BlueRose-Side. 祐輔/実也子/知巳/
Side.知巳


『トモっ。命令。今すぐ出てこい。いつもの店。以上』
 電話のベルで起こされた。手に取った受話器からの第一声がそれだ。そしてそれだけで通話は終わり、代わりに発信音が空しく響いていた。
 それが、その日、一番に耳にした人の声だった。

 そんな電話に叩き起こされて、さらには呼び出され、指定された(?)喫茶店に入れたのは電話があってから三十分後だった。元々、仲間が集まる店はアパートのすぐ近くなのだ。
「おーっす、トモ。ここだ」
 店の奥で、小柄の中年男が手を振る。
「ヤス」
 命令通りすぐに出てきたのだから誉めてもらいたい。折角の休みを返上して招集に応じたのだから。(とは言っても、予定は何もなかった)
「お前、休みだからって寝てばっかいるんじゃねーよ。いい年して、ツルむ女もいねーのか」
 到着するなり、そんなことを言われた。余計なお世話だと返したいところだが、その台詞はそのまま事実なので否定できない。それから「いい年して」と言われてもまだ二十六だ。五十五のオヤジに、しかも恋人とは結婚もせず同棲生活を楽しんでいる甲斐性無しに言われたくはない。ひがみではない、と付け加えておく。
 これだけ悪態付いても、実のところヤスのことを尊敬しているのだ。これでも。
「…それ、言うためにわざわざ呼び出したのか?」
 半ばウンザリしながら、冷めた視線を送る。喜ばしいことに、ヤスはそれを否定してくれた。
「まさか。いちおー、紹介しとこうと思ってな。まだ会ったことなかっただろ。こいつと」
「は?」
(誰と──?)
 たった今気付いたが、その親指が指す先には、テーブルに同席している人物が、もう一人居た。
「こんにちは」
 低い声の挨拶。男性。年齢は多分ヤスと同年代で、五十歳前後といったところ。しかしベストに背広姿という、どこか品の良さを感じさせる雰囲気は似ても似つかない。
 その、年齢以外共通点の無さそうな二人は顔を見合わせて笑った。
「はじめまして。前田公昭です」
 普通、年下のほうから名乗るものだが、その男性は軽く頭を下げた。様式などには拘らない人間らしい。
 それより。
(前田…?)
「えっ!」
 心の中で名前を復唱するのと叫んだのはほぼ同時だった。
 前田公昭。その名前はよく聞かされていた。
「ヤスっ! 前田、って」
「そー。俺の悪友ぅ」
「いや、そうじゃなくて!」
「そうじゃなくて…って、なんだ。失礼なヤツだな。俺の同窓で、ついでにクラシック・ベーシストの前田クンだよ」
 もちろん知っている。
 と、言ってもクラシック界のことに明るいわけじゃない。
 自分の仕事仲間で、恐らく世界でも指折りののベーシストだと尊敬しているヤス。その彼が「尊敬するベーシスト」として公言しているのが、この前田公昭なのだ。
 一度会ってみたいと思っていた。
「トモっ。感激してないで自己紹介」
「あ…っ、えと、はじめまして。長壁知己といいます」







 電話に起こされた。
『長さんっ! どうしたの、今日は八時集合で事務所行くんでしょ? もう過ぎてるよ』
 この声は片桐実也子だ。その名前はすぐに頭に浮かんだ。知己が一瞬迷ったのは、現在がいつかということだった。
 今は今。Blue Roseの中に自分が居る、今だ。
 枕元のデジタル時計に目をやると、なるほど八時五分。知己はそれを見止めても、何が起こっているのか、次にどうするべきか頭が回らなかった。とりあえず自分がホテルの部屋のベッドの中にいることは分かる。
『長さん? 起きてる?』
「ああ。…今、起きた」
 実也子の高い声は眠気が覚めきってない頭にもよく響いて、意識がはっきりしてくるのを感じた。
「他の奴らは?」
 集合時間に遅れても慌てることはしない。思考すべきは自分が遅れたことで派生する不具合、その修正。仲間への謝罪は遅すぎてはいけないが、対策より早い必要はない。
 感情的に頭を下げることは、もうない。そんな年齢に、自分はなっていた。
『皆、ロビーにいるよ。希玖とかのんちゃんは直接事務所へ向かうって。どうする?』
 知己はかりかりと頭をかくと、
「先、行っててくれ。二十分差…くらいには着きたい」
 語尾は苦笑混じりに言った。実也子はすぐに返事を返してきた。
『わかったー。そう伝えておくね』
「は?」
 おまえもだよ、実也子。寝ぼけていたせいもあり、知己はそのようにツっこむのが遅れた。
 ただ、知己がそれを口にする前に、実也子は電話を切った。
「…」
 嘆息して、ベッドから起き上がり、大急ぎで支度を開始する。
 スリッパを履いて、洗面台の前に立つ。鏡に映るのは、三十を過ぎた見慣れた自分の顔。少しだけ違和感を感じたが、その理由はすぐに分かった。
 昔の、夢を見ていたせいだ。
 洗顔を終わらせタオルを引っかけて戻ると、ほとんど無意識でテーブルの上の腕時計を左手首にまいた。
 ふと、目に付いたのは、腕時計のカレンダー。
 五月三十日。
「………」
 急がなければならないのに、知己はその数字にしばらく見入ってしまった。
(……命日か)
 そんな風に、思った。



