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≪2/13≫
02.12/19(日)22時
藤子は鼻歌を歌いながらマンションまでの道を歩いていた。
駅周辺は人通りもあったがひとつ奥に入ってしまえば静かな住宅街。この時間に通り過ぎる車も人影もなく、窓からの明かりだけが煌々と道を照らしていた。
(さむい〜。早くおフロ入りたーい)
もう12月も半ば。吐く息も白い、藤子はマフラーに顔を埋めて足を速めた。髪の先まで凍ってしまいそう。自然と肩をすくめた姿勢になってしまう。今日の白いコートはポケットがついていないので凍えた指先を服の中に入れることもできない。手袋はしない主義。藤子は仕方なく両手を繋ぎ合わせて指先を温めていた。
(おなかへった…。やっぱり、駅前のスーパーに寄ってくればよかったなぁ)
マンションの前にコンビニもあるが、寒さで真っ赤になった顔を店員に見られたくない。冷蔵庫に残っている食材を思い浮かべてどうにかなると踏んだ藤子はコンビニに寄ることを諦めた。マンションまではあと100メートルほどだった。
(───)
藤子は足を止めた。
軽く舌打ちをすると、丸めていた背筋を伸ばし息を整える。背後の気配に意識を集中させた。覚えのある、まとわりつくような空気に気分が悪くなった。
「ねぇ」
振り返らずに声を出すと、その声は夜道によく響いた。
「この時期にストーカーは寒くて大変ね」
闇から低い声が返る。
「仕事ですから」
藤子はここ数日、後をつけてくる気配に気付いていた。最初は真っ昼間の街中、反対側の歩道から手を振った人影の気配だった。そして今日、藤子は初めて相手の声を聞いた。
振り返ると黒いコートに黒い鞄を持ったサラリーマン風の男が立っている。藤子はその距離に驚いた。思っていたよりずっと近くに立っていた。
「それに、寒さで言ったらスカートを履いてる國枝さんには負けますよ」
さらりと藤子の名前を口にした。当然、調べてあるのだろう。暗いので顔は見えない。ただ人好きのする声と口調だった。
「寒さを我慢できずに冬のオシャレはできないの」
「女性は大変ですね」
「今日は早く帰っておフロ入りたいんだけどなー」
「手数はかけさせません。今日は挨拶だけです」
「挨拶? じゃあ、名乗ってくれるわけ?」
「通称は、“鈴木”といいます」
目の前の男を警戒する意識のうち、少しを記憶の検索に回す。同業の名前は調べているつもりだったが、その名は聞いたことがなかった。
「鈴木くんかぁ。本名だったら笑ってもいい?」
鈴木は笑ったようだ。
「裏稼業で本名を名乗ってるのはあなたくらいですよ」
「そっちも殺し屋なの?」
「そういう、型にはまった職種で呼び合うのは気色悪い馴れ合いだと思いませんか」
「便宜上の部類分けでしょ。そういう妙な差別意識持ってるほうが気色悪くない? 鈴木くん、友達いないでしょ?」
「國枝さんは友達いますよね」
ぴくりと藤子の眉が動く。「───聞きたいんだけど」
「どうぞ」
「鈴木くんはあたしを殺すの?」
「依頼内容はそういうことになってます」
「もうひとつ。これは復讐?」
藤子にとってこれは重要な質問だ。答えてくれる可能性は低いと思ったが、鈴木は頓着なく喋った。
「わたしはクライアントの動機に興味はありません。でも、そうですね。復讐、では無いようですよ。なんでも、國枝さんが持つ鬼籍に、名前を書かれてしまったとか」
「臆病な依頼主さんなんだ」
「そのとおりです」
ここは住宅街。面倒をしたくないなら、助けてと高く叫ぶだけで鈴木は去るだろう。けれど鈴木のストーカー状態が長引くのはもっと面倒だ。今後の対策のために追っ手の実力を見極めておかなければならない。
「復讐ではないわけか」
藤子は右足を一歩引いた。
「それなら───抵抗するよ」
音もなく、藤子は指先にナイフを閃かせた。鈴木は動かない。
次の瞬間、藤子は下段から襲いかかる。1秒足らずで鈴木の懐に入った。鈴木は一歩も動かない。藤子は鈴木の腹にまっすぐ刃を入れ───ようとして、寸止めした。鼻先に鈴木の胸がある距離でしばし停止する。鈴木も動かなかった。
くす、と藤子は笑って構えを解いた。
ナイフの柄(つか)で鈴木の腹を軽く叩くと、カン、と金属音がした。コートの上からなので鈍い音だった。
「防刃ベストでは無いみたいだけど」
至近距離の鈴木を見上げる。そのとき初めてはっきりと鈴木の顔を確認した。30代だろうか、髪を撫でつけてこざっぱりとしている風貌は普通の会社勤めのサラリーマンに見える。その顔が藤子を見下ろした。
「鉄板を入れてるだけです。こんな風に事前準備ができれば國枝さんの相手は容易いということです」
「舐められたものんだ」
藤子は軽く笑うとそのままの姿勢から鈴木の目に向けてナイフを突き出した。しかし鈴木は首を傾けるだけでそれを躱す。
(速い)
もう一度、藤子はナイフを切った。さっきより際どい角度に入ったそれを鈴木は地面を蹴って避ける。しかし藤子はそれを見越して左手を繰り出していた。
「…っ」
躱しきれない軌道に入っていたはずなのに鈴木は皮一枚で外れた。空を切った手首を鈴木の肘で打たれて右腕に痺れが走る。鈴木はそのまま身体をひねり藤子の頬に拳を入れた。藤子はアスファルトの上に転げたが、回転を利用してすぐに立ち上がった。
構えることはしない。それを見て鈴木も手を下ろした。
「…今のはやられるところでした。流石ですね」
「女の顔殴るなんてサイテー」
「失礼しました。次は気を付けます」
「ホントだよ。腫れちゃったらデートもできないじゃん。それから! 鈴木くんがあたしを仕留め損なったら、クリーニング代、請求するからね」
アスファルトの上で受け身を取って、白いコートは台無しになってしまった。
「そのときにわたしが生きているか謎ですが」
「いいよ。クリーニング代を払わせるために、生かしておいてあげる」
「それはどうも。次は、そうですね24日…金曜日の夜に来ます」
「なんで24日?」
「本業が商社勤めなので、週末じゃないと動けないんですよ」
「イヴの夜に仕事? クリスマスに一緒に過ごす家族も恋人もいないの?」
「國枝さんは恋人いますよね」
「いちいちムカつく言い方するなぁ!」
「すみません」
「ドタキャンしてもいい?」
「追いますよ」
「がんばって探してね」
藤子が科をつくって言うと、鈴木は背を向けて去っていった。
鈴木の気配が完全に消えた後も、藤子はその場に立ちつくしていた。
キン
「!」
夜の静寂に金属音。それは自分がナイフを落とした音だった。
(……っ)
すでにこの刃は身体の一部。
(落としたことなんて今までなかったのに)
鈴木の肘に打たれた手首が痺れていた。痛めたわけじゃない、一時的なものだ。しかし藤子は身体の異変に気付いた。手首の痺れが全身に伝わったように、背筋が震えていた。
寒いからじゃない。
(これは、とうとう来たかなぁ)
背中に汗を掻いていた。
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