ようやく落ち着けたのが一ヶ月経った頃だった。

 というわけで五月。
 東京での住居が定まらず、五人が社長の指示があるまでホテル暮らしを余儀なくされてから一月が経過した。初めのうちは不便を感じていたが、慣れてしまえば快適そのもの。何と言ってもマスコミが入ってこないのが良い。
 五人はホテルのラウンジでお茶するのが日課になっていた。
 午前中にそれぞれの日課(ほとんどは楽器の練習)を済ませ、午後には誰も何も言わないのに自然と集まる時間。全員が集まっているのに本を読んでいたり、それぞれが勝手なことをやっていたり、何も喋らなかったりする時もあるけど、不思議と和む時間だった。
 そしてそんな風にいつも通り集まっているけれど、最近、様子がおかしい人が、約一名。
「ミヤっ!」
「わっ」
 がくん、とテーブルについていた肘が落ちた。片桐実也子は驚いて声を上げた。
「……あ、…え、なに?」
 眠っていたわけでもないのに目が覚めきっていないような表情でまばたきをする。
 隣から小林圭がカップを手渡そうとしていた。
「さっきから、何回呼んだと思ってんだ? ほら、コーヒー」
 ガラス張りの日当たりの良いラウンジ。テーブルに付いているのは実也子を含めて現在五人。
「ありがとーっ。ごめーん、ぼけてたみたい」
 あはは、と手を振る実也子に、隣から山田祐輔がつっこみを入れた。
「かれこれ三十分は、その雑誌、頁が止まってましたよ」
「やだぁ、つまんないもの見てないでよ、祐輔」
 三十分というのは勿論冗談だろうが、かなり本格的に実也子は上の空だったらしい。
「目ぇ開けて寝てるとか?」
 中野浩太が半分真剣、半分冗談で言う。
「顔色悪いぞ」
 と、声をかけたのは目の前に座る長壁知己。実也子はハッとして、
「うっそ、ファンデの塗り甘かったぁっ?」
 と、オーバーな仕種で窓ガラスに自分の顔を映した。
「違うって…」
 知己は呆れた。「真面目に言ってるんだ」と言いかけると、実也子は立ちあがり、
「と、ゆーわけで、ちょっとしつれーい。鏡見てくるっ」
 言うが早いが実也子は祐輔の後ろを擦りぬけて席を離れた。やれやれ、と知己は嘆息する。
 しかしその実也子を呼び止める声があった。
「実也子さん!」
 丁度、叶みゆきがこちらへ近づいてきたところだった。
 彼女は他の五人のようにこのホテルに常駐しているわけではない。noa音楽企画との連絡係やマネージャー的役目を果たしていた。本職はBlue Roseのプロデューサーで、既に次の企画を始めているという彼女は、今、一番忙しい身かもしれない。
「…かのんちゃん? どうかした?」
 みゆきの呼びかけで立ち止まった実也子は、振り返り足を戻した。みゆきは手の平の中のメモ用紙に一度目を落として言った。
「フロントにお客様です。実也子さんに」
「!」
 実也子は過敏に反応し、何かに刺されたようにその表情が歪んだ。誰にも見られなかったのは幸いだった。
 それでも次に発したいつもより低い声は、全員が気が付いただろう。
「…誰?」
 据えた、重い声に、誰かが振り返るより先にみゆきが続きを言った。
「ご家族の方? 片桐俊哉、ですって」
「えっ!」
 表情が一変、パッ、と実也子の顔がほころんだ。嬉しさを隠し切れない表情で、すぐさまその場から駆け出した。
「実也子?」
「皆も来て、紹介するよっ」
 広いラウンジに響き渡るほどの大声を出して、実也子はフロントへ向かう。途中、人にぶつかりながらも身軽な動きでラウンジを出て行った。

「俊くんっ!」
 実也子は意中の人物を目ざとく発見し、その名を呼んだ(叫んだ)。
 片桐俊哉はフロントカウンターそばのソファに座っていた。大声で名前を呼ばれてビクッと肩を震わせたが、声を発した実也子を見止めると、その相変わらずの性格に柔らかい笑顔を見せて立ち上がった。
「よ」
 実也子は足の速度を落とさずに、そのまま俊哉に突進する勢いで抱き付いた。
「来てくれたんだっ、ありがとーっ」
 俊哉はタートルネックのシャツにブルゾンという比較的軽装に荷物が一つ。実也子より十五cm背丈があるため、そのタックルにも倒れないで耐えることができた。
「ついでにね」
「かわいくないなー、もー。でもどうしたの? 突然」
「心配だから様子を見てこいって、母さんが」
「信用ないのね、私」
「信用はあると思うよ。危なっかしいだけで」
「とーしー。二十になってもまだ姉にそーいうこと言うわけ」
 くすくすと笑う二人の顔はどこか似ている。二人とも母親似だった。
「え? ミヤのきょうだい?」
 後に続いてきたみゆきを含む五人。圭が驚きの声を上げた。
 実也子はあっと向き直り、俊哉の腕に手を回したまま言う。
「そうっ、自慢の弟だよっ。いい男でしょ」
 満面の笑顔で紹介した。自分の弟を紹介する言葉としては珍しいのではないだろうか。
 実也子の隣、俊哉は目の前に立つ五人に深々と頭を下げた。
「片桐俊哉といいます、はじめまして。いつも姉がお世話になっております」
 その礼儀正しさに一同は少なからず驚いた。本音が思わず口に出たのは浩太だった。
「…性格は似てないようだけど」
「どういう意味?」
 刺々しい声で浩太に詰寄る実也子。
 一同に笑いが起こった。
「浩太ー、一言多いよ」
「そうそう。例え本当のことでも言っていいことと悪いことがあります」
「祐輔…、俺はそこまで言ってないから」
 圭と祐輔の会話を聞いて、俊哉も吹き出した。砕けた表情で笑って、実也子の居る環境を知って、安心したようだった。
 その後、改めてのメンバー紹介と歓談。「それから、やっぱり頼まれてしまった」と、俊哉は色紙を数枚差し出した。大学の友人に、Blue Roseのベーシストの弟だとバレてしまったらしい。五人は色紙にそれぞれの名前とバンド名を書いた。(全員、楷書体なのが笑える)
「あんまり、姉弟って感じしないな」
 と言ったのは圭だった。実也子と俊哉は目を見合わせて笑った。笑うときの表情はやっぱりどこか似ていて、血縁なのだろうということは一目でわかるのだか。
 実也子は俊哉と腕を組んで言った。
「俊くんは弟っていうより、友達なんだよね」
 そういう姉弟関係を、結果的に築いた片桐家であった。

 俊哉を見送るため、実也子はエントランスの外に足を運んでいた。一応、人目があるので変装用の帽子をかぶっている。
「別件の用事もあるからあと数日はこっちに居るんだ。上野のホテル泊まってるから、何かあったら連絡して」
「うん」
 ホテルの近くの駅まで歩くことにする。二人は肩を並べて、歩道を歩く。
 少し前は一緒に買い物へ出かけたりもしていたが、実也子が東京で暮らすことになったので、こんなシチュエーションも懐かしく感じた。
「いい人達じゃん、皆。安心したよ」
「心配だったの?」
「後、俺は、実也は男を見る目が無いと思ってたけど、今回は当たりみたいだな」
 長壁知己のことは嫌というほど聞いていた。片桐家の長女は弟に恋愛相談をするので。
「なによ、それ」
 男を見る目がない、と評され実也子は苦笑いした。
 その笑いを抑え込んで、実也子は声を落とした。
「ねえ、俊哉」
「…なに?」
「私、迷惑かけてないかなぁ? 今、Blue Roseやってることで、父さんと母さんと、俊哉に」
 暗い声で実也子が言うので、俊哉は実也子の頭を小突いて言った。
「まーた、何か悩んでんの? 父さんも母さんも、好きにやればいいって言ってくれてるじゃん。まぁ、ミヤがまた家を出たせいで淋しがってるみたいだけどさぁ。俺だってミヤが有名人になったことを学校で自慢してるしさ。鼻が高いよ」
 俊哉が元気付けようとしてくれているのが分かった。微かに笑って、そっか、と実也子は呟いた。
「来てくれてありがとう。楽しかったよ」
 駅の改札で、手を振って別れた。