 先に行ってろと言ったのに、実也子はロビーで待っていた。知己がエレベーターから降りてくると、目ざとく見つけて駆け寄ってきた。
「おはよー、長さん。寝坊なんて珍しいね」
 いつもの明るい笑顔で手を振る。それに応えながら、
「おはよう。遅れて悪い、祐輔たちは?」
「とっくに向かったよー。私たちも早く行こ、タクシー呼んであるから」
 二人は、そのままエントランスまで走った。
 今日はnoa音楽企画の事務所へ集まり、新企画の打ち合わせが行われるのだ。昨日、知己自身が全員にスケジュールを伝えておいて、知己が遅刻していれば世話ない。
 本当に、こんなことは珍しいのだ。知己には。
 まるで詰め込むように二人はタクシーに乗りこんで、運転手に行き先を告げた。
「そういえば長さん。前田先生が、長壁くんによろしくって言ってたよ?」
 実也子の話題提議は唐突だったが、知己にはすぐに伝わった。
 五日前のこと。実也子は「前田先生とデートだよーん」と言って、上機嫌で朝早く出かけて行った。前田公昭は実也子の師匠で、長い間、確執があり疎遠になっていた関係を解くことができたのだという。
 そしてさらに半月前、前田のコンサートの会場でのこと。実也子は逃げたが、知己は前田と話す機会があった。その時のこともあり、前田は「よろしく」と伝えたのだろう。
「やっぱ、あの時、何か喋ってたんだ」
 何喋ってたのよー、と追求する実也子に、知己はしれっと答えた。
「だから言っただろ。おまえの悪口だって」
「長さんっ!」
(そういえば───)
 隣でむくれている実也子をどうにか宥めて、知己は思い返した。
 今日の夢。あれは九年前。前田公昭と初めて会ったときのことだ。
 半月前、前田のコンサートで再会するまで、会ったのはあの時一度きりだったのに、前田もよく覚えていたな、と思う。
(確か…、あの時、弟子の話もしてたよーな)
 そんなことを思い返したが、どんな話をしたのか、詳細はもう忘れてしまった。
 九年も前のことだから。





 ヤスと、前田公昭。そして知己の三人でテーブルを囲んで、世間話をする中、前田はこんなことを言った。
「僕のところ、新しい子が入ってね」
 知己はその台詞の意味が分からなかった。新しい子? なんだ、それ。
 その疑問は次のヤスの言葉で分かることができた。
「おまえ、もう弟子は増やさん、とか言ってなかったっけ?」
 前田はクラシック・ベーシストとして日本の音楽界の将来についても考えていて、音楽家の育成も手掛けているのだった。つまり、弟子をとっているのだ。
 ヤスが言うにはすでに七人いるらしい。
「ものすごい勢いで押し掛け志願してきたから、つい、ね。それに、可愛いんだ」
 八人目の弟子について、前田はくすくすと笑いながら言った。
 それを聞いたヤスは呆れた。
「いくら小さくても男に可愛いなんてなぁ…」
「女の子なんだよ」
「へーえ」
 そりゃ珍しい、と興味を持ったようだった。
「おまえの大ファンらしい」
「そりゃ光栄」
「一応、試験みたいなこともしたんだけど、見かけの割に根性ある子でね」
「…女の子ねぇ。見込みあるのか?」
 厳しいプロの目になって、ヤスは言った。
 その視線を受けて、しっかりと受け止めて、前田は堂々ときっぱり言い切った。
「なければ入れない」
「ごもっとも」
 ヤスは表情を和らげて肩を竦めた。
 畑違いではあるが、お互い、同じ実を持って第一線で活躍しているプロだ。甘えもしないし、生温いこともしない。
 二人の会話を、知己は黙って聞いていた。






