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独特な空気だった。湿度が高い所為かなんとなく空気が重い。沢山の人が行き来しているのに、街中のような自分を無視してくれる喧噪はなかった。喋り声は小さく聞こえるだけで足音が大きく聞こえる。ほとんどの人はこちらを見ていないはずなのにどこか見張られているような感じ。
ロビーに入ったとき、藤子はそんな感想をもった。
警察署と呼ばれる場所。
そこに受付の職員が一名、刑事らしい若い男が一名(受付のほうは制服を着ていた。刑事は私服だ)。そしてさっき捕まえに来た男と藤子が、警察署の玄関先で顔を突き合わせていた。
「で、どうしてあたしはここに連れて来られたんでしょーかー」
藤子が不満げな声をあげると、
「…っ」
ぐっと胸ぐらを掴まれた。胸ぐらを掴まれるのは初めての体験だった。
男の腕は怒りで震えていた。
「俺の伯父は半月前、おまえに殺されたんだっ」
喉が掠れて悲痛な声だった。その声は玄関ホールに響き渡り、幾人かが振り返っている。
「…は? え? なんであたし!?」
藤子は非難より驚きを表して言い返した。
「窓から逃げるおまえの顔を見たッ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。マジなの? 冗談じゃなく? …ていうか手ぇ放して! 服が伸びちゃうじゃん!」
「しらばっくれるなッ! なんで…、どうして伯父さんを…っ」
「きゃっ」
乱暴に突き放された。よろけた藤子を若い刑事が支える。
「おい、君っ」
刑事の言葉には耳を貸さず、男は藤子を鋭く指さした。
「こいつは殺人犯です。さっさと死刑にしてください」
「コラ!」
刑事は強い声で男を諫めた。
「俺が見た犯人の風貌は何度も説明してるじゃないですか。この女がそうですよ」
「いいかげんにしなさい」
若い刑事が一喝すると、やっと男は黙った。しかしその表情は不満を隠していない。
「あのね」と、若い刑事が藤子に声をかけた。「ごめんね。少しだけ話を聞かせてくれる?」
「なに? 話って」
藤子は不機嫌な様子で答える。
「世間話と思ってくれれば」
「別にいーけど。暇だし」
「おまえッ!」
掴みかかってくる男を藤子から引きはがすように若い刑事が割り込む。
「ともかく君は先に帰って、なにか判ったら連絡するから」
なおも男は叫んだ。
「こいつです、間違いありませんッ」
「わかったから」
刑事と職員によって藤子と男は引き離される。藤子は通路の奥へ、男は玄関へ。
藤子がちらりと振り返ると、男はまだあの敵意の目を藤子に向けていた。
若い刑事に付いて通路を進む途中、別の刑事とすれ違った。一瞬、目が合う。しかしお互いすぐに視線を外し、そのまま通り過ぎた。
事情聴取といっても取調室には連れて行かれなかった。室内の端っこの事務机の隣に椅子を用意されてそこに座るよう言われる。その程度の扱いらしい。ちょっと待ってて、と言ったさっきの若い刑事が事務机にすわりパソコンに向かっている。お茶を出されたけど、藤子は二度は口をつけなかった。
刑事が藤子に向かって言う。
「彼ね、伯父さんが殺されてるんです。犯人を見たらしくて、ずっと探し回っていたようなんだ。あぁ、どうやら君みたいな若い女の子らしい」
「あたしが殺したっていうの?」
「彼はそう言ってるね」
「冗談じゃない」
「まだ決まったわけじゃないから」
「あたりまえよ」
「君、名前は?」
「國枝藤子」
「くにえだとうこさん、ね」
キーボードを軽く打つ。藤子からモニタは見えないが、藤子の名前を打ったのは明白だ。
「…えっ!?」若い刑事が勢いよく顔をあげる。モニタと藤子の顔、交互に視線を走らせた。
「はい?」
藤子はにっこりと笑って返す。
「あ…、えっと、学生さん?」
