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5.藤子

 たとえば。
 駅へ向かう人波の中にいるとき。同じ方向へ歩いていく群衆に恐怖することがある。雨の日の色とりどりの傘の群れとか、交差点のスタートの瞬間とか、泣いてしまうくらい不安になるときがあるんだ。
 まるで自分がなにかに埋もれていきそうで、蝕まれていくようで、苦しくて吐きそうになる。自分のいる場所が急に不安定になる。
 なんであたしはこんな場所にいるの?
 なんでこんなところで遊んでるの?
 なんで呑気にごはん食べてるの? 眠ってるの? 笑ってるの?
 あたしが立つ場所はこんな堕落した世界ではなかったはずだ。
 常に背後に気を遣い、走り、息をも潜め、血染めのナイフを握りしめて泣きながら帰った。格子窓がある黴臭い部屋へ。
 戻らなきゃ。
 この世界の生ぬるさに耐えきれず急くような強迫観念に襲われる。でも、たとえあの部屋に戻れたとしても、あたしはこの堕落した街を離れないだろう。離れたくない。
 戻りたくない。
 両側に引き裂かれそうな思いに泣き叫ぶ。
 そんなときの、衝動。
 ───目の前の女の子を刺したら、きっと楽になれる
 そうだ、そんな些細な狂気は、誰でも持っている。
 綺麗なものに無性に苛立つことがある。吐き気がする。無垢な心を壊したくなる。
 だから、自分の痛みを少しでも軽くするためにあたしのところへくる依頼人は好き。その身勝手さに尊敬する。そう、ヒトは楽になれる手段がある。社会的、道徳的、倫理的に禁じられていることの中にさえ。
 ときどき、史緒にも嫌悪感を憶える。高潔、潔癖、理想が高く、そこに近づけないのは自分の努力不足のせいにしている。裏(こちら)に片足を入れてもなかなか染まらない頑固者。そしてあたしの仕事を毛嫌いしているくせに、あたしと付き合ってるのは最大の矛盾。
「人を殺して罪悪感は無いの? 人を殺してなにか得られるの? それは具体的になに? 私はそれが知りたい」
 変なこと訊くなぁ。
 罪悪感なんて無い。得られるのは径の終わり。それが目的、それが見たいの。だからこの仕事をしている。
 それを訊くためにあたしと友達するのかな。へんなやつ。
 でも後でわかった。
 ───人殺しが死を恐れてどうするの?
「私は、怖いわ」
 ───ああ。
 あんたも人殺しなんだ。
 罪悪感があって、なにも得られず、後悔しか残らない殺しをしたんだ。
 それをずっと引きずってるんだ。
 馬鹿みたい。だけど。
「史緒のそういう、勝手になにか抱えて勝手に孤独に浸ってるトコ、好きよ」
 この子はあたしとは違う。
 なにも捨てられないんだ。過去も傷も、仲間も。
 ひとりで独りの径を終わりへ歩いているだけのあたしとは違う。
 この場合、どっちが身勝手なんだろう。





 リテさんのダーツバーは藤子のお気に入りだ。落ち着いた雰囲気で酔っ払いに絡まれることもないし、サクマのような気の良いダーツ仲間もいる。ひとりで来ても遊べるし、リテさんはよく話し相手になってくれた。
 史緒と知り合ってからはよく連れて行くようになった。
「北田さんて、本当に藤子のこと好きなの?」
 ダーツの合間に史緒はそんなことを訊いた。藤子はあんぐりと口を開けたまま言葉をなくす。
「…未だかつてないくらい、失礼なんですけど。史緒じゃなかったら平手が飛んでるんですけど」
 藤子は少しの怒りを込めて言うと、史緒はすぐにごめんと謝った。謝るような質問だと解ってるなら、もう少し訊き方に気を遣って欲しい。
「だ、だって、北田さんっていつも怖い顔してるし、藤子がノロケても反応無いし、手を繋いでいてもなんか嫌そうだし」
 最後の一言にはグサッときた。事実だろうが、そこまではっきり言われたらいくら藤子でも傷つく。
「あのねぇ、愛情表現なんて、人それぞれでしょ?」
「…北田さんは、藤子の仕事のこと、知ってるのよね?」
「もちろん知ってるよ。いくらあたしだって、それを隠して誰かと付き合うなんてできないよ」
 そう言っても史緒は釈然としない表情をしている。そんなに藤子と千晴の仲が疑わしいのだろうか。確かに、馴れ初めは普通とは言えないが、それを史緒に説明するつもりは無い。
「でもまぁ、晴ちゃんはあたしのことちゃんと好きだよ。───死に目を見たいと思うくらいにはね」
「不吉な表現しないでよ」
「だってホントのことだもん」
 は〜ぁ、と藤子は大げさに溜息を吐く。
「史緒もねぇ、仕事仕事言ってないで恋愛すればいいのに」
 と、史緒に話を振ると、
「ぜんぜん興味ない」
 と、平然と首を横に振る。かわいくない女だ。
「つまんなーい」
「藤子を面白がらせてどうするのよ」
 だんっ、と藤子はテーブルを叩いた。
「だって華の10代だよ? 命短し恋せよ乙女、恋愛してナンボ。男の振り方もキスの仕方も知らないまま20歳に突入したら、ぜったい苦労するよ?」
 そんなこと言われても、と史緒は苦笑した。
「誰かいないわけ〜? 身近な人でもさ〜」
「だいたい恋心なんてさっぱり解らないし」
「そうだな〜、史緒の性格から言ったら…」
 確かに、今の史緒を見てたら恋愛事なんて想像できない。仲間内に男が数人いるのは知っているが同時に仕事のパートナーでもあるので、腹を割って弱音を吐くなんて史緒はできないだろう。何にせよプライド高いこの女のことだ、素直に甘えることも自分をさらけ出すこともできないのではないか。
 藤子は顎に指を当てて、う〜ん、とわざとらしく悩んだあと、
「ずばり、この人の前でなら泣ける、って人」
「───」
 史緒はストローを口につけたまま硬直した。
 3秒後、微かに視線が泳ぐ。
「あっ! 思い当たる人がいるんだ?」
 鬼の首を取ったような藤子の台詞に史緒はグラスを置いて必死で否定した。
「ち、違う! ぜったい違う!」
「誰? 白状しなさい、誰?」
「違うったら!」
 椅子から腰を浮かせるほど動揺する史緒と、それを追いつめる藤子。
「あんた達、そういう会話は教室でやってくれない?」
 リテさんがカウンターの向こうから呆れたように言う。未成年が出入りしているとはいえ、ここは夜の店だ。うるさく騒いだら店の雰囲気を壊すことになる。なにより青臭い恋愛話を聞いているほうが恥ずかしいのかもしれない。
「はーい」
「ごめんなさい」
 藤子と史緒は行儀良く返事をして、大人しく椅子に座りなおした。
 隣りを見ると史緒は赤い顔をしてグラスを傾けている。とりあえず“その人”を意識させることに成功したのかもしれない。もしかするとこの先なにか進展が? 藤子はひとり笑いを噛みしめていた。


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