キ/GM/41-50/42
≪2/12≫
1.10月5日火曜日11時30分
昼前にA.Co.に訪れた客の顔を見て阿達史緒は目を剥いた。ここへ訪れるはずが無い人物だった。それだけじゃない、この人物に会うときは必ず穏やかでない事情も一緒に付いてきた。
30代後半の男性。くたびれたYシャツのうえに着古した背広、もう残暑も遠く肌寒いというのに青いハンカチで汗を拭いている。頭髪は白混じりで背も高くはない、しかしどっしりとした体躯の男がやたらと腰の低い態度で入ってきた。
男は軽く手をあげて挨拶をする。
「やぁ、史緒さん」
そのとき事務所内には、史緒のほかに三高祥子と関谷篤志もいた。2人からの視線に備える余裕も無かった。史緒は呆けた表情のまま、思わず立ち上がっていた。
「……木戸さん?」
「突然、ごめんなぁ。仕事中だとは思ったんだけど」
申し訳ない、と男───木戸は両手を合わせた。
祥子が椅子を勧めたが木戸は丁重に断る。ありがとう、急ぐので、とすまなそうに顔をゆがませた。
「なにかあったんですか?」
史緒の声が緊張するのを聞いて、木戸は否と手を振る。
「いや、すまんね。えっと、あー、デートの誘い、かな」
「は?」
「俺のオフィスでお茶でも?」
おどけた木戸の台詞にも史緒は笑わない。
そっと窓際に寄って道路を見下ろすと、路肩に黄色のクーペが停まっていた。木戸の所有車だ。史緒は振り返って真顔で礼を言った。
「お気遣いいただいてありがとう」
木戸は軽く肩をすくめる。「どういたしまして」
「任意でしょうね」
「もちろん」
それだけ確認すると、史緒は視線を隣りに移した。
「篤志、祥子。ごめんなさい、私用で出かけます。あとのこと、よろしく」
祥子は突然のことに頷くしかできない。篤志は何か言いかけたがそれはしまって、最低限の確認事項を訊いた。「行き先と帰り時間」
史緒は木戸を指して答える。
「この人のオフィス」
木戸はにこやかに笑った。
「夕方までには送り返すよ」
「木戸さん、すぐに支度しますので、待っていてもらえますか?」
「もちろん。ごゆっくり」
木戸は人好きのする笑顔で頷いた。
「あんなもんでよかった?」
階段を降りる途中で前を行く木戸が言う。史緒は申し訳なさも含めて頷いた。
「ええ。助かります」
「史緒さんには何度か来てもらってるけど、史緒さんの事務所にまで迎えに来たのは初めてかな」
「そうですね。……でもどうして木戸さんが? あの子のことで私が呼ばれるとしたら、いつもどおり計良さんのところのはずでしょう?」
史緒が訊ねると、木戸は肩を揺らして低く笑った。
「俺は暇だったから使いっ走りさせられただけ。まぁ今日もいつものだから、史緒さんも気楽に迎えに行ってやって」
1階に降りて玄関を出ると、街路樹の向こう側に木戸の車が見えた。もし営業車で乗り付けられていたら、篤志たちへの言い訳に苦労するところだ。近所への印象も悪い。
「本当に、お気遣いありがとうございます」
史緒はもう一度礼を言った。
「気にしないでくれると嬉しいな。俺がパト乗り回すのが嫌いなだけだから」
「どこに拉致されるのかも喋らないでいてくれてありがとう」
「拉致って……」
「ええ、木戸さんに恨みはありません。文句はあの馬鹿に言いますから」
木戸がわざわざ助手席を開けてくれた。お礼を言って車に乗り込んだ途端、煙草の匂いが鼻の奥を刺す。史緒は表情を崩さなかった。木戸がヘビースモーカーだということは知っている。しかし史緒は彼が吸っているところを見たことはない。(そういう風に、嫌いなものを口にして周囲に気を遣わせるの、どうかと思うよ?)かつて藤子が言った通り、周囲の人に気を遣わせてしまっているのだろう。
木戸が運転席に乗り込むと車はすぐに動き出した。
「前から訊きたかったんですけど」
「ん?」
車が走り出してから、木戸は器用に片手でシートベルトをしめている。
「木戸さんは、藤子と付き合い長いんですか?」
「うーん」木戸は唸った。「まぁ、史緒さんや奴さんの旦那よりは長いかな」
「旦那…って、北田さんのこと?」
「ああ」
北田千晴は國枝藤子の恋人の名前だ。史緒も何度か顔を合わせている。藤子はいつも北田の腕に手を回してはしゃいでいるが、北田のほうは無口でいつも視線を伏せている印象がある。
「あの2人も不思議。よく会ってるらしいけど、仲が良いようには見えなくて」
「そりゃそうだろなぁ」
「え?」
視線を向けると木戸は目を細めて笑っているのか困っているのか判らない微妙な表情をする。
「……うん、まぁ、いろいろあるみたいだよ」
昼時のせいか道路は混んでいた。木戸の職場に到着するには時間がかかるだろう。
阿達史緒が警察署に来るのは初めてではない。木戸は署内で何度も阿達を見かけたことがあった。阿達の潔白のために補足しておくと、彼女が警察に出頭するのは決して自らの不始末からではない。