 noa音楽企画のビルに着き二人が受付へ飛び込むと、名乗らなくても通してもらえた。
 このプロダクションに属する芸能人は数十人いるのに、新入りにも関わらず顔パスが通用する立場になってしまったということだろう。
「おはよーございまーす」
 知己と実也子が指定された部屋へ飛び込むと、当然だが他のメンバーはすでに揃っていて、二人を待っていてくれた。
 小林圭、中野浩太、山田祐輔。それから叶みゆき、安納希玖。知己と実也子を含む合計七人が、Blue Roseの主要メンバーである。
「おはよー。実也さん、長さん」
 明るい声で手を振ったのは希玖だ。
「あれーっ、希玖。久しぶりーっ」
 半入院生活をしているため、希玖が事務所に現われることは稀だ。実也子がはしゃぐのも無理はない。
「遅れて悪い、待たせたな」
「いえいえ。別の話題で盛り上がっていたので、待たされたという意識はありません」
「別の話題?」
 知己は祐輔の言葉に首を傾げた。祐輔が答えるより先に、みゆきが心配そうに話し掛けてきた。
「ホテル出るときにマスコミの人達、いませんでした?」
「急いでいたから、よくわからなかったけど?」
「かのんさん、今回のことは慌てる必要はないですよ」
 祐輔は楽しそうに笑う。何の事だ? という知己の表情を読んで、祐輔は部屋の奥にいる浩太と圭を指差した。
「ミヤっ、面白い記事載ってるぞ」
「え? なになに?」
 浩太たちは一つの雑誌を皆で覗き込んでいて、どうやらその雑誌の記事が話題になっているらしかった。実也子が駆け寄ると、まず一つ目の雑誌を広げて見せた。
 それは今日発売の芸能週刊誌。その、三五頁(つまり、あまり大きく取り上げられているわけではない)。
 実也子はその見出しに顔を歪ませた。
 背後に知己が駆け寄る。知己が記事に目をやるより先に、
「なにこれーっ!」
 実也子が叫んだ。
 <<Blue Rose片桐実也子は前田公昭の弟子だった!>>
 そんな見出しで、記事は始まっていた。
 今話題のロックバンドBlue Rose、ベース担当の片桐実也子は、過去、クラシック界の大御所ベーシスト前田公昭の弟子の一人であったということ。Blue Roseの概要、前田公昭の概要。
 なんと写真付き。レストランで前田公昭と実也子が談笑しているところがキャッチされていた。実也子が言うには、先日会ったときのものだという。タイミングが良すぎはしないか?
「思ってたより早かったな」
 勿論、呑気にこんなことを言ったのは、実也子の前田との確執がすでに解けているのを知っているからだ。
 案の定、実也子はこんなことを言った。
「わー、この写真、よく撮れてると思わない? 前田先生も私もカッコ良く撮れてるよー。あ、先生は元からカッコ良いけど。カラーじゃないのが残念…」
 はー、と溜め息をつく。後ろからさらに覗き込んだのは祐輔だ。
「これは芸能誌ですけど、来週には音楽誌…とくにクラシック系がこのニュースで持ち切りになりますよ」
「多分、マスコミが実也子さんのところへも来ますね」
 心配そうに言うみゆきの台詞に意見する言葉を発したのは希玖だった。
「あー、でもね、実也さん」
「ん?」
「前田さんからお父さんに連絡あったらしいよ。“ニュースになりますがいいですか”って」
 は? と全員が希玖のほうへ振りかえった。
 希玖の言う「お父さん」というのは安納鼎───Blue Roseが所属する事務所の社長である。
「この記事を仕組んだのって、前田さんなんじゃない?」
「えーっ」
 平然として言う希玖。実也子は叫んだ。
「なんだ。じゃあ社長は記事になること知ってたわけか」
「でも、先生が直々にバラすなんて、何のメリットがあるのー?」
「…メリットはないけど、きっかけならあったのかも、な」
 後ろで圭が呟いて、浩太が頷いた。
「これ。同じく今日発売の「CLASSICO」」
 浩太が二冊目の雑誌を差し出した。「CLASSICO」は古典派に重点を置く音楽雑誌である。実也子は定期購読者だが、今号はまだ手にしていないらしい。
「あ。今月号って前田先生の特集だよね。買わなきゃ」
「そう。そのインタビューのここ、読んでみろよ」
「ん? …えーと」
 ──最近気になる演奏者は?
 前田:「(笑いながら)Blue Roseの片桐実也子、かな」
 と、あった。
 実也子の表情が自然と緩んだ。
「これは…、兄さんたち怒るなぁ」
 と言いながらも、口元がほころんでいる。
 想像だが雑誌の特質上、前田のインタビュー(音楽誌)のほうが実也子とのキャッチ(芸能誌)より早いだろう。インタビューに素直に答えてしまってから、どうせなら暴露してしまおうと前田が手を回したのか。それとも、もともと芸能週刊誌を利用するつもりでインタビューに答えたのか。
 どちらにしても前田が裏で動いていたのは、安納への電話の件からも明らかだ。
「どーせ社長は、いい宣伝だとでも思ってるんだろ?」
 安納が素直にこの記事を出させたことに、浩太が穿ったことを言った。
「あはは、僕もそー思うよ」
 とは安納社長の息子・希玖の言。
 実也子は暴れてはいないものの精神的にはしゃいでいるのは一目瞭然。いつかはバレる、とハラハラしていたものが解消されたのだ。しかもそれが前田の仕業と分かった。嬉しいのかもしれない。
「あと実也子さん、訊きたいんですけど…ここ」
「え?」
 祐輔がインタビュー記事の続きを指差した。
 ──尊敬する音楽家は?
 前田:「元RIZ、加賀見康男」
「これって、実也子さんが言ってた人ですよね?」
「あれ? 確か、加賀見って人が尊敬する人が前田公昭じゃなかったっけ? だから前田公昭に弟子入りしたって、ミヤが…」
 祐輔と圭が疑問の声をあげる。
「…」
 実也子はというと、そのインタビュー記事を読んで、真顔に戻り微笑んだ。
 実也子が前田公昭に弟子入りしたのは、圭が言う通り前田は加賀見の尊敬する人物だったからだ。そしてこの記事を読むと、ちょうど逆で加賀見は前田の尊敬する人物でもある。
「…うん。元々、加賀見さんと前田先生って同窓生だったらしいの。お互いがお互いを尊敬してるって公言するのは、昔からの悪友同士の約束事だって、前田先生言ってた」
「じゃあ実也子さん、この加賀見康男という人に会える機会もあったんじゃないですか?」
 その質問に、実也子は苦笑いした。
「あー…うん。昔、加賀見さんを紹介してくださるってゆー話もあったんだけど、…丁度その頃、加賀見さんが亡くなられて…。前田先生の前じゃ、RIZのことも言えなくなっちゃったんだ」