 同日、夜。

 コンコン
 ホテルの部屋、ドアをノックされた。空耳かと疑ったけど、どうやらそうではないらしい。
 実也子は枕元のデジタル時計に目をやる。時間は二時を過ぎていた。
 丁度起きていたので、パジャマの上からカーディガンを羽織り、部屋のドアを、そっと開けた。
 すると、
「…長さんっ?」
 知己が立っていた。実也子は大声を出した自分の口元を咄嗟に塞いだ。ドアを開けているのだ。深夜の廊下に響いてしまう。
 気のせいだろうか。知己は機嫌が悪そうだった。
 声を潜めて実也子は知己に言った。
「どしたの、こんな遅くに。今日は入れないよ」
「馬鹿、違うよ。…さっきホテルの従業員呼んでたろ。何だったんだ?」
 実也子は首を傾げる。
「え? 別に。…ちょっと寒かったから毛布持ってきてもらっただけだよ。まさか浮気なんかしてないって」
「ちゃかすな」
 強く響いた知己の声に、首をすくめた。心配そうな声が続いた。
「最近、寝てないだろ? 昼間ぼーっとしてるし、顔色が悪い。…何かあったのか?」
 知己の手が実也子の頬をなぞる。実也子はくすぐったそうに笑う。
「おせっかいだなー。何にもないよ」
「じゃあさっきの従業員に訊いてくるぞ?」
 知己の疑う言葉に、むかっ、と意味不明な言葉を実也子は吐いた。睨む視線と共に、低い声で言った。
「──怒るよ? 訊いてきても同じ。…ほらっ! 毛布だってここにあるしさぁ」
 手元に持っていた毛布を知己の胸に押し付ける。でもすぐに表情を和らげて、
「心配してくれるのは嬉しいけど、過保護なんて長さんらしくないじゃん。…それに、もし、本当に私が調子悪かったとしてもあんまり騒がないでよね。心配性なのはかのんちゃんだけだけど、うちのメンバーそういうの気にしすぎるでしょ?」
 ね? と、たしなめるように言った。
 勿論、これは実也子の調子が目に見えて悪かったときのことを仮定している。現在の話では、なく。
「……実也子」
「本当に何でもないってば。ほらほら、早く寝ないと明日、起きられないよ? それにうら若き乙女の部屋へ深夜訪れるなんて、人道外れた行為だって」
 知己はもう少し何か言いたそうだったが、実也子もいい加減早く寝たいので、長さんといえど追い返すことにする。
 知己も降参するように肩をすくめて、
「人道は外れてないと思うけど」
「ほらほら、そこでつっこまない」
 二人してくすくすと笑った。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だから」
「わかったよ。おやすみ」
「ね、長さん。おやすみのキスはー?」
「あほ。じゃあな」
「ケチー」
 むくれる振りをしながらも、おやすみなさいと言って実也子は手を振った。パタン、とドアを閉めた。
「…」
 また、静寂が訪れた。
 からん、と、実也子の足元に何かが落ちた。毛布の中から転がり落ちたのだ。
 実也子は溜め息をついて、それを拾う。
 手の平におさまるくらいの、透明なビン。
 ホテルの従業員に、毛布と一緒に持ってきてもらった胃薬だった。
(こんなものが効くとは思えないんだけどね)
 知己には嘘をついた。
 心配はありがたいと思う。でも。
(情けは私のためにならないんだよ、長さん)
 備え付けの水差しから水をコップに注ぎ込む。それを持って、実也子はベッドに乱暴に腰を下ろした。コップは枕元の台に置いた。
「………ばか」
 小さく小さく、呟いた。これは自分に対しての言葉。
 実也子は乱暴に薬ビンを開け、三錠ほど取り出し、一気に飲み込んだ。ついでにコップの水も掻っ込む。口の端から溢れた水をパジャマの袖で拭う。
 水が気管に入って激しくむせた。実也子は涙が出るほどの胸焼けを覚えながらも、ベッドに潜り込み布団に包まり、一人丸くなった。
 五分ほどでそれは収まり、さらに二時間後、実也子は眠りにつくことができた。


 私たち≠ヘ、皆ライバルだった。
 互いに競い合い、蹴落とし、淘汰されてゆく。目指した場所へ辿りつく為に、先生の下へ集っていた。
 そんな場所だと知っていた。
 ここ≠ノ居ることの誇りと責任は誰もが自覚していたし、先生への尊敬と羨望も当然のように持っていた。
 実也子もそれが自分の選んだ道だとそれらの慣習を受け入れてきたし、偶に対人関係の不穏や技術のスランプに悩まされても、不器用ではあるが立ち直り、しっかりと前を見続けてきた。
(きっかけは、何だったっけ?)
 もう忘れてしまった。
 ぷつ、と糸が切れるように。
 前が見えなくなったことがあった。
「───どうした」
 声をかけてくれたのは……そう、先生だった。
 問い詰めるわけでもない、優しい声だった。
 先生の顔を見たら、涙が出てきた。
 十三歳の時から六年間。師と仰いだ人、いろんな事を教えてくれた人、叱ってくれて、優しかった人。
「……やめる」
「え?」
「先生。私、もぉやめます」
 意外にも、簡単に言うことができた台詞。後にこの台詞を悔いたことは一度もない。
「やめます…。音楽なんてやめる」
 やめる。
 自分のちからではどうしようもない壁を感じ始めたのは、もう何年も前のこと。
 その壁を越えることはできないのだと、わかった。

 壁の名前はたった少しの試練。実也子の決断は挫折という。

 ───────片桐実也子は十九歳だった。




「……ぎぼぢわるい…」
 とーとつに。口元を手で押さえて、呟く。
 午後。いつものラウンジでのこと。
「───は?」
 突然の発言に、その他四名は実也子に注目した。真っ青な顔で、口を押さえている。
「ミヤ?」
 本当に具合が悪そうだった。実也子の隣に座っていた祐輔が心配そうに手を出してきたが実也子はそれを遮った。
「ごめーん、ちょっと失礼」
 低い声で呟くと、実也子は席を立ち、レストルームの方へ走っていった。
「大丈夫か? あいつ」
 浩太が呟く。次に圭が、
「ツワリかっ? 長さん、とうとう…」
 ゴツンッ
 容赦無く、圭は知己に殴られた。
「いてーッ!」
 そのままテーブルに伏す。
「ちっとは手加減しろよっ……。あれ?」
 軽い冗談だろっ、と、圭が頭を上げると、知己はもうそこにはいなかった。残っているのは祐輔と浩太だけだ。祐輔の指差す先で、知己が実也子を追ったことを知った。

*  *  *

 吐きこそしなかったものの、幾分すっきりして実也子がレストルームから出てくると、知己が壁にもたれて立っていた。
 ある程度、予測していたけれど。
「……だーからー、長さん」
 はふー、と実也子は額に指を当てて溜め息をついた。知己の隣に、並ぶ。
「あんまり、私をカッコ悪くさせないでよぉ」
 苦笑い。表情を隠すように、前髪を掻きあげる。
 心配させたくないから、迷惑かけたくないから。気を遣って欲しくないから、自分の弱いところを見せないよう努力するのに、簡単にバレてしまっている。
 カッコ悪い、と思う。
「────」
 知己は壁に背中をもたせたまま、無言だった。
 実也子は苦笑いして、知己の腕に、自分の両腕をするりと回した。
「何でもない、って言っても、通用しないかな。長さんには」
「まーな」
 即答があった。しょうがない。白状することにする。
「…確かに、最近眠れないんだ。胃も調子悪いし」
 でも、と続ける。
「眠れないのはつまんないことを考え過ぎてるからだし、胃が痛いのも以下同文。どっちも理由ははっきりしてるの」
 しっかりした迷いの無い声。知己は実也子の顔を覗き込んだ。
「そのつまらない考え事っていうのは?」
「言いたくない」
 ぴしっと言いきる。でもすぐに笑顔を見せた。
「ねぇ、長さん。確かに私は長さんみたいに要領良くないよ。でも自分の問題を自分で解決できないほど不器用じゃないつもり。心配かけてごめん。何も言わないで見守ってて? 私はちゃんと、一人で立ち直るからさ」
 なーんて、ちょっとクサかった?
 実也子はそこで知己の腕から離れた。
「…おい」
「早く戻ろ? あ! これで私がツワリでーすとか言ったら、皆びっくりするかなぁ。勿論相手は長さん」
 既にいつもの笑顔。実也子はスキップするような足取りで、祐輔たちが待つテーブルへと向かう。
「そのネタは圭が言ってた」
「えっ、そうなの? もー、圭ちゃんはー」
 ネタを取られたことの恨み言を吐きつつ、知己より一足先に実也子は走っていった。

*  *  *

「ごめーん。食べ過ぎみたい。失礼、失礼」
 実也子が元居たテーブルに戻ると、そのいつもの調子に三人は安心した。
「食べ過ぎって…、そんなに食ってたっけ?」
「皆がいないところで。夜食とかね。えへへ」
 ぽりぽりと頭をかく。知己以外の三人は笑ってくれた。気を遣ってくれたのかもしれない。
「あ、そうそう。実也子さん」
 と声をかけたのは祐輔だった。
「んー?」
「今度、僕と一緒にデートしませんか」
 その、唐突な発言に、素直に驚くリアクションを返したのは浩太と圭だった。実也子は目を見開たものの、面白そうに祐輔の顔を覗き込んだ。満更、悪い気はしない。
「なになにー。どうしたの? 突然」
 祐輔は、というと、この人物がポーカーフェイスを崩すはずもなく、いつも通りの口調で、いつも通り面白がっている。他人にとってはた迷惑なこともあるけど、祐輔の企てに実也子もあやかろうというのだ。
「こういうものがあるんですが」
 ぴらっと、紙幣大の紙を二枚、差し出した。
 実也子はそれに目を走らせると、ガタンッと立ち上がり大声を発した。
「あーっ! これ、前田公昭のコンサートチケットっ? えっ、どうしてっ? これ、なかなか手に入らないんだよぉっ?」
 ふるふると震える手でチケットを握り締め、実也子は力んだ。
 前田公昭。その名を実也子は当たり前のように口にしたが、浩太と圭と知己は首を傾げていた。
「ちょっとツテがありまして。…実也子さんの趣味でしょ?」
「なんでわかったのー? 私、今一番尊敬してる人って前田先生なんだよぉっ」
「何となく、技術的…というか拘ってるところが同じ方向だと思って。…どうです? 行きますか?」
 実也子は隣に座る祐輔に抱き付いた。
「もちろん行くーっ、ありがとうっ、祐輔っ」
 そのまま、興奮が収まらないのか実也子は「ありがとう」を連続した。祐輔も別段動じる様子もなく、どういたしまして、と言った。
「でも、長さんの視線が痛いので離れません?」
「誰がだよ」
 合い向かいに座っている知己がつっこむ。
「やだー、長さん。やきもちぃ?」
 笑いが収まらない実也子。大人しく椅子に座り直した。
「でも、いいの? 二枚あるってことは、沙耶さんと行く予定だったんじゃない?」
 本村沙耶はこの間一緒に仕事をした祐輔の彼女だ。
「沙耶経由で二枚貰ったんですよ。何でも団員仲間が入手したらしいんですけど、合宿と重なって行けなくなったそうです。沙耶は実也子さんにあげたくて、チケット貰ってきたそうですよ。本人も合宿組ですから」
「じゃあ、後でお礼を言わなきゃ。ついでにエスコートに祐輔を借りるお礼も」
「こちらこそ、喜んで」
「ところで、前田公昭って誰?」
 会話の区切れを狙って圭が疑問を口にした。
「あ、そっか。別にコンサートと言ってもアイドル歌手じゃないよ」
 と、実也子は苦笑する。祐輔が言葉を継いだ。
「日本を代表するコントラバス奏者の一人────実也子さんと同じ楽器ですね。本人は多分六十歳くらいだったと思います。コントラバスでは珍しくソロ・コンサートも演るし、テレビにもたまに出てますよ。巨匠と呼ばれる一人であるにもかかわらず、オーケストラの一人として出演することもあります」
 その祐輔の説明には、実也子も驚いた。
「祐輔、詳しいねー」
「それくらい有名だってことですよ。雑誌にもよく出ているし」
 それは実也子も知ってる。雑誌の特集はけっこうチェックしているのだ。
「ミヤって、なんで弦バス始めたの?」
 浩太が言った。
「あ、そっか。言ったことなかったっけ?」
 でも改めて言うとなると照れるものなのか、実也子ははにかむように笑った。
「私はどっちかっていうとクラシック畑の人間だけど、元々この楽器を始めたのはあるバンドのファンだったからなの」
「バンド、って?」
「RIZっていうジャズバンド。解散したのはもう七年くらい前だから、中野や圭ちゃんは知らないかな。RIZのリーダーで、ウッドベース担当の加賀見康男って人がいてね。…あ、もう亡くなったんだけど。この人がものすごくかっこいいの! 十一歳の幼心にも本気で惚れたなー。とにかく、加賀見さんに憧れて、弦バス始めたの。私」
「えー、でもこの間、クラシックの演奏家に弟子入りしてたって言ってたじゃん」
「そう。加賀見さんの尊敬するベーシストがクラシックの人でね。私はほとんど押しかけで、その人のところに弟子入りしたんだ。一ヶ月も経たないうちに、今度はクラシックにハマってたよ」
「ジャズの次にクラシック……って、普通、逆じゃないですか?」
 と、祐輔は苦笑した。でも、実也子らしいかもしれない。
「私の初恋は、RIZの加賀見康男さん。次は私の師匠だよ」
 そう言って、笑った。






