キ/GM/41-50/44
≪3/20≫
16.12/25(土)09時
その日、篤志は朝からA.CO.の事務所に来ていた。かれこれ数十分、史緒のデスクに浅く寄っかかっている。事務所内には他に司と三佳もいたが、それぞれ口数は少ない。重苦しい空気が漂っていた。三佳は昨夜から寝ていないようで、司の腕にもたれてウトウトしている。部屋で休むよう声を掛けても聞かず、頑なに事務所に留まっていた。
来たよ、と司が呟いた。その台詞の主語は聞くまでもない。三佳ははっと体を起こし、篤志はゆっくりと腰を上げて、それぞれドアを見据えた。ドアが開くまでいくらもかからなかった。
「ただいまー」
気軽な様子で史緒が入ってきた。後ろ手でドアを閉めて、息を吐いて、顔を上げたところで、その足がぴたりと止まる。一拍遅れて事務所内の空気に気付いた史緒は困惑したように眉をひそめた。
「…どうしたの? みんな揃って」
本来なら仕事納めも過ぎて年末年始の休暇中。三佳はともかく篤志と司が何故ここに、と史緒は言いたいらしい。
早朝、篤志は三佳から電話を受けた。史緒が帰ってきていないという。聞けば、桐生院由眞から個人的に仕事を受けていたようで、帰ってこないからといって騒ぎ立ててよいものどうか悩んだようだ。結局、三佳は朝まで待って篤志に連絡した。篤志と司は半刻ほどで事務所に集まり、とりあえず10時まで待とうと話をしたところだった。
果たしてのんびり帰ってきた史緒は、状況が判らない様子でそれぞれの表情を伺っている。
まさか、同居人が心配するということに気付かないほどバカなのだろうか。篤志は真剣にそれを憂えた。こういう言い方は三佳は嫌がるだろうが、子供を預かっている自覚がない。というより、誰かと同居しているという自覚がない。やはり解っていない様子の史緒はとぼけたことを言った。
「もしかして、なにかあった?」
真剣な顔で心配してくる始末。史緒のこういう鈍感なところは本当に相変わらずだ。
「なにかあったのはそっちだろう。連絡も無しにどこに行ってたんだ」
あっ…と、史緒は表情を曇らせた。ばつが悪そうに上目遣いになる。
「桐生院さんのほうから仕事がきていて…」
「それは三佳から聞いた。連絡くらいできただろ?」
「昨晩が追い込みだったの。ごたごたしていて、連絡するの忘れてた。心配かけて、…ごめんなさい」
謝る対象は解っているようで、史緒は三佳に頭を下げた。三佳は、簡単には許さない、という態度でそっぽを向く。それを司が宥めているあいだに、篤志は史緒の報告を促した。
「的場さんたちと一緒だったのか?」
「ええ」
「仕事は? 終わったのか?」
「ええ」
「とりあえず、おつかれ」
そう言うと、史緒は目を細めて笑う。その表情に疲れが見えた。
「寝てないのか?」
「あんまり」
「じゃあ、今日はここまで。説教は起きてから」
史緒は小さく悲鳴をあげた。それから苦笑して、「うん、今日は休ませて。本当に、騒がせちゃってごめんなさい。ありがとう」
じゃあ、と背を向けた史緒を「──おい」篤志が呼び止めた。
ぴたり、と史緒の足が止まる。
「…なに?」
「この寒いのにコートも着ないで帰ってきたのか?」
史緒は薄手のセーターを着ているだけだった。この季節、外を出歩くには上着は必須だ。
「あー…、忘れてきちゃったみたい。タクシーで帰ってきたから気付かなかった」
あとで取りに行ってくる、と言って改めて踵を返す史緒を、今度は司が呼び止めた。「どこから、タクシーで帰ってきたの」
「桐生院さんのところよ? それが?」
「いや、なんでも」
そうしてようやく史緒は事務所を出て行った。
ぱたん、と軽い音を立ててドアが閉まった。