「男三人で、なーにやってんのよぉ」
 喫茶店での大物ベーシスト二人(と、知己)の会談中、割り込んだ声があった。
 ブリーチした金髪、足首までのワンピースを着た年配の女性が立っていた。よく知っている人物だった。
「ほら、お姫様がいらっしゃった」
 ヤスは肩を竦めて笑う。前田は軽く手を振った。
「久しぶり、リズ」
「お久しぶりね、前田くん。いっつも康男の我が儘に付き合ってもらっちゃって悪いわね」
 知己の隣に腰を下ろし、眉をへの字にした笑顔を見せた。
 彼女の名前はリズという。仕事仲間である知己さえ、彼女の名字も本名も知らなかった。年齢はヤスと同じ。
 リズは知己に視線をやって言った。
「知己も呼び出されたの?」
「ああ」
「康男、今日は久々のオフじゃない。休日を潰させちゃ可哀相よ」
「いーんだよ。こいつ、休みって言っても趣味がなけりゃあ女もいないし。出かけるとしても、どーせ楽器屋でも覗き行こうとしてたんだろぉ?」
 これも、実は図星だが肯定はしないでおく。
 リズがくすくすと声をたてて笑った。
「そんなこと言っていいのかしら? 恭二が地元で腕のいいドラマー見つけた≠チて連絡よこしてきた時、すぐに新潟へ向かって、知己を口説き落としてきたのは康男じゃない」
「そうだよ、ヤス」
「おまえが言うな」
「痛っ」
 デコピンを食らわされた。
 リズと前田は顔を見合わせて笑っていた。
 五年前。
 すでにプロとして活躍していたヤスとリズは(その頃から二人は付き合っていた)、新たなバンドを結成する為にメンバーを集めていた。後に石川恭二らベテランプレイヤーを仲間に入れ、そしてただ一人、全くのアマチュアである知己を参加させた。
 ヤス自ら知己の前に現われた。知己は一週間ほど悩んでそれを承諾し、当時三年目だった大学をやめた。担当教師に理由を問われ、知己はただ一言、「就職します」と答えた。
 前田公昭がクラシック・ベーシストとして活躍している一方、ヤス───加賀見康男は、ジャズ・ベーシスト。都内のライブハウスやクラブを点々としているジャズバンド「RIZ」のリーダー。
 「RIZ」。ウッドベースの加賀見康男を筆頭に、ソプラノボーカルのリズ、ジャズピアノの石川恭二、サックスの小松省吾、パーカッション兼ヴァイオリン兼コーラスの高橋次郎、ドラムの長壁知己、以上六名で構成されている。
 東京のレコード会社から数枚CDを発表したものの、例に漏れずブルーノートに立つことを目指していた。(ブルーノートとはアメリカの名門レーベル。世界中のジャズプレイヤーの注目)

 でも、その夢も潰えた。








 noa音楽事務所では社長が禁煙家のせいか、嫌煙権を主張する厳しいルールがいくつかある。
 まず、決められた場所以外での喫煙は禁止。社長室や事務員が働くオフィス、会議室はすべて禁煙。来客を迎えるロビーでは、喫煙スペースがしっかり決められている。
 各階の片隅にある自販機など置いてある休憩室は、数少ない喫煙できる部屋の一つだった。そのため部屋の中は煙草の匂いが染み付いてしまっている。
 ところでBlue Roseのなかで喫煙家は知己と祐輔だけだ。(他、実也子以外は未成年なのだから法律的には当然といえる)新企画打ち合わせの休憩時間、知己は煙草を吸いに休憩室に来ていた。他には誰もいない。前から思っていたがこの階は活動する人口密度が特に低いようだ。
 一人で煙草の匂いがする部屋にいるのは反って落ち着く。
「…」
 ぷはーと煙を吐いた。
 知己は今朝見た夢を思い出していた。
(ヤス、…か)
 加賀見康男は死んだ。
 もう十年近く経つのだから当時ほどではないものの、込み上げてくる感慨は、やはりある。
 リズはまだライブハウスで歌っているという。キョウさんは色々なアーティストのセッションに参加しているらしい。次郎さんは他のジャズバンドで活躍していて、省吾は何とかという歌手のプロデューサーをしていると聞いた。
 恭二には一度再会したものの、他のメンバーとは解散以後会ってない。会いたくない理由はないが、会えば嫌でもヤスのことを思い出すし、ヤスの話題が出ることは明らかだ。
 軽く口にできるほど、知己の中ではまだ時間が経っていない。
「長さん」
 実也子が顔を覗かせた。
「おう、どうした」
 実也子は煙草を吸わない。でもその匂いが嫌いなわけではないらしい。
 仲間内で、圭は自分の喉のために喫煙所には近寄らないし、浩太は根っからの嫌煙家だ。この部屋に近寄ることはない。
 実也子はすぐ近くに駆け寄って、知己と同じように壁に背をかけた。
「えへへ、隣に立ちたかっただけ」
「何だそりゃ」
 たはは、と知己は苦笑する。
 咥えていた煙草を灰皿に揉み消して、もう一本、火を点けた。煙を吐くときに実也子のほうへ向けないことは注意した。
 実也子は本当に隣に立っているだけで、何も喋ろうとしなかった。
 隣に、立っているだけだった。
 知己も何も言わなかった。
 煙が漂う中、ゆっくりと時が過ぎた。
 それは息苦しい沈黙ではなく、自然で落ち着いた時間。
 煙草が短くなるまでの五分間。
(……?)
 何故だろう。その間、知己は今朝の夢の淵に、深く沈まずに済んだ。
 実也子が、そこにいるだけで。
 そのことに気付いて、知己はそっと実也子の横顔を見た。実也子はまっすぐ前を見て、ただそこに佇んでいた。
 知己自身、自分の心情を態度に出すようなことはしてない。そういうことは既に身についているからだ。
 けれどもしかしたら彼女は彼女なりに何か勘付いて、気を遣ってくれているのかもしれない。
 そう考えると胸が熱くなった。
 これだけのことで、と自分に向けて非難めいたことを言う。でも、今朝の夢は知己の想像以上に知己を陥らせる影響力があったようだ。沈みかけていた気持ちが、実也子の存在に少し軽くなった。
 実也子から顔を背けて煙を吐く。もう一本取り出そうとしたところで、実也子はガシッとその手を掴んだ。
「吸いすぎ」
 それだけ口にして、知己を睨み付ける。
「…」
 その表情が何だか可愛くて、知己は笑ってしまった。
「長さん? 何笑ってんの? 私、怒ってるんだけど」
 実也子は知っているだろうか。知己が常用している煙草は、加賀見康男が愛用していたものと同じ銘柄だということ。
「…長さん?」
「───…」
 知己は笑いをしまいこんで正面から、壁に背をかけている実也子の肩に手を置いた。
 折れそうな細い肩。それを声に出して指摘すると、実也子は枕を投げつけてきて、必ず怒る。その理由はついこの間分かった。「男の子に生まれたかった」と、彼女は言った。自分の非力さが嫌だと。
 でも。実也子が男だったら嫌だなー、と知己は苦笑する。
「え…?」
 知己は上体を屈ませて、実也子の唇に、顔を近づけた。
 がちゃり。
 ドアが開いた。
「……っ!」
 未遂のまま顔を離して、知己は実也子の後ろの壁に腕をついた。鼓動が早くなっていた。
 ドアが開かれたということは、誰か入ってきたということだ。
「……お取り込み中でしたか」
 冷静に響いた声は、知っているものだった。
「祐輔…っ」
 安心して良いやら悪いやら。知己は極度の疲労感を覚えた。でも、一番騒がれなくて済む人物ではある。
 懐にいる実也子が一歩前に出た。
「祐輔のばかーっ、せっかくいいところだったのにぃっ」
 と、拳を握り締め、恥ずかしさではなく不満を露にする。
「あのな…」
 と、知己が言ったのは祐輔の乱入ではなく、実也子の反応にだ。祐輔は思わず吹き出してしまって、くすくす笑いながら謝罪を口にした。
「それは失礼しました」
「祐輔も、煙草?」
 照れ隠しも手伝って知己は違う話題を口にした。
「いえ、言伝です。お客様ですよ、お二人に」