 翌日。
 午後六時。
 部屋の電話が鳴ったとき、相手が誰なのか実也子は咄嗟に判断できなかった。
(かのんちゃん…? …長さんかなぁ)
 どちらにしてもこの時間にかけてくるのは珍しい。
 みゆきがかけてくる場合は仕事のことだろうし、知己の場合食事の誘いとかだったら個人的には嬉しい。
 ベッドに腰かけて、枕元の電話をとった。
「はい、もしもーし。片桐でーす」
 ホテルの電話の場合、普通は名乗らなくても良い。実也子はほとんど勢いで受話器に向けて言った。
 返ってきた声は想像したうちの誰でもなかった。
「フロントでございます」
 きれいな、高い声が返ってきた。その人物の顔もすぐに頭に浮かんだ。フロントカウンターにいる、すでに顔見知りとなった女の人だ。
「あっ、はい。何でしょう」
 実也子は改まった声を返した。
「フロントに塚原様という男性の方がいらっしゃっています。片桐様に面会したいとのことですが、いかがいたしましょう」
 呼吸が止まった。
「すぐ、行きますので、ロビーで待っててもらえるように伝えてもらえ、ますか?」
「かしこまりました。この件は安納様にお伝えしたほうがよろしいでしょうか?」
「いえ、その必要はありません。全くの、プライベートですから」
 受話器を置くときに、最大限の注意を払った。少しでも気を抜くと、落してしまいそうに手が震えていたから。
 ドクン、と。自分の鼓動が嫌に耳につく。
「はぁ…」
 わざと声に出して、実也子は溜め息をついた。
(やっぱり……、来たか)



 会うのは三年ぶりなのに、実也子は相手をすぐに見つけることができた。
 多分、今二八歳だっただろうか。よく覚えていない。
 それからもう一つ。実也子は、彼が自分のことを良く思ってないことを知っていた。
「こんにちは。片桐さん」
 目の前で懐かしい顔が笑った。
 彼は自分の嫌いな相手に対しても笑顔を見せられる人柄だ。それを性格と呼ぶか外面がよいと呼ぶかは難しいところだ。
「────…塚原くん」
 彼の名は塚原正志といった。
「久しぶりだね」
 と言っても、塚原が実也子との再会を喜んでいるわけじゃないことは伝わった。
「…もし来るなら、塚原くんだと思ってた」
 七人のうちで。
 塚原の、仲間…とは言えないかもしれないが、とにかくあと六人同じ立場の人間がいる。塚原正志を入れて七人。
 片桐実也子を入れて、八人に、なる。
「はは。ほら、弟子の中では俺が一番年下だろ? 押し付けられちゃってさ。──と言っても、君なんか放っておけっていう意見のほうが多いんだけど」
 実也子は塚原が何しに来たのかよくわかっていた。
「…先生は?」
「何も言わない。演奏会が近いんだ、ゴタゴタしたくないんだよ」
「…」
「で、片桐さんは今頃現われて、先生の顔に泥を塗る気?」
「まさか…っ」
「知ってるだろ? 先生の芸能界嫌い。君がどう思ってるか知らないけど、マスコミは近いうちに君らの経歴を調べあげるだろうし。君が昔、先生の門下生だったとバレたら、こっちも迷惑するんだけどな」
「───」
「それと、俺らの中には、クラシック界を志し半ばで諦めた君が、芸能界で騒がれているのを、面白く思ってない奴もいる。はっきり言って君は目障りだから」
 実也子はしっかりと、塚原の言葉を受け止めた。
 それでも崩れることはない。それは塚原に対して、ある種の「意地」が働くからだ。
 対等なライバル関係を保つためには、気弱な態度は見せないことだ。
 実也子は挑戦的な口調で言った。
「…変わってないなぁ、塚原くんは」
 次の瞬間。
 パンッと渇いた音をたてて平手が飛んだ。
 塚原の右手が、実也子の頬を叩いたのだ。実也子はよろけたものの、どうにか倒れずに済んだ。
 頬が、熱くなった。
「……っ」
 何をされたかは、すぐに理解できた。
 目に涙が滲んだ。でもこれは酷いことを言われたせいじゃない。殴られた屈辱からでもない。
 ただ、少し痛かっただけだ。それだけの涙だ。
「君も、自分勝手なところ、全然変わってないね」
「言われなくても、…分かってる」
 自分がどんなに我が儘で、勝手で、周囲に迷惑かけてきたかなんて、よく分かってる。
 そんなこと、塚原に言われるまでもない。
 ほとんど押しかけで弟子入りしたのに、勝手にやめて、教わった技術を利用して別の場所で活躍しようなんて、虫の良い話。
 言われるまでもない。
 けど。
 塚原の言葉を、平気で聞いていられるわけじゃない。
 塚原の言葉は全て真実だから、深く、胸に突き刺さっている。
(どうしよう。泣いてしまうかもしれない)
 もしこれが塚原の前じゃなかったら、泣いているかもしれない。もし私が一人だったら。
 もし、誰か───。
「実也子っ」
 知己の声が聞えた。
「長さんっ?」
 駆け寄ってきたと思ったら、間に割って入って、塚原を睨み付けた。塚原は知己が誰かなのか分かっているらしく、事情説明も言い訳もなく、無言で目をやっただけだった。
「何やってんだ!」
 先ほどのシーンを、知己は離れた所で見ていたらしい。咄嗟に弁解したのは実也子だった。
「長さん、何でも…何でもないから、騒がないで」
 未だ熱い左頬を押さえながら、知己を抑制する。
 ホテルのロビーで男が女を殴ったのだ。周囲の幾人かに注目されているのが分かる。これ以上騒ぎを広めたくない。
「…でも、実也子」
「ほんと。私は大丈夫だから。───塚原くんも、せっかく来てくれたのに申し訳ないけど、用件がそれだけだったら今日は帰ってくれる? 本当に、ごめんね」
「ああ。もう二度と来ないよ」
 じゃあな、と捨て台詞を残して、塚原はホテルのエントランスから出て行った。