「やっほー、史緒ー」
阿達曰く“あの馬鹿”こと國枝藤子。阿達が部屋に入ると、ソファに座っていた國枝が大きく手を振った。紙パックのジュースを飲みながら、にっと笑う。さらに足をばたつかせて不満を口にした。
「遅いよー、待ちくたびれたよ〜」
「……」
引き戸に添えられたままの阿達の腕は見るからに震えている。木戸は苦笑したが、それで場が和むわけではない。
「──藤子」低い声が響いた。「これで何回目!?」
平日の昼間に仕事を邪魔されたのだ。阿達には怒る権利はある。おそらく何度目なのかは國枝も阿達も判らなくなっているだろう。
「待って、怒っちゃやだ! 今回も言いがかりなの、まじで!」
「わかってるわよ。藤子が手錠かけられたら、私が呼ばれる必要も無いもの」
警察は國枝が「始末屋」であることは知っている。警察だって「裏」の事情はある程度把握していた。少し調べれば國枝藤子の名前は嫌でも耳に入る。名前が売れてなければ商売が成り立たないのはどこも同じだ。
ただ、警察にしてみれば「始末屋だから」という理由では逮捕できない。職種「始末屋」で登記されてるわけでなし、名乗るだけなら個人の自由。実際、「始末屋を名乗っているだけで手を下したことが無い者」もいる。逮捕するにはもちろん殺しの証拠が必要だった。
そういう意味で、國枝藤子は何度か警察に呼び出されてはいるが、裁判所へ逮捕状を請求できた試しは一度も無い。
突発的衝動的な素人犯行より、「裏」と呼ばれる職業犯罪人たちの犯行は何倍もやっかいである。彼らは直接的な利益を求めることと同じくらい(もしくはそれ以上に)プロ意識もある。スキルとノウハウもあるため警察は逮捕以前に証拠を揃える段階で大変な時間と人手を浪費することになる。さらに職業犯罪人たちはチームを組むこともあるからタチが悪い。開錠屋、運び屋、復讐屋、調達屋などなんでもありのようだ。
國枝も職業犯罪人の一人。警察が初めてその名を得たのは2年半前になる。そして國枝が初めて警察を訪れたのは2年前のことだった。
「なんだ、興信屋までお出ましか」
ドアが開いてまた一人刑事が入ってきた。
興信屋という言葉は無いのだが、この人は阿達のことをいつもこう呼ぶ。
「手続き上しかたないとはいえ、身柄引き受け、毎度、ご苦労さん」
「お久しぶりです、計良さん」
愛想は良いが、阿達の声に少しだけ警戒色が混じる。それもそのはず、計良は1課所属で殺人および凶悪犯担当、國枝藤子を捕まえる立場にある。連れの阿達としてもボロは出せない。
「そっちは最近どうよ、儲かってる?」
「ぼちぼちですね」
「俺のほうは相変わらずだよ。誰かさんが、しょっ引かれては証拠不十分で釈放の繰り返しだから、無駄骨もいいとこ」
「あたしは無駄足だよー」
國枝が茶々を入れる。
「おまえが言うな」
「それは私の台詞よ」
計良と阿達の声がうまく重なったので木戸は噴き出した。当の2人は顔を合わせてお互い苦笑する。
「お疲れさん」
「計良さんも、お疲れ様です」
「本当にそう思ってる?」
「もちろん」
だったら、と計良は國枝を指した。
「興信屋もさっさとこいつを見限ってくれれば有り難いんだがな」
「どういう意味でしょうか」
「あんたからの制裁を恐れて証言しない人間もいるんだよ」
「制裁? 冗談でしょう? 私は藤子が傷害や強盗で捕まっても偽装や偽証なんかしません。ましてや他人の口を塞ごうだなんて」
「そうは言っても、今の力関係じゃ、裏の連中もその冗談を考慮しざるを得ないんだが…」
計良の勢いが少しだけ落ちる。國枝だけでなく、阿達のほうも相当口が減らないことは解っているからだ。阿達はなおも笑って言った。
「なにか勘違いされてません? 私は表でも末席の、ただの興信所兼なんでも屋です。計良さんのおっしゃる“裏の連中”に対して圧力をかけられるはずもないし、藤子のために自分の立場が危ぶむようなまねはしません」
「史緒、それひどい」
「事実よ」
切って捨てるように言われて國枝が不満をこぼす。
「計良くんも、史緒をいじめちゃだめだよー。あたしのお気に入りなんだから」
「俺のほうがいじめられてる気分だよ」
“あたしのお気に入り”。それが同業者を震え上がらせる原因なのだが。
はい、と國枝が姿勢よく片手を挙げた。
「ね。木戸くん、あたし、もう帰っていいんでしょ?」
「あぁ、外で書類書いて行って。史緒さんも」
「わかりました」
「それじゃあ」
國枝は音もなく立ち上がる。阿達の隣に並び、その肩に手を置いた。2人は室内に視線を返すと、
「またね」
顔を並べて不敵に笑う。
始末屋・國枝藤子。
興信屋・阿達史緒。
今ではこの2人は、表も裏もそして警察も周知の仲だった。
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