「今、何やってんだ? おまえの腕は正直惜しかったから、こっちで続けて欲しかったんだがな」
 四年ぶりに会った石川恭二はそんなことを言った。PRE-DAWNという店でのことだった。
「地元で適当にやってる。もうブランク四年だ。腕だって腐ったよ」
「とにかく! ウチの業界に入るならアイサツに来い。でないと苛めるぞ」
「…お手柔らかに」
 知己には全くその気は無い。それでも穏便に交わそうと曖昧な答えを返した。

 RIZの解散後、知己は地元へ引き込み稼業の手伝いを始めた。母親は「出て行け」と常にこぼしていたが、満更不快に思っているわけではなさそうなので、図々しく居座っている。
 それから地元にも沢山のバンドがあって、ドラムというポジションの助っ人は事欠くことがない。数多くのバンドの助っ人をしてきて、依頼も増えて、音楽という世界から離れることはなかった。
 偏った知識があること、手先が器用なこともあって、ご近所の便利屋的なこともしていた。家電製品のちょっとした故障や子供の玩具は直せたし、力仕事で借り出されたこともある。
 職に就かなくても、一人で食べて行ける程度のことはできた。

 たまに、本気で笑いたくなる。
 我ながら、かなり要領良くここまで生きてきた事に。
 一人っ子でありながら、しっかりした面倒見のよい性格に育ったのには反面的な原因があって、それは単身赴任の多い父親。母の、女手一つでも一人前に育てる、という江戸っ子根性が働いたせいだ。
 自分自身、親に迷惑かけないようにという注意がいつも働いていた。
 かといって、そんな生活を煩わしく思ったり、ストレスを感じたりすることもない。
 生まれながらの小器用さで、運動や勉強もそれなりの成績を収めたし、人付き合いも良く、何が起っても結構簡単に解決してきた。中学、高校時代は大したつまづきもなく過ごしてきた。
 そして気が付けば幼いころからの夢を、二十代前半で叶えてしまっていた。その後七年間、その夢を満喫して、やめた。その後は今に至る。
 ───早くに夢を叶えてしまったら、その後は何をして生きろというのだろう。