「実也子っ、何ださっきのは」
「お願いだから騒がないで。…本当に、何でもないから」
 知己の手を振り払って、実也子は安心させるような笑顔を見せた。でもすぐに俯いた。
 今は知己の声さえ、鬱陶しく感じる。皆の、心配そうな視線も、何もかも。
 顔がひきつって笑えない。こんな私、見られたくない。
 前田先生。
(自業自得だ…)
 好き勝手に生きてきたことの、これは罰だ。
「実也子っ」
「何でもないったら!」
 強く、叫んだ。
 しまった、と思った。
 口元を抑える。自分の発した声が信じられなかった。
「…あ。ごめん」
 呟いた。
(こんなの私らしくない…)
 私らしくないよ、と言い聞かせるように、強く、胸の中で呟いた。
「ミヤ」
 え、と顔を上げる。
 圭が濡れたハンカチを差し出していた。
「冷やすと、腫れ、おさまるから」
「あ…」
 左頬を押さえていた左手で、それを受け取る。
「ありがとう」
 圭は時々ハッとするような気の遣い方をするときがある。ありがたいな、と、心から思った。
 まだ熱い頬にハンカチを当てると、ひんやりとして気持ち良かった。
 心も落ち着いてきた。
 鼓動が安定してきて、深呼吸をすると気分が変わった。
 知己の顔を見ると、相変わらず何か言いたそうな目をしていた。実也子はもう一度深呼吸をして、
「…さっきの彼は、昔の知り合いなの」
 と切り出した。
「もう何年も会ってなかったんだけど、今回のことで私のこと聞いて、会いに来てくれたみたい」
「その知り合いが何でおまえを殴るんだよ」
「………」
 実也子は言葉に詰まった。説明が難しいし、説明したくもない。
 答えないでいると、祐輔が口を挟んだ。
「───塚原正志でしょ。あれ」
「何で知ってるのっ?」
 実也子は飛び上がった。
 祐輔の口からその名前が軽々出てくるなんて。
「今年のコンクールに出てましたよ。ほら、三月の。前田公昭の門下生の一人」
「前田…って、この間言ってたクラシック界の大物ベーシスト?」
 浩太が尋ねる。祐輔は頷いた。
「ええ。前田公昭には七人の弟子がいるんです。年齢はバラバラですが、皆それなりに活躍しています。何でも前田公昭は公式のコンクールには門下のうち一人しか出場させないとか。今回はその中で最年少ながら塚原正志が出場しました」
 すらすらと語る祐輔の言葉の内容は、実也子が当たり前のように知っていることだった。
「……あ、あいかわらず詳しいねぇ」
 どうにかおどけた声を出すが、思った通りには響かなかった。
 祐輔は実也子に視線を向けて、さらに続けた。
「でもこれって、クラシック界ではかなり有名な話なんですよ。雑誌にも書いてあります。実也子さんも前田公昭のファンって言ってたし、多少知ってるんじゃないんですか?」
 祐輔の台詞は、疑問ではなく確認だった。
 ここまで言われて、実也子のほうも気付かないはずがない。
 観念したように溜め息をついて、実也子は苦笑して言った。
「祐輔、意地悪だなぁ…。気付いてるんでしょ? もう」
 察しの良すぎる彼のことだ。もしかしたら祐輔の台詞だけで他に気がついた人がいるかもしれない。
 例えバレているとしても、できれば口にしたくなかった。
「…そうよ」
 でもあえて実也子ははっきりと明確に、自分の過去を明かした。
「私は、十三歳から十九歳になるまで、前田公昭に師事してたの」

「祐輔が言った通り、さっきの塚原くんは兄弟弟子。…前田先生の顔に泥を塗る気かって、叱られた。だから、叩かれたの」
 こんな所で何してるんだ、と。よく顔が出せたものだ、と。彼の言いたいことは、分かった。
 殴られるくらいのことは初めから覚悟してた。
 単なる暴力じゃなく、無言の戒めのようなものがあって、八人の間では厳しく監視しあっている節があったから。前田公昭の弟子、という誇りと責任が、そのような関係を作るのだ。恥ずかしくないようにと、お互いがお互いを高める。
 あれだけの言葉と、一発叩くだけで塚原が帰ったことのほうが、実也子は意外だった。
「あ、でも気にしないでね。あの人は、クラシックが高尚な音楽だって、思い込んでるだけなの。…先生はそんな風に教えたこと、なかったのにな」
 ははは、と少しだけ笑うことができた。
 少し間をあけて、祐輔が尋ねた。
「…前田公昭のところをやめたのはいつですか?」
「筧さんのお店でKanonの曲を聴く二ヶ月前」
「どうしてやめたんだ?」
 ちくんと胃が痛んだ。
「────…」
 知己の質問に、実也子は口を閉ざした。一度だけ視線を泳がせて、
「私ね、十三のときから先生に弟子入りしてたんだよ。中学一年だった」
 と、語り始める。知己たちの目を見ないように、続けた。
「でも群馬の地元の学校へ通ってた。平日の放課後は、地元のベーシストの先生に教わりながら前田先生のメニューをこなすの、夜の十時まで。土日と、夏休みとかは、東京に来て練習、先生の家に泊まってた。……ははっ、今思い返すと笑っちゃうよ。そんな生活を、六年間も続けてたんだよ? 高校も地元だったからね。ほんと、感心しちゃう」
 声が震えた。四人は黙って聞いていてくれた。
 少しだけ胸が痛んだ。
「前田先生はとても厳しい方だし、私は他の兄弟弟子とも折り合い悪かったし…。結局、その厳しさに耐えられなくなって、…そんな生活に我慢できなくなって、飛び出しちゃった」
 やめた理由はそんなところ、と実也子は付け足した。
「……」
 それを聞いていた実也子以外の四人──知己と祐輔と浩太と圭は、誰からともなく目を合わせた。四人とも言いたいことは同じなようで、それに対する回答も同じであることを視線だけで確認し合う。
「…? なに?」
 それに気付いた実也子は、一人わけが分からず首を傾げた。
「───ミヤ」
 どうやら代表として圭が言うことになったらしい。でも。
 実也子に向けられた四人の視線はとても厳しいものだった。
「それを本気で信じさせようって思ってるなら、俺ら、かなり、なめられてるな」
 え?、と実也子は呟いた。意味がわからなかった。
「え…、なに? どうして?」
「嘘ついてまで言いたくないなら、別に無理して訊かなくてもいいじゃん」
 と、含みを持たせて言ったのは浩太だ。
「中野? …私、嘘なんかついてないよ?」
 誰かが溜め息をついた。
 そして圭が言った。
「この中で一番努力家なのってミヤだぜ? 努力家って言葉が違うなら単に練習好きって言ってもいい。だから、そんなミヤが、練習がキツくて逃げたってのは嘘だな」
「…っ!」
 実也子は動揺した。その表情を出してしまった。
 図星をさされたのは、勿論嘘をついた自分が一番よくわかってる。
 でも。
 本当のやめた理由なんて。
 皆に言いたくない。絶対、言いたくない。
「…買い被りすぎだよ、皆」
「もっとはっきり言うと、今のおまえが嘘付いてるのは誰でもわかる」
「……っ」
 知己にまで言われて、実也子はカッとなった。
「───……よ」
 四人を見回して、呟く。小さすぎて声が届かなかったらしい。聞かせるつもりもなかったが。
「え」
 前田先生のところをやめた理由?
 それを訊くの? あなたたちが。
 すっと息を吸う。
 叫んだ。
「皆にはわかんないよっ!」
 そして駆け出す。ミヤ、と後ろで圭の声が聞えた。構わずにホテルのロビーを横切った。
 走った。
 行き先もどうするのかも決めてない。ただ皆の前に居たくなかっただけで。
 過去の、痛いところを刺されただけで。
 実也子は、逃げ出した。



 実也子が足を止めたのは、ホテルから二ブロック先、数百メートル走った後だった。
 我に返って、財布がホテルの部屋に置きっぱなしだということに気付く。それから上着も着てない。いくら春先だと言っても夜はまだ寒いだろう。
(……どうしよ)
 ホテルに戻るつもりはなかった。
 今は知己たち四人には絶対会いたくない。顔も見たくない。
 前田先生のところをやめた理由?
(言っても分かんないよ。皆には)
 そんな風に腹立たしいくらい、実也子は昂ぶっていた。
 何故なら。
 実也子が前田公昭の下から逃げ出したのは、自分が持つ欠点に耐えられなくなったからだ。
 初めは気にならなかった。
 でも一度気になると、自分がみじめな存在だと気付くまで時間はかからなかった。
 ───そして、あの頃どんなに望んでも手に入らなかったものを。
 彼らは持っているのだ。
「……これは、ヒガミだよね」
 目に涙を浮かばせて、実也子は失笑し、呟いた。
 皆が意識せずに持っているものを、自分は欲しがっている。未だ、欲しがっている。
 前田公昭のところをやめた理由は、自分はそれを持っていないから。
 それを何気に尋ねられたからといって、質問の無神経さに頭にきて、ヒステリー起こして、逃げ出してきたなんて。
 単なるヒガミでしか、ない。
「……」
 実也子は壁に寄っかかり、くすくすと笑った。
 少しだけ、泣けた。



 ばん、と地下駐車場に車のドアがしまる音が響いた。
「はい、おつかれさん」
 運転席から降りたのは木田理江という二六歳の女性。背中まで伸びる黒髪に黒いパンツスーツ、派手過ぎないメイクに赤いルージュとマニキュア。この女性の格好良さは、今、助手席から降りた実也子の憧れでもある。
「ありがとう理江さん。わざわざ向かえに来てもらっちゃって、ごめんね」
 財布を持って出なかったので、唯一可能な通信手段──携帯電話で実也子は知人の理江を呼び出したのだ。実也子とは年が離れているが気兼ねなく話ができる友人であり、姉のような存在でもある。
 その理江は車の鍵を指に絡ませながら笑った。
「別に構わないよ。私も実也に会いたかったし。でもいいの? 今、忙しいんじゃない?」
「あ、うん、大丈夫。…わぁ、理江さんの店に来るのも久しぶり〜。懐かし〜」
 地下から階段で三階へ上がる途中、実也子は声を上げた。
 この建物は理江の所有で、一、二階は木田楽器店の店舗になっている。戦前から開業している老舗で、大物演奏家御用達の店でもあった。三年前、父親から受け継ぎ、今は理江が店長に就任している。
 店長になる前から理江は店を手伝っていて、知識は全て父親から教わり、結局大学にも行かず稼業を継いだ。理江はヘビースモーカーであるが、店内で吸うことはない。煙草の煙が木製楽器を焼いてしまうからで、その辺りの心意気も父親から受け継いでいた。
 三階は理江の住居になっており、実也子は過去何回か泊まりに来たことがある。
「ねー理江さん。明日、ベース弾かせてもらない? 一日二時間はやらないと腕が鈍っちゃうから」
 実也子は両手を合わせて甘えた声を出した。この場合のベースとはコントラバスのことだ。
「いいけど、ホテルに戻らなくていいの? お仲間にはここに泊まるって言ってあるの?」
「うん。それは大丈夫」
 にっこりと笑う実也子を理江は訝しがったが、特に追求はせず自宅のドアを開けた。