ふぅ、と三佳が深く溜息をつく。三佳は勝気な性格の反面、心配性でもある。史緒が無事帰ってきたことに安心したのだろう。しかしそれでもまだ、三佳は不審そうな視線をドアのほうへ向けていた。
「どうした?」
篤志が尋ねても、三佳はドアから視線を外さない。
「休めと言われて大人しく下がるのも珍しいな、と思って」
その隣りで、司は大きな動作で腕を組んだ。
「とりあえず、タクシーで帰ってきたっていうのは嘘」おもしろくなさそうに目元を歪めた。「徒歩だったよ」
司の耳を疑う理由は無い。とすると、史緒はなんのためにそんな嘘を吐いたのか。
「なにかおかしい。的場さんたちと一緒だったっていうのも、どうかな」
見え透いた嘘を吐かれて司は面白くないようだ。そんな嘘が司に通用するとは史緒も思ってないだろうに、すぐに見抜かれると分かっていても苦し紛れの言い訳。後ろめたいことでもあるのだろうか。
「…でもまぁ、本人は何事もなく帰ってきたわけだし」
と、言いながらも、三佳もどこか不安が残る表情。篤志は息を吐いて場をまとめた。
「夜にでも聞いてみるか」
それからしばらくして、A.CO.の電話が鳴った。
冬季休暇に入っているとはいえ仕事の電話かもしれない、腕を伸ばして篤志が取った。「はい、」とそこまでしか発言は許されず、
「篤志! 史緒はっ?」
容赦の無い怒鳴り声。篤志は言葉を失う。緊急性をはらんだ鋭い声は的場文隆のものだ。返事を2秒も待たなかった。
「おい、聞いてるのか? 史緒はどうした」
「さっき戻ってきました。今は休んでいますが」
「さっき?」
「30分くらい前です」
時間がもったいないと言わんばかりに急かされる。「確認してくれ」
「は?」
「史緒がおとなしく寝ているか確認してくれっ、早く!」
「しょ、少々お待ちください」
篤志は電話口を押さえて振り返る。「史緒が部屋にいるか見てきてくれ」三佳はうなずいてソファから立ち上がると小走りで部屋を出た。
「一体、どうしたんです? 仕事は終わったって聞きましたけど」
昨夜まで一緒に仕事をしていたのではないのか?
文隆は篤志の質問には答えず、意外なことを訊いてきた。その声にも緊張感が漂っていた。
「“國枝藤子”を知っているか?」
(國枝…?)
その名前は最近知ったばかりだ。「史緒の友達だと、紹介されています。的場さんも知り合いなんですか?」
しかしその質問も無視された。
「あいつについて、他になにか聞いてることは?」
あいつ、という呼称に違和感があった。好意的でない響きが感じられる。
他になにか聞いてること? そんな曖昧な訊かれ方では答えようがない。そもそも史緒の所在の確認と國枝藤子にどんな関係があるのか。
「いえ。…なにも」
そう答えると、電話の向こうで文隆は溜め息をつく。それから少し声が遠くなって話し声が聞こえてきた。どうやら文隆の背後に誰かいるらしい。御園真琴かもしれない。
もう一度、文隆の声が戻った。今度は少し抑えた声だった。
「今、そこに誰がいる?」
「司と…、それと三佳が史緒の様子を見に行ってます」
「では、三佳ちゃんがいないうちに言う。國枝藤子が死んだ。事件性が見られる。おそらく他殺だろう」
流れるような台詞回しに聞き逃してしまいそうだった。
ソファに座っていた司が飛び上がった。篤志も聞き返さずにはいられない。
「死…って、え? 國枝さんが?」
話を飲み込めないうちに文隆は先を続ける。
「110番通報があったのは今朝の8時31分。現場は代々木なのに、通報はJR浜松町駅北口の公衆電話からだ。警察は被害者の身元確認と現場検証、同時に通報者を捜している。この通報者はおそらく史緒だな」
「は? え…待ってください、どうして史緒が」
「史緒は桐生院の依頼で、行方不明の國枝藤子を捜していたんだ