 RIZの七年目。
 とんとんと過ごしてきた人生の中で、初めて絶望を感じたときだった。

 リーダーの加賀見康男が死んだ。
 事故だった。
 電話の音は苦手だ。
 最悪なことが、告げられそうな気がして。

 バンドとして正式に解散を発表した後、長壁知己は地元の新潟へ帰ると言い出した。
 他のメンバーには止められたけれど、ここにいることはできなかった。

 声にしては中々言えなかったけど。
 父親のように慕っていたんだ。
 傲慢な態度も、ガサツで強引で勝手でワンマンなところも、愛すべき人間だった。

 人を失うことがこんなにも辛いということ。
 初めて、知った。






「私、片桐実也子」
 目の前の、コントラバスを抱えた女の子は元気良く名乗った。
 石川恭二とPRE-DAWNで再会してから、数日後。noa音楽企画の事務所でのことだった。
 PRE-DAWNで耳にした曲を追っていたら、こんな所まで来てしまった。noa音楽企画は元プロの知己にとって馴染みは薄いが名前は知っている。J-POP系のアーティストを数多く抱える業界大手の一つだ。
 二人して指定された会議室へ入ると、まだ誰も来ていなかった。
 片桐実也子に特に目を惹かれたのには理由がある。彼女がコントラバスを持っていたからだ。それは加賀見康男と同じ楽器だった。
 一五五cm強の彼女の背丈で、一八〇cm以上ある楽器を扱うのはかなり骨だろう。知己は何故その楽器を始めたのか尋ねた。実也子はぱっと表情を輝かせた。自分のことを語るのを嬉しく感じる質らしい。
「昔、RIZってジャズバンドがいてね、ベースの人に憧れて始めたんだ」
 嬉々として彼女は言う。知己は凍り付いた。
「へぇ」
 平然と、相手に何も察せさせずに、相打ちすることはできる。それはすでに年の功と言ってもいい。
「RIZ、…ね」
 そう呟いたとき、一種の感動を覚えた。四年ぶりに口にした言葉だった。
「そのウッドベースのね、加賀見さんっていう人のファンだったの、私」
 そこで知己は思案を巡らせた。
(わざと言ってるのだろうか)
 RIZをよく知っているらしいが、知己のことを知らない?
 自惚れているわけではないが、自分がRIZの一員だったことは事実だ。
 さらに実也子は知己の顔を覗きこんで言った。
「長さんは? 何やってた人なの?」
「…っ」
 その直後。
 知己は大笑いした。実也子は本当に気付いてないのだ。
 何故だか、笑いたくなった。気持ちが晴れていた。
「え、なに? なにっ? 長さんっ?」
 実也子は知己が笑い出した理由が分からずに困惑している。知己はそれを抑えながら、どうにか言った。
「いや…、何でもない」
 後から分かったことだが片桐実也子は思い始めると一直線で、つまり、…加賀見康男しか見えてなかったのだろう。…きっと。
 その気質に惹かれたかもしれない。それに実也子に自覚は無いが、同じ人間を知っているという親近感もあった。
 自分がRIZにいたことを、何となく口にできなかったのは、この後数年にも及んだ。まあ、それもいいさ、と思う。
 その時、扉が開いた。
 ガチャリ
「──…失礼」
 入室してきたのは背の高い青年と男子中学生だった。失礼、と言ったのは実也子と知己が仲良く喋っているところを邪魔したと思ったからだろう。
「二人だけ? もう、時間だよな?」
 そんな風に尋ねてきたのは青年のほうではなく中学生のほうだった。変声期前なのか、高くよく通る声だった。
「やっぱり皆、PRE-DAWNでひっかけられたの?」
 実也子が言った。
「そうです。でもそう考えると、ここに集まるのはごく少数のようですね」
「集まるって言っても、単に例の曲が誰のものか教えてもらうだけだろ?」
 どうやら同じ目的で、この四人は集まったようだ。
 時間は丁度、十時になったところだった。
 ガチャリ
 もう一度、扉が開いた。
「あー? …何だ、これだけ?」
 今思い返すと最後の一人が現われたことになる。
 片桐実也子、山田祐輔、小林圭、中野浩太。
 RIZが解散して四年目。
 ────彼らが、新しい仲間となった。



 片桐実也子と付き合い始めたのは『B.R.』の一年目。
 誘ってきたのは彼女のほう。はじめは年齢差による抵抗感も手伝って断わったものの、まぁ、いろいろあって、今に至っている。
 でも何か約束したとか、付き合おうと言ったなどということはない。何故なら、『B.R.』をやっていた当時、会うのは一年に一回。お互いの連絡先を教え合ってはいけないという規定があったので、夏以外に会うことがなかったからだ。
 実也子も、特に知己を縛るような発言はしなかった。ただ、夏に会う度に、繰り返される会話がある。
「長さん、結婚する予定とかないの?」
「おまえ、それ、毎年訊くな。訊いてどーする?」
「そりゃ、もちろん相手に挨拶に行かなきゃー。元愛人として嫌味の一つくらい言わないと醍醐味がないでしょ? ほら、火サスみたいに」
 でも長さんと結婚する人が現われなかったら私と結婚してね。これは予約。
 面白そうに笑いながら言った。実也子はその一種駆け引きを楽しんでいる節がある。
「長さんは男の人だから、年一しか会わない私が浮気しないでねなんて言えないよね。でも私は長さんのこと好きだし、好かれたいと思う。つまらないことで喧嘩もしたいし、心の中で思っていることを聞かせて欲しい。…すごくね、長さんと会えて幸せだなぁって、思ってるの。あ、でも、それを長さんが重荷に感じることはないよ。良い関係でいたいな、って、思うだけ」
 そんなことを真正面に言われて、知己は照れるのも忘れた。
 片桐実也子は、明るい笑顔で考えていることを正直にずばっという。それはいつも本当のことだし、時々はっとさせられることもある。でも考え無しに無遠慮なことを言うわけではなく、腹芸もできるが嘘をつくことはない。(ついてもすぐ分かるから)よく気を遣う性格だがコミュニケーションが経験豊富というわけでもなさそうで、信じられないほど鈍感なところもある。
 そういう人柄に気付いたのは、付き合い始めてから。
 好きと言われて悪い気はしないし、知己自身、実也子の傍に居たいと思っていて彼女を必要としている。
 好きだと、声に出して言ったことは実はない。恥ずかしいから。
 それを年齢のせいにしてしまうのは、知己の悪い癖。