 理江がシャワーを浴びに消えて、一人部屋に残された実也子は、即座に携帯電話を取り出し上野の某ホテルへ電話をかけていた。
「俊哉、頼みがあるの。ホテルに電話して、長さんに伝えて。私は友達のトコ泊まるって。心配しないでって言って。お願いっ」
 理江の「お仲間にはここに泊まるって言ってあるの?」という言葉で実也子はある可能性に気が付いた。同時に(やばいっ)と思った。
 遅くまで連絡も無く帰らない実也子を、知己たちは探そうとするだろう。彼らは実也子が行きそうな場所は数える程しか知らないので、もしかしたら部屋にある実也子の手帳にも手を付けるかもしれない。それ以前に、心配させない為には連絡を入れておく必要がある。
『……自分で言ったら?』
 電話の向こうからは俊哉の怪訝な声。実也子はどうにか説得にかかる。
「言えたらあんたに頼まないよー」
『いいけど。…どうせ木田さんの所に居るんだろ?』
 バレてるし。察しの良すぎる弟を持つのも大変だ。
 実也子は念を押すことを忘れなかった。
「それは言わなくていいからねっ。ていうか、言わないでっ」
 ここまで言っておけば大丈夫だろうというくらいしつこく念を押して、実也子は電話を切った。
 ふう、と溜め息をつく。
「───実也」
 ひっ、と実也子は叫びそうになった。突然の声、それは勿論理江のもので、振り返りその姿を見止めると実也子は飛び上がった。
「わーっ、理江さんっ」
 恐らく聞かれた。そして見抜かれてしまった。
 理江はいつからかそこに立っていた。バスローブ姿で、髪から水滴を滴らせて。
 理江は目を細くさせ、厳しい目つきで実也子を睨んだ。
「実也。ちょっとそこに座りなさい」
 あちゃー、と茶化すことも許されなかった。
 見抜かれてしまった。
 理江の視線の痛さに目を伏せる実也子。
「まさか、ここを逃げ場にしてるわけ?」
「…っ」
 一発必中。理江の言葉は実也子をぷすっと射した。ずきんと胸が痛んだ。
 うつむいたまま何も言わない実也子に、理江はさらに言葉を続けた。
「一晩って言ってたけど、あわよくば数日居座るつもりだ。図々しいね」
 シャカシャカとタオルで髪をかき混ぜながら、あからさまな皮肉を口にする。
 実也子は青い顔でごくんと唾を飲んだ。理江の性格は分かっているつもりだ。
「理江さん…」
「連絡は全部シャットアウトするわけ? 突然仕事が入ったら? 連絡取らせないの? あんたプロだよね? ははっ、サイテー」
 理江は実也子の目を真っ直ぐに見据えて、言った。
「言っとくけど、このまま何もしないで逃げるつもりなら、今すぐ出て行ってもらうよ」
「理江さん…、違うの」
「言い訳は聞きたくない」
 冷たく言いきる理江。実也子はうっと言葉を詰まらせた。
 本当に、違う。今回は前のように自分に付きまとう環境から逃げてきたわけじゃない。
 自分の過去の悩みを、仲間たちに話すことができなくて、仲間から逃げてきた。
「理江さん…っ!」
 弱い部分を見せることができる、強さ。
 過去の確執を埋めるためにそれと向き合う、強さ。
 自分に足らないものは、よくわかってる。
「もぉ、事情説明くらい、させてよぉお」
 ここで理江に嫌われるのは、すごく、つらい。
 両手を結んでうつむく実也子を目にして、理江は苦笑した。実也子の隣に座り、その頭を抱き寄せた。
「ひどいこと言ってごめん───でも、私が何も言わなかったら、実也は何も説明してくれなかったでしょ?」
 図星だった。
 申し訳ないと思った。

 実也子もシャワーを浴びさせてもらい借りたパジャマに着替えて、理江の部屋の隅に座り込んでいた。膝を抱えて、流れる音楽に耳を傾ける。
 理江は実也子のために布団を敷いてくれた後、自分のベッドに入って雑誌を読んでいた。
 室内のCDコンポの横にはさすが楽器屋店長というべきか、数百枚のCDが壁を埋めている。理江の選曲で今夜のBGMは、何故か、Blue Roseの前身『B.R.』の最初で最後のアルバム「SONGS」だった。
 懐かしい曲の数々を聴いて、実也子は膝に顔を埋めた。
 ───人生最初にハマった音楽はジャズだった。次はクラシック、その世界で食べていくと思ってた。
 でも、今は、芸能界でお金を貰っている。
 世の中何が起こるか分からないものだ。その世の中で、自分が今悩んでいることなど、本当に小さなことなのだろうけど。
 デビュー曲の「Blue Rose」が流れた。自分のパートを意識しないで聴けるのは、それなりの時間が経った証拠だ。
「…最近、悩んでることが二つあるの」
 前触れもなく、実也子は呟いた。
「うん?」
 実也子が語り出すまで、理江は待っていてくれた。雑誌から目を離して、実也子のほうを向いた。
(……)
 自分の気持ちを誰かに話す時の、鼓動が早くなるこの気持ちを何と言うのだろう。緊張、高揚…とも違うような気がする。気持ちは冷えているのに、胸が高鳴っている。喉が閉ざされる感覚、舌がうまく回らなくなる。それを振り切って、
「一つは前田先生のこと。私が芸能界に入ったことは勿論耳にしてるだろうし。良く思うはずないのは分かるの。その一方で、マスコミが私の昔のこと調べて、発表しちゃって、先生に迷惑かけるって考えると、すごく恐いの。いつそうなるかって考えると、夜、眠れなくって…」
 小さく、でもしっかりとした声で言った。
「いつかは、バレるよね…」
「うん。そうなったら、ちゃんと、先生に謝りに行く覚悟はあるの。……だけど、…予想はしてたけど、今日、塚原くんが来て」
 ぶっ、と理江が吹き出した。
「…塚原って、昔、実也と付き合ってた塚原正志ぃっ?」
 ベッドから飛び起きて叫ぶ。ぐはっと何かに射られたように実也子はその場に伏した。
「理江さん…。そんな昔のことを」
 たはは、と苦笑い。
 そんな実也子を気にせず、理江はベッドの上であぐらをかくと、腕を組んで堂々と悪口を叩いた。
「前田先生の弟子の中じゃ一番性格悪かったよね」
「そうでもないよ。…彼は音楽に対して誰より厳しかったし、先生を尊敬してたし、技術的なものもすごく憧れだったなぁ…」
 しみじみ、と語る実也子。これはノロケではないが、それを聴かされたのと同じような気持ちを理江は味わっていた。口の端を歪めて「やってらんないわ」と言いたいような仕種で笑う。
「当時から思ってたけど…実也。あんた塚原の技術に惚れてたんじゃない? 恋心とは別でさ」
「んー。今思い返すと、それも否定できない」
 素直でない認め方をした。でもすっきりした笑顔で言った。
 何故だか笑いが込み上げてきた。
 確かに一時期、塚原正志と付き合っていた。自分にも他人にも厳しい人だったから周囲からは敬遠されがちだったけど、実也子は尊敬にも近い感情を抱いていた。
 でも。
 実也子は今、ちゃんと恋心を抱いている相手が他にいるのだ。
 それは自信を持って言えた。
「で? 塚原が何だって?」
「皮肉ー…じゃなかったな、あれは。直接的に非難された」
「あ、そう。まぁ、そういう奴よね」
「うん。一つ目の悩みは、先生のことがいつバレるかなって、気が気じゃないってこと」
 そんな風に話をまとめた。
「二つ目は?」
 理江がすかさず尋ねる。すると実也子は口を閉ざし、少し考えてから、言いにくそうに呟いた。
「…最近、皆と居るのが、…ちょっと辛いかな、って」
 その言葉には理江も驚いて目を丸くした。
「皆って、Blue Roseの仲間?」
「そう」
 理江が驚いたのは、実也子は今の仲間とは気が合って、うまくやっているように見えているからだ。
 それでも、胃が痛くなるまでストレスを感じているのだと、実也子は言った。
「辛いって、どうして?」
「あっ。彼らはすごく言い人達だよ、勘違いしないでね」
 理江の声が不穏に響いたのか、実也子は必死で付け足した。
「これは、私のほうの問題。…昔は気にならなかったんだけどな。年に一回、会うだけだったからかな」
 独り言のように言う。
 理江は一般論を口にしてみる。
「…まあ。年一回しか会わなかった仲間と、ずっと一緒にいることになったらストレス感じ始めたってのは普通じゃない? お互いの性格が嫌でも見えてくるし」
「違うの」
 はっきりと否定する。どうやら実也子は原因を自覚しているようだ。
「多分、…嫉妬」
「嫉妬ぉ?」
 理江は声をあげた。わけが分からなかった。
(……)
 ところで嫉妬とは、転じて劣等感でもある。
 そのコンプレックスは、とっくの昔に吹っ切れたと思っていたのに。
 それなのに。
「嫉妬って……どうしてよ」
 実也子は、仲間に対して嫉妬心を持っている。
 それが疎ましくて、羨ましくて、心が汚くなる。
 激しいまでの嫉妬。耐えられなくなる。
 自分の至らなさに、悲しくなる。
「───理江さんには、言ったことあったよね。私が、前田先生のところ、やめた理由」
 理江はハッとした。
「…やめた理由って、───あれですか」
「あれですよ」
 くすくすと実也子は笑った。理江は大きな溜め息をついて、ベッドの上で仰向けになった。
「だから嫉妬、か。相変わらずガキだねー、実也」
「おっしゃる通りでーす」
「それに耐えられなくて、飛び出してきたわけ?」
「ううん。直接的にはちょっと違う。ほら、塚原くんが訪ねてきたって言ったでしょ? そのせいで皆に黙ってた私の昔のこと、色々と掘り返されちゃってさ。しまいには先生のところやめた理由をつっこまれて…。それで嘘ついたら見抜かれて、あはは、逆ギレして逃げてきた」
「皆に見抜かれた嘘っていうのは?」
 実也子は圭にすっぱりと指摘された嘘を理江に聞かせた。理江は眉をしかめて、
「…そりゃバレるよ」
 と呆れた。
「どしてー?」
 頭を傾げる実也子。その天然さに理江はさらに溜め息をつく。
 実也子は周囲からどんな風に見られているか、あまり意識していないのだ。
 そんな見え透いた嘘をつかれたBlue Roseの面々には、惜しみない同情を送ることにする。
「良かった私、本当のこと聞かされてて。それ、信じろって言われたら一発殴って縁切るよ」
「理江さあぁあん」
 泣きにかかる実也子には、同情しない。
 理江は真顔に戻って、声を改めて、言った。
「もうちょっと分かってあげなよ。心配なんだよ。…無駄に心配かけさせるのは良くないって。毎日、顔を合わせる仲間なんだし、ちゃんと教えてあげたら?」
 どっちの味方なのー、と実也子は反論しようとした。やめた。
 長さんも祐輔も中野も圭ちゃんも、皆、心配してる。これは自惚れじゃない。
 問題を抱えていることを見抜かれてしまうような態度を取ってしまった以上、事情説明しなきゃいけない。
「…うん。そうだね。心配してくれてるの、わかる。忘れたことなんてないよ。本当に。…彼らと会えたことに、感謝してるんだ」
「実也らしいよ」
 理江が言う。
「…」
 その言葉に反論しようとして、やめた。
 言葉がまとまらなかった。