「中退して、今はフリーター」
「ち、ちょ、ちょっと待ってて」
慌てた刑事はガタガタと音を立てて席を立つ。机から離れようとしたが、2歩進んだところで戻ってきた。またキーボードをいくつか叩いたあと、改めて部屋の奥へ駆けて行った。
最後の動作はパソコンにロックを掛けたかログオフしたのだろう。藤子は舌打ちする。期待したほどには間抜けではないようだ。それにしても。
(さすがに、名前くらいは知られてるか)
なんだかんだ言っても警察は優秀である。迷宮入り事件は数あれど、容疑者がゼロだった事件はないのだ(容疑者といっても冤から確まであるが)。ここ数年で台頭した國枝藤子の名前くらい、警察だってもう知っているだろう。
藤子自身は現場に証拠を残さない。足跡もサイズが違うし、指紋も残さない、体毛が落ちないよう特殊なスプレーをかけてる。現場のセキュリティ種別や防犯カメラの位置もチェックしてる。凶器は置いてきているがそこから身元がばれるようなことはない。───何も、偽装が完璧である必要はないのだ。國枝藤子を特定できる証拠があっても、國枝藤子ではありえない証拠を残しておけばいい。あとはアリバイ屋の工作と警察の調査能力、どちらが上回っているかだ。
捕まるかもしれない、とはいつでも覚悟している。ただ捕まらないための最大限の努力はする。自首もしない。警察次第なのだ。藤子はその結果が突きつけられるのをただ待っていればいい。気楽なものだ。
まずは、同一人物とみるか同姓同名ととるか、それはこれからの駆け引きしだいだ。藤子は楽しみにしている。
「國枝藤子さんだって?」
コワモテのおっさんが現れた。顔の割りに言葉は穏やかだ。ただ目は鋭い。
「いや〜、どうも。はじめまして」
と、藤子の目の前に座る。
「計良(けいら)といいます、ヨロシク」
「あんまり警察とよろしくしたくないです」
「まぁまぁ。さっきの、彼の伯父さんが殺されたって、聞いた?」
「さっき」
「半月前なんだけど」
「あのね、だいたい、さっきの人のおじって誰? あたし、さっきの人もそのおじさんって人も知らないんだけど」
「うーん。もっともだ。でもそれは教えられないな。もし國枝さんが犯人だったら、彼に口封じするかもしれないだろ」
「じゃあ、あたしはなんの事件かも知らないまま犯人扱いされて、取り調べ受けるわけ?」
「犯人とは言ってないよ」
「あたりまえ!」
「ま、もっと気楽に考えて、おじさんとお喋りしてくれよ。半月前の6月19日の夜9時頃、なにやってた?」
「…おぼえてるわけないじゃん」
「だよなぁ」
藤子は少し考える仕草をして、バッグから手帳を取り出す。6月19日。日付を数える習慣はないがメモは残っている。"J町 ケイコライヴ8時"と走り書きがあった。
「そうそう! でもコレ、整理券取れなくて。結局、ファミレスでごはん食べて帰ったんだ」
「ファミレスってどこの?」
「デニーズ。駅前の」
「何時から、何時までいた?」
「8時すぎに入って〜、10時回ったかな?」
「ずいぶん長いな」
「文庫本読んでたから。1冊、読破しちゃった」
「それが本当かどうか、一応調べさせてもらってもいい? 事件のほうは被害者の甥の目撃証言があるわけだからさ」
「それだけで調べられるの?」
「まぁ、ほとんどは地道に聞き込みだけど。レシートなんか残ってると楽かな」
「う〜ん、…たぶん、捨てた」
「なに食べたか憶えてる?」
「マンゴーのパフェは食べた。新メニューだったから」
計良刑事は口端で笑った。
「なにかわかった? 刑事さん」
「うん、まぁ。ずいぶん都合のいいアリバイがあるなと思ってな」
「そう? こんなもんじゃない?」
そうかい、と藤子の顔を覗き込む。
「もうひとつ、その次の日の夜はなにしてた?」
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