*  *  *

「こんにちは、はじめまして。それからお久しぶり」
 日本語の使い方間違ってますよ、と言いたいが実は間違っていない。
 実也子、そして知己が客が待つという部屋へ入ると、そこには品の良い年配女性が立っていた。年齢は六十歳くらい。洋装で、肩まで伸びた髪はブリーチの金色。ショルダーバッグを小脇に抱えて、皺だらけの手が添えられていた。
 その他に同じく年配男性が三人、実也子と知己に視線を向けている。
「───っ」
 知己は慌てたりはしなかった。驚きすぎて、反応を返せなかったのだ。汗が噴き出てくるのを感じた。
 女性はにっこり笑うと実也子の手を取って言った。
「片桐実也子さんよね? 噂は聞いてるわ、お話したいと思ってたの」
「え…、あの」
 実也子は目の前に立つ老婦人が何者か分からず戸惑っている。腰が引けているのはそのせいだ。
 女性は気にせず笑顔で続けた。
「あのね、私は…」
 がしっ、と。その手を掴んで、知己が二人の間に割って入った。
「リズ、こいつに変なこと吹き込むなよ?」
 知己のうろたえながらも保身する台詞を聞いて、女性はニヤリと笑う。つぎに。
 ガシッ、と。知己の首根っこを掴んだ力強い腕があった。
「おまえは、こっち」
 そのままズルズルと引きずられて、知己は部屋の奥に追いつめられた。
「がーっ、苦しいって。……キョウさん!」
(何でここに居るんだっ)
 嘆きたい気持ちで、知己は彼らに向き直った。
 先ほどまで知己の首を絞めていたのが石川恭二。それから意地悪そうに笑っている小松省吾と高橋次郎。
 貫禄ある年配男三人に囲まれ知己はたじろいでいる。
「久しぶりだなー、おい」
 何やら脅迫しかねない口調で恭二はポキポキ指を鳴らした。
「ちょっ…、キョウさん。ちょっと待てって」
 落ち着きを取り戻せないでいる知己。
「待てじゃねー。この業界に戻ってくるなら、挨拶に来いって言ってあったよなぁ」
「トモー。一発殴りたいって、恭二が言ってたぞー」
「次郎さんっ!」
「一発ぐらい殴られときなよ」
「省吾っ、てめぇっ」
 正当な反論をしようとした。が。三人の視線に刺され、知己は言葉を飲みこんだ。
 そして三人は口を揃えて。
「おまえが、悪い」
 嫌にはっきりと区切って、言った。
(……)
 分かっては、いる。
「いや、でも…それは確かにそうだけど、…。それにしたって、何で実也子まで呼び出すんだよ!」

 一連のやりとりを見ていた女性陣二人。
「……」
 実也子はこの四人が誰なのか、未だ分からないでいる。でも知己の知り合いだということは間違い無さそうだ。
 あちらでは何やら不穏な会話が展開されていた。知己は必死だが端から見れば仲の良い友人がじゃれているようにしか見えないので口出ししないでおこう。
 実也子は隣に立つ女性に目をやった。その視線に気付き、実也子に優しい笑顔を見せた。
「突然ごめんなさいね。私、リズよ。ちょっと前になるけど、雑誌インタビューを読んだわ。好きなミュージシャンに、私たちの名前を挙げてくれてありがとう」
 え? と実也子はすぐに答えを出すことができなかった。
(リズ……)
 そういう名前の女性は、……一人だけ、知っている。
 RIZのボーカリスト。リズだ。
「え…。エーッ! リズって…、あの、RIZの…?」
「そう」
「や…、私、すごくファンだったんですっ! きゃーうれしーっ」
 興奮を露にして実也子は飛び上がり、握手していた手を上下に振った。その元気の良さに少しだけ驚きつつ、
「今日、前田くんの記事が出たでしょ? あなたのことは昔から聞いてたけど、奇しくも康男の命日だし、会いにきちゃった。こうでもしないと知己も顔出さないしね」
「そっかぁ。今日は加賀見さんの……、────え?」
 ふと、実也子は思い立ってリズに訊いてみた。
「あの…、長さんとどういう関係なんですか?」
 あら、と拍子抜けしたようにリズは首を傾げた。
「あれ? 実也子ちゃんて、さっき、RIZのファンだったって言ったよね?」
 勘違い? と首を傾げるリズ。
「今もそうです!」
「…」
 繋がらない会話にリズは額に指をやり、何やら考え込んでいる。
「あのね。RIZって、何人いたか、知ってる?」
「え? えーと、五人…じゃなくて六人ですよね、確か。あはは…実は加賀見さんばっかり見てたので、あんまり詳しくは…」
 リズは笑いを堪えきれずにくすくすと声を立てた。
「六人っていうのは正解。どんな人がいたか、なんて覚えてないわね」
「すみません」
 ぽりぽりと頭をかく。
「謝らなくていいのよ。じゃあ、教えてあげる」
(……?)
 ふと、気付いた。
 確か、実也子は「長さんとどういう関係なんですか?」と尋ねたのだ。
 リズはそれに答えようとしてくれている。だとしたら、この話運びは、どういう関連だろう。
「RIZはね、ベースの加賀見康男と、…今、この部屋にいるあなた以外の五人で成っていたのよ」
 そのように語るリズの後ろでは、知己が他三人に追い込まれているところだった。
 実也子は息を飲んで目を見開いた。この部屋には、実也子を抜かすと五人しか、いない。