『───と、いうのが姉からの伝言です』
 夜の九時半。そろそろ実也子を探し始めなきゃいけない、と思っていた矢先。
 片桐俊哉から電話がかかってきた。知己はホテルの部屋でその電話を受けた。
 内容は実也子からの伝言で、今夜は東京の友人の家に泊まるので心配するな、と。そんな内容だった。わざわざ弟経由で連絡させたということは、気持ちが落ち着いていない証拠だろう。
『姉の居場所は俺も分かってますので、安心してください。ただ、口止めされているので場所はお教えできませんけど』
「わざわざありがとう。消息が分かっているなら、とりあえずは安心できるよ」
『何かあったんですか?』
 実也子から一方的に伝言を頼まれた俊哉としては、訳が分からないのも当然だろう。
 知己は適当に言葉を濁して、全く別の質問を返した。今日、実也子がキレることになった、直接的な原因だと、知己は思っている。
『ミヤが前田公昭のところをやめた理由? さぁ、それは俺も聞いたことはないです』
「……そうか」
 知己は溜め息をついた。俊哉から聞き出せるかもしれないと、少しの希望を持っていたからだ。
 その気まずい雰囲気を感じて、電話の向こうから俊哉の困惑が伝わってきた。それを取り払おうという気遣いが働いたのかもしれない。今度は俊哉が実也子について質問してきた。
『Blue Roseの中で、ミヤってどんな感じですか? 浮いたりしてません?』
「いや、ものすごく馴染んでるよ。明るくて、ムードメーカーだし、他のメンバーともうまくやってる」
『そうですか』
 と、安心したような声を響かせた。
『…意外に思われるかもしれませんけど、ミヤって地元に友達少ないんですよ』
「まさか」
『ほんとです。中学、高校と学校には通っていたものの、朝と放課後と夜…ずっと音楽一筋だったから。ずっとそんな生活を続けてたら、友達なんてできるはずもないでしょう? 大学入ってからは…ほら、あの性格だから。周りからは好かれるんだけど、本人はどう対応すればいいのかわからないらしいんです』
 それからこんなことがあった。
 俊哉が、うちの姉弟はどこか普通とは違うのかも、と思ったのは十五歳のときだ。
 実也子は弟子生活を始めて五年目のこと。
 朝早く夜遅い実也子の生活は、俊哉の生活と重なることがなかった。が、珍しく早起きした俊哉が居間へ向かう途中、玄関前を通ると、楽器を抱えた姉が出かけるところだった。
「いってらっしゃい」
 寝ぼけも手伝って何気なく声をかけると、姉は振り返り、何故か驚いた。
「え…、俊くん? うわぁ、大きくなったねぇ」
 はたしてこれが同じ家に住む姉弟の会話であろうか。
 成長期の男としばらく会わなかったら、体つきが変わって見えるのは当然だけど。
 今でこそ近所で仲良し姉弟と呼ばれる二人だが、あの六年間は、同じ家に住みながら滅多に顔を合わせたことがなかったのだ。
 二人が喧嘩をしたり協力したりするようになったのは、実也子が帰ってきてからのこと。この三年間は、結構上手く付き合ってきたと思っている。
 「ミヤ」、「俊くん」というのは小学生の頃の呼び名で、「姉ちゃん」、「俊哉」に直そうと二人で決めたが、二人とも矯正しきれないでいた。それでもまぁいいか、と思う。
 そんな経緯があったので、俊哉にとって実也子は姉というよりは女友達という意識のほうが強い。
『長壁さん』
「?」
『姉のこと、お願いしますね。放っておくと何するか分からないし、危なっかしいから』
 身近な者だけが知る彼女の性質をお互い身に染みて分かっているので、苦労性を浮かばせる渇いた笑いを、二人はした。










 翌朝。
 木田理江はいつも通り九時に店を開けた。
 片桐実也子はまだ三階で眠っている。最近眠れないと言っていたが、今日はぐっすりと眠っているようだ。起こすのも気が引けてそのまま寝かせてある。
 理江は朝の仕事を開始した。
 窓を開けて一通り空気を流す。ディスプレイ用の楽器をケースから出して飾り、はたきをかける。ピアノなど鍵盤楽器類は蓋をあける。
 それから入荷予定の荷物のチェック。午前中に届く予定の楽器以外の小物類。メンテナンスの道具や付属品などがそれにあたる。
 理江が伝票とにらめっこをしている最中のことだった。
 からん、と音をたててドアが開かれる。本日第一号のお客様がいらっしゃったわけだ。
「いらっしゃいませー」
 と、常套句を口にしてから顔をあげた。
「……あっ」
 理江は大声を上げそうになった。
 ───知っている人物だった。
 ドアから入ってきたのは初老の男性。ほとんど白くなった髪の毛を丁寧に撫で付けて、年季を感じさせる顔の皺、茶色のジャケットを羽織っていて、様相にどことなく品の良さが伝わってくる。
(あらあら)
 理江は表情には出さずに苦笑した。
 この辺りはさすがプロ、理江はいつも通りの笑顔で客を迎える。
「おはようございます。前田先生」
 客の名は前田公昭。二十年以上も前から、この店の常連だった。
 木田楽器店店長の挨拶に前田も穏やかに微笑んだ。
「やあ、理江ちゃん。おはよう」
「そのちゃん付けはいい加減やめませんか。私、もう二六ですよ」
「君が生まれたときから知っているから、ついね。いつもの、もらえる?」
「はーい」
 理江は踵を返し、背後の棚を開け、物を探し始めた。作業の手を休ませないまま、理江は話題を振る。
「確か先生は今日コンサートでしたよね」
「ああ。…理江ちゃんも来るかい? 招待席のチケットならあるよ」
 平然と前田は言うが、そのチケットを売るところに売ればいい値段になるだろう。
「いーえ、ありがたいですけど、私は仕事がありますので」
 理江は分かっている。店を休んで行くなんて言ったら、この先生は怒るに決まってるのに。
 理江は探し出した品物を店名印の紙袋に入れて、ぱちんとホッチキスで止めた。
「はい、先生。千百五十円になります」
「はいはい」
 理江のさばさばした物言いは前田も気に入っているのだ。微かに笑いながら、お金を差し出した。
 お釣と領収書を受け取る。領収書の宛名は「前田公昭」。但し書きは「品代」(意外と無難な性格)。
 理江は「ありがとうございました」と笑顔を向けた。
 が、いつもならすぐに背中を向ける前田が、今日はすぐに帰ろうとしない。
 「先生?」と首を傾げた。
 次の前田の台詞は、理江の予想もしていない言葉だった。
「…君は片桐と仲が良かったよね?」
 どきっ、と思いながらも、理江は平静で言い返した。
「どの片桐さんですか?」
 商売柄、沢山の人達と出会う。その中には同じ名字の人はけっこう居るものだ。
 前田は苦笑した。
「意地悪だな。片桐実也子だよ」
 片桐実也子、と。前田は口にした。
「…先生の口からその名前が出るなんて。数年ぶりですね」
「最近、連絡取ってたりするの?」
「そりゃあ友達だし、たまにはね。…どうしたんですか? あの子のこと訊いたりして」
 チャンスだ、と理江はほくそ笑んだ。前田公昭の本心は前田公昭に聞くのが一番だと、思い立ったのだ。いっそのこと上にいる実也子と対面させてしまったほうが実也子が悩んでいることもすっきりするかもしれない、と意地悪く思っていた。
 どうしたんですか、あの子のこと訊いたりして。という理江の質問に、
「いや、元気でやってるかな、とね」
 と、前田は言葉を濁した。
 理江は無理が無い程度の話題転換を試みる。
「あの子、芸能界に入ったでしょう? そのことについて先生自身はどうお考えなんです?」
 理江の質問を、意外にも冷静に前田は受け止めた。
「僕は別に…。そうだな、この世界に戻って来てくれて良かったと思ってる。あのまま消えるには、惜しい子だったよ」
 やっぱりな、と理江は思った。
 前田公昭が弟子のなかで片桐実也子を可愛がっていたのは、理江も知っている。弟子のなかで唯一の女性、という理由もあっただろうが、それ以前に、音楽に対する誠実さ、ひたむきな努力、向上心など、そういったものが、実也子は誰より長けていたから。
 本人は周囲からの期待には無頓着で、反対に、先生に対する尊敬の念や、先輩弟子への憧れなど遠慮無く口にする。そういう性格だったから、弟子仲間ともうまくやっていた。
 そんな実也子がやめて前田は残念がっただろうし、その前田が実也子が芸能界に入ったからと言って憤慨するとは、理江は思わなかった。
 実也子は塚原の言葉を、イコール前田公昭の言葉と錯覚していたようだけど。
(どうしてああ鈍いかなー)
 時として実也子は本当に鈍いところがある。
 多分それは、中学や高校での生活を通して培うべきところなのだろう。実也子は学校へは通っていたものの、学校での対人関係は無いに等しい生活を送っていたから。
 そんな青年時代を過ごしてきたことに、原因があるのかもしれない。
「実也は…、楽しくやってるみたいですよ。ほんとに」
「そうか」
「…確か、実也を初めてこの店に連れて来てくれたのは前田先生でしたね。実也はまだ十三で、私は高校生だったかな」
「ああ、そうだったな」
 理江は思い出し笑いをする。
「明るくて小さくて、飛び跳ねるように元気な子だったから、お弟子さんとは思いませんでしたよ。私、先生のお孫さんかと思いましたもん」
 前田もはにかむように笑った。
「娘、とは思ってくれないのかい?」
「あら、失礼しました」
 声をたてて二人で笑い合った。
 ふと、思い立って理江はもう一つ質問してみる。
「実也が先生のところをやめた理由、先生は知ってらっしゃるんですか?」
「ああ、知ってるよ」
 あっけない回答に、理江は驚いた。
「えっ! 実也が言ったんですか?」
「やめる時に本人から聞いた。…私としては複雑だったね」
 と、複雑な表情をして前田は言った。
 理江はふーっと息を吐いた。
「先生はどう思います? ……私は、つまらないことを悩んでるなぁって、思ったんですけど」
「僕は立場が違うから、何とも。でもベーシストで同じ悩みを持つ人は多いらしいね。勿論、それでも続けている人は沢山いるけど」
「そうですよねー」
 やめちゃうなんて馬鹿だなぁ、と当時から理江は思っている。本人は真剣に悩んでいるから強くは言えなかったが。
「でも、結局はこの世界に戻ってきたわけだから、僕としては嬉しい限りだ」
 前田はそう言って微笑んだ。理江も、口の端をもちあげて笑った。時計に目を落とした。
「──じゃ、僕はこれで帰るよ」
「あっ! 先生待って」
 引き止める。振り返った前田に、理江は照れ臭そうに言った。
「やっぱり、先生のコンサートチケット、一枚、いただけます?」





 前田公昭、六四歳。
 十七歳のときにウィーンのNL音楽大学に留学し、二一歳で卒業。後、六年間オーケストラのコントラバス奏者として活躍。帰国後はフリーの演奏家として、クラシックだけでなく伝統音楽や芸能など数々のセッションをこなす。日本を代表するベーシストとして人気をよんでいる。

 ────そんな解説が、パンフレットに書かれていた。

 実也子は理江から貰ったチケットで会場入りしていた。
 昼遅くに起きると、理江はチケットを差し出し「私、仕事で行けないから、行ってきて」と渡されたのだ。さらに理江には電車代を借りてここまでやってきた。
 周囲をいちいち気にしながら歩を進める実也子の挙動はかなり不審だった。
 激しい躊躇いの末、ここに来ていた。
 前田公昭のコンサートとなれば、周囲関係者や弟子たちも全員集まるであろうことは容易に想像がつく。その中のほとんどは昔の顔見知りだ。実也子と顔を合わせた時の彼らの反応が、実也子には恐い。
 塚原と同じように軽蔑を露にする者、罵る者もいるだろう。本当はそれらと真っ直ぐ向き合わなきゃいけないのに、その度胸が、ない。
 それからコンサートに誘ってくれた山田祐輔(後で謝らなきゃいけない)。彼が来ているかもしれない。
 色々な人から逃げようとしているけど、前田公昭の演奏は絶対聴きたい。
 この我が儘で矛盾した実也子の気持ちは、とりあえず眼鏡という変装で、どうにか納得させた。
(……ばれませんように)
 と内心で念じながら、実也子はロビーを足早に通り過ぎ、ホールへと入った。
 途中、やはり知っている顔が数人。祐輔は見かけなかったが、まだ安心はできない。
 できるだけ目立たないように、実也子は座席に腰を下ろす。一息つくことができた。
 舞台には緞帳が下りたままで、それには花畑の絵が刺繍されている。会場によって違う緞帳の絵柄をチェックするのは楽しいものだ。その絵の作者のサインを読んだが、実也子の知らない画家だった。
 周囲にはチケットと椅子のナンバーを見比べている人がいる。実也子は客電の明るさと、照明器具の位置を確認するのに高い天井を仰いだ。これは癖だった。
(あ。この雰囲気…)
 よく知っている、と思った。
 もう何年も前。
 前田先生の舞台には必ず八人揃って、花を持って、こうして客席から聴いていた。
 一番初めは十三歳のとき。
 生意気にも黒のワンピースを着て、兄さんたちに連れられて、いつも一番後ろの席に座る。純粋な観客ではないため、前田先生がわざわざ最後列のチケットを取るのだ。
 客電が落ちる瞬間のざわめき、イベントが始まることの高揚感、それから、自分たちの先生が唯一光のあたる舞台で素晴らしい演奏を披露している風景、それに聞き入る聴衆。
 いつも、実也子は夢中で舞台の上の先生を見ていた。手のひらが真っ赤になるほど拍手をした。
 いつかあの場所へ行く、と誓う瞬間。
(いつか、あの場所へ行く…と)
 ブザーが鳴って、実也子は現実へと引き戻された。

 前田公昭の演奏が始まった。


「……っ」
 目の前が曇った。涙が滲んできたのだ。
(泣くなっ)
 自分にそう命令する。でも、それに成功したのは数回しかない。
 涙が溢れて、頬を伝った。
「……」
 堪らなくなって、拳を額に押し付け、実也子は俯いた。
(先生…)
 実也子は泣いていた。
 この音楽。
 前田公昭の演奏に。
 ───ステージの上には楽園がある。
 聴く者すべてに感動を。この素晴らしい世界に拍手を。
 音楽に涙する、というのは不思議な感覚だ。
 こんなにも胸を打つ音楽に、私は出会えていた。
 幸せだ、と思った。

 それからもう一つの涙。
 それは、舞台という楽園へ。
 実也子が辿り着けなかった場所。手を伸ばしても届かなかった空間。
 挫折。
 諦めてしまった、憧れ。
 何故こんなにも、未練が残っているのだろう。
 逃げ出したのは、自分なのに。
 逃げ出したのは、私。
 わき目も振らずに努力していた過去の自分に申し訳ないと思う気持ち。
 協力してくれていた家族への謝罪。
 同じ志を持つ仲間への裏切りにも似た罪悪感。
 沢山のことを教えてくれた前田公昭、…合わせる顔がない。
(ごめんなさい。先生…)
 過去、何度も口にした言葉。
 そして苦い気持ちと共に思い出してしまった感情。


*  *  *


 ロビーの人波の中、背後から肩を掴まれた。
「やっぱ、来てた」
 聞き慣れた声。実也子は目を見開いた。振り返りざまに叫んだ。
「長さん…っ?」
 コンサートも恙無く終わり、ロビーに出たところだった。沢山泣いたおかげでメイクが崩れたので化粧室に向かおうとしたところだった。
 行き交う人々の中、長壁知己が背後に立っていた。
 実也子は目を疑った。祐輔が来るのは予測していたが、ここにいるのは知己だ。
「どうしてここにいるのっ」
「おまえを探して来いって、祐輔からチケット渡されたんだよ」
 知己はそんな言い方をしたが、もしかしたら本当は知己のほうが発案したのかもしれない。それでも祐輔は協力を惜しまないだろうから。
 怒鳴られると思って構えていたら、意外にも知己は穏やかな雰囲気だった。
「で。どうなんだ? ここまで来て、すっきりしたか?」
 知己の優しい声を、素直に聞くことができた。
「──…ありがとう」
 これは答えになってない。でも自然と口から出た言葉だった。胸が暖かかった。
 皆の気遣いに本当に感謝した。
 同時に、自分の身勝手さに嫌悪した。
 何日か前に知己に「自分の問題は自分で解決する」などと大見栄を切っておいて、勝手にホテルから飛び出して、連絡もなく外泊して。
 結局、何も進展してない。何も解決してない。
 すごく、情けなくなった。
「ありがとう、長さん。…でも、あんまり……すっきり、してない。ごめんね」
 小さい声で笑う。表情を隠すように前髪をかきあげる。この仕種は実也子の癖だ。
「…謝ることはないけど」
「ね、帰ろっ」
 すがり付くように、知己の腕を掴んでひっぱった。駆り立てられるように、実也子は必死な形相だった。知己は突然腕を引かれて驚く。
「おい…」
「早く帰りたい、皆の所に」
 知己の腕を引いて走り出す。
「…おいっ、危ない」
「──え?」
 知己の声に顔を上げるのと同時だった。
 どんっ
 人波で走り出したら誰かにぶつかるのは当たり前だ。事実、実也子は背中から体当たりした。