「ちょーさぁんッ!」
 耳を破る声がしたと思ったら、実也子が駆け寄って知己の腕にしがみついた。それには恭二たちも驚き、思わず道を開けてしまった。
「え…? あ…なんだぁ?」
 下から睨み付けてくる実也子は顔を真っ赤にさせ、目がうるんでいた。 
「長さんが、RIZのドラマーだったってっ、ほんとっ?」
「あ…」
 その問題があった、と知己は今更ながら気が付いた。リズが言ったのか。
「黙ってるなんてひどーいっ! 長さんには初対面のときに言ったよねぇ? RIZのファンだって。…もーっ! 何で黙ってたのよーっ」
 実也子の心情としては。三年間も正体を隠されていたことへの憤りと、当人を目の前にして「ファンだった」と言い続けていた恥ずかしさと悔しさ。怒るべきか笑うべきか複雑で混乱している。
 知己はその迫力に押されつつも、苦笑いしながら、
「そっちこそ、ファンだったなら気付けよー。初対面でそう言われたから、言うに言い出せなかったんだ」
「あっ、私のせいにするわけ?」
「前田さんだって、この間会ったときに、すぐ気が付いたぞ」
「…あ、だからよろしくって…。もーっ! 前田先生も教えてくれればいいのにーっ」
 実也子のパニックぶりに、知己はもちろんリズや恭二も、笑った。
 宥めに入ったのは次郎だった。
「片桐さん、今夜ヒマ?」
「え?」
 安っぽいナンパの台詞だが、そうではない。
「追悼記念と銘打って、今日の夜、RIZのライヴするんだ、まぁその辺の小さい店だけど」
 えっ、と目を輝かせる実也子の隣で、
「は?」
 と、知己は眉をひそめた。
「トモっ、おまえ六回もサボってるんだから、今日こそやれよな」
「おい、ちょっと」
 まさかこれが本題か?
 そうだっ、とリズが手を叩く。
「実也子ちゃんも康男のパートで出ない? いつもは前田くんが来てくれてたんだけど、今、海外行っちゃってるのよね」
「ほんとにっ? やる! やりますっ、長さん! やろうよ、ね? ね?」
 さきほどの勢いはどこへやら、実也子は知己に合意を求めた。
「…そんなこと言ったって俺らフリーじゃないんだから簡単に…」
「みゆきちゃんに訊いてくるっ」
 実也子の対応は素早かった。
 言うと同時に踵を返し、ドアの向こうへ走って消えた。
 知己たちは事務所に雇われてる身なので、この腕(売り物)を勝手に使役することはできない。「仕事については事務所を通してください」というやつだ。でもまあ報酬を貰うわけではないので、プライベートと言えばどうにでもなる。もちろんプライベートでも、イベントを起こすことで自分たちの知名度が世間に及ぼす弊害を考慮しなくてはならないが。
 そんな理屈はさておき、みゆきが出す答えなどとうに分かっている。
 とりあえず知己は実也子を追った。
「ごめん、すぐ戻るから」
 小走りで退場。室内には来客者のみが残された。
「…若者は騒々しいなぁ」
「あら、恭二。年寄りのヒガミは見苦しいわよ」
「うわ、きっつー」
 ねえ、と省吾が口を挟んだ。
「Blue Roseってさぁ、…いや、『B.R.』のとき? 正体は地方の一般人だったーって、報道されてたじゃん」
「ああ」
「あれ、嘘だよな。だって知己はプロだったわけだし、片桐さんは前田さんの弟子だったんだろ?」
 例えそれが過去の経歴だったとは言え。
「ははっ、確かに一般人と呼ぶにはちょっとな」
「それだけじゃないよ。キーの山田って、あいつ薪坂の主席卒業者だと。知らぬ者無しの有名人だったそうだ。あとギターの…何だっけ? 中野? は、アマチュアの間じゃ名が通っていて、ギターの助っ人としては指名率ナンバー1、しかもノーギャラでやるって。つまり自分の価値を分かってないんだな。それからボーカルの小林圭、森村久利子の子供だって知ってた?」
「…森村って、あの? うっそ」
「一部の業界関係者の間で噂になってる。信憑性は、ある」
「おいおいー。じゃあ、そんな奴らが集まったわけ? 偶然? 勘弁してくれよ」
「ほんと。それこそBlue Rose(ありえないもの)だっつーの」



 その日の夜。
 都内の某ライブハウスで、毎年恒例(と言っても世間にはシークレット)のRIZ・加賀見康男の追悼ライブが行われた。
 リズが初めにメンバー紹介をしたので、Blue Roseの長壁知己と片桐実也子が混ざっていることはすぐにバレた。それから客席に山田祐輔、中野浩太、小林圭がいたことも周囲にはバレたが、理解ある客層だったので騒ぎになることはなかった。さらに客席の中には、叶みゆき、安納希玖、本村沙耶、日阪慎也とその彼女、木田理江、日辻篠歩、八木尋人、大塚スグル、新見賢三、桂川清花、須佐巽、一村草介の顔があった。(皆、暇なのだろう…)

 知己はヤスのことを思い出していた。
 仲間であり、父親でもあった人。
 今回、今まで避けていたリズや他の仲間たちと再会し演奏することで、昔を思い出して、頭を抱えたくなったり息苦しくなったりすることがあるかもしれない。
 ヤスは、大きな存在だったから。
(でも)
 それも、まあ、いいか。
 と。
 今日、はじめてそう思えた。
 悲しみに潰されなくなったのは、時間が経ったからだ。
 そして。新しい仲間と出会えたから。

 今、目の前に立ち、ベースを奏でている後ろ姿は七年前とは違う。
 曲が終わって客席から拍手が起こったとき、その後ろ姿が振り返り。
 弓を持った手を振って、笑った。







Side.知巳 END
BlueRose-Side. 祐輔/実也子/知巳/