「すっ…すみません…────あ」
 どくん、と心臓が鳴った。
 振り返り反射的に謝ると、そこに居たのはよく知っている人だった。
 実也子は目を見開いた。呼吸が止まるのを感じた。
 よく知っている人だった。
 さっきまで、舞台の住人だった人。
 初老の男性がそこには居て、実也子の顔を見ると目を見張った。
 でもすぐに表情を和らげて、穏やかに笑った。
 笑った。
「…おや、懐かしい顔だな」
「!」
 懐かしいその声を間近に聴いて、実也子は動揺した。
 本当に久しぶりに、耳にした声だった。
 レセプションのためにロビーに出ていたのだろう。数人のスタッフが後ろに付いていたが、それを下がらせて実也子へと向き直った。
「元気でやってるか? 片桐」
「……ま」
 声が震えた。
「前田先生…」
 前田公昭が目の前で笑っているなんて、実也子は信じられなかった。
 昔は少なくとも週に一度は顔を合わせていた人。六年間、師と仰いだ人だ。
 この人についていく、と。そう誓ったときもあった。
「あ…」
 会いたいと思っていた。
 三年前から。そして四月からも。
「あの」
 言葉が出てこない。
 前田公昭を前にして、実也子は口をうまく動かせなかった。
 耳の先まで熱い。
「片桐に先生なんて呼ばれるのも、久しぶりだな」
 これを前田は懐かしさを含めて言ったのだが、実也子は歪曲解釈した。
「……ごめんなさいっ!」
「え。片桐っ?」
 実也子はその場から駆け出した。
 人波にぶつかりながらも全速力で、どうやら外に向かったようだ。
 追いかけることはできなかった。

 取り残されたのは前田と知己。
 知己は溜め息をつきつつ、
(いつまで逃げる気だ、あいつ)
 と半ば呆れた。
 前田は実也子の知人と思しき知己に声をかける。
「僕は片桐に嫌われているのかねぇ」
 肩を竦めながら、少し淋しそうに笑った。
「それはあり得ません。俺…いえ、僕たちは都内のホテルに泊まっているんです。今日は逃げてしまいましたけど、また、会ってやってくれませんか? 片桐実也子に」
「もちろん、喜んで。──あぁ、すまん。君は?」
 そういえば自己紹介もしていなかった。
「申し遅れました。片桐実也子のバンド仲間で、長壁といいます。お会いできて光栄です」
 知己が握手を求めると、前田は丁寧に握手を返してくれた。
 それからじっと知己の顔を見て、言った。
「君とは会ったことがあるな」
 はっきりと、確信があるように。
 知己は正直に驚いた。
「よく覚えてましたね、もう十年近く前のことなのに」
「もちろんだよ。あいつが可愛がってたドラマーだからね。それにしても不思議な縁じゃないか、君と片桐が知り合っていたなんて。やっぱり片桐のほうから声かけたの?」
 この台詞で、前田が実也子の性格を熟知していることは知己に伝わった。思わず苦笑してしまう。
「いえ、実也子は俺の昔のことを気付いてないんですよ」
「おやおや。昔、あんなに大騒ぎしていたのに」
 前田は声をたてて笑った。
「あなたは、片桐実也子が芸能界に入ったことを批判しているわけじゃないんですね」
「? あたりまえだよ。誰かがそう言ったのか?」
「…いえ」
「僕は芸能界というところが苦手でね。あまり良い印象は持っていなかったが……親バカというべきかな。愛弟子が活躍しているとなれば、チェックしてしまうね」
 ふと思い立って、前田は知己の顔を覗き込み、別の話題を切り出した。
「君は、片桐の恋人なのか?」
「……」
 意表を突かれた質問だった。
 けれど、これと同じ意味を持つ質問に、知己は一度も明確な回答をしたことがない。否定したいわけではないけれど。
「まぁ、答えなくてもいいよ。でも、もしそうだとしたらあの子は諦めたのか、それとも受け入れたのか…どっちなんだろうな」
「どういう意味です?」
「君は、片桐が自分を嫌ってた部分って、何だか知ってるか?」
「…? いえ」
 もちろん昔の話だ。
 あの頃、実也子は自分を嫌っていた。ただ、一つの部分を。
 前田はそれを、「やめる理由」として本人から聞いた。
「女だってとこだよ」




*  *  *



 外に出ると、実也子が階段に座り、佇んでいた。
 空は真っ暗で星も見えない。しかし、ホール入り口の階段から正門まで真っ直ぐ伸びる通りには、両脇に街頭があり、道を照らし出している。実也子はその通りを抜けて歩く人々に目を向けていた。
 しかし知己の姿を見つけると立ち上がり、手を振って、駆け寄った。
「長さん。…前田先生と、なにか、喋ったの?」
 笑おうとして、笑えない。複雑な表情で覗うように言った。
 知己は悩みもしないで即答する。
「おまえの悪口」
 実也子は顔を歪ませて、
「ちょーさーん。それ、シャレにならないよぉ」
 たはは、と苦笑いした。笑うことができた。知己は、ほれ、と手を差し伸べた。
「帰るか」
「……」
 実也子は、その手ではなく腕に、がしっとしがみついた。知己は少しよろけたものの、そのまま二人、歩き始める。
 こんな風に堂々と、二人で外を歩くなんて最近できなかったので実也子は上機嫌だ。
 やっぱり好きだなぁ、と思った。
「男の子に生まれたかった」
 はっきりと、唐突に言った。知己はしっかりとそれを聞いた。
「って、ずっと、思ってたの。あ、今は別。男の子じゃ長さんと恋愛できないもんね」
「……それで?」
「私は、自分のこと、汚いって思ってる。いつも無いものねだり、僻み、嫉妬。そんな感情ばっかり。ほんと、嫌になる。──でも意外と他人からは、そうは思われないの。昔から不思議だったよ」
 まるで他人事のように、飄々と語る。とは言っても、他人の性格をそんな風に批判することは、実也子にはないだろうけど。
「弦楽器全般似通っているけど、とくにコントラバスをやる上で、無言のうちに要求される肉体条件ってわかる?」
「…いいや」
「身長と、腕の長さ、それと筋力。あとは左腕が強いこと」
 実也子は左手首をコキコキと鳴らしてみせた。それから袖をめくって、肘までを知己に見せた。
 知己に言わせれば、細いとしか思えない、白い腕。それをブンブンと振って、
「まぁ、腕の長さなんてある程度身長に左右されるもんだし? 身長は見ての通り。…こんな腕でも昔よりは太くなったんだよ? なっさけないくらい非力なの、私。───すごく煩わしいの。自分の体が思い通りにならないなんて」
 実也子は知己に足を止めさせた。
 今度は知己の右手を取って、自分の左の手の平と重ねる。じっとそれを見やってから、低い声を出した。
「私、右利きなんだけど、左手のほうがちょっと大きいの」
「知ってる」
 ベーシストの左手は、楽器の特質上、鍛えらることが多い。ギターに比べれば弦は少ないものの、倍以上に太い弦を左手の指一本で押さえなければならないのだ。指一本の力強さが要される。先に実也子が言った「左腕が強いこと」というのは、こういうことである。
「それでも、私の手より長さんの手のほうがずっと大きいよね」
「当たり前だろ」
「どうして?」
「……」
「そう。長さんは男で、私は女だからよ」
 続ける。
「弟子のなかで、女は私一人だったの。違うなんて思わなかった。同じだけの可能性があるんだと思ってた。でも…、体格や腕の力、その差に気付いたときはすごく悲しかった。自分の無力さが非力さが、悔しくて悔しくて、周りの人が成長していくのが疎ましくて、…結局、逃げ出したの」
 迷いのない喋り方だった。
「もちろん、弦バス演奏者のなかには女性も数多くいるし、身長が一四五cmのプロだっている。でも私はあの中に…先生の下に居るのが耐えられなかった。自分が堕落していくのを感じるのは恐かったし、周囲を妬むことで自己嫌悪する自分が嫌だったから。…それが」
 知己の目をしっかりと見て、目を逸らさずに言う。
「それが、前田先生のところをやめた理由なの。嘘ついて、ごめんなさい」
 皆に嘘ついたことを、実也子は気にしていた。
 今、知己に告白したことは全て本当だが、知己にだけ言ってもしょうがないのだ。ホテルへ帰ったら、また同じ説明を繰り返すことになるだろう。それでも、聞いてもらえて、良かった。
 口にするのも我慢できなかった数日前に比べて、今は心穏やかに知己に言うことができた。
 そう考えると、今日、前田公昭の演奏を聴いて、本人に出会えたこと。無駄ではなかったのかもしれない。ちゃんと、一歩進めるちからになったのかもしれない。
 知己は微笑んで、実也子の肩を抱き寄せた。
「前田公昭からも、逃げてちゃしょうがないよな」
「さっきは突然だったから驚いただけだもん」
 拗ねるように頬を脹らませる。次に、しっかりと前を向いて、実也子は言った。
「ちゃんと、会いに行くよ」
 今は早く帰って、仲間たちの顔が見たいと、思っていた。
 まず謝って、本当のことを話して、それからありがとうって言うんだ。
 二人は並んで、最寄りの駅まで歩き始めた。

 翌日。実也子は前田公昭と、二週間後に会う約束を取りつけた。


 三年前。高校を卒業して、実也子は東京で暮らし始めていた。
 五月。「もう、音楽なんかやめる」と言って、前田公昭の前から消えた。
 勝手にやめて帰ってきた娘に、家族は何も言わないで暖かく迎えてくれた。稼業の手伝いや家族とのコミュニケーション、新しい幸せを見つける。
 七月。知人の木田理江に事後報告するために東京へ行った。
 その時、Kanonの曲を耳にした。

 『B.R.』、そして「Blue Rose」は思いの外、居心地が良くて。
 勝手なことばかりやってきた自分に、色々なものが、沢山の人が、優しかった。
 感謝を忘れちゃいけない、と。常に思い続けている。
 ありがとう、って。言い続けたい。
 ずっと。







Side.実也子 END
BlueRose-Side. 祐輔/実也子/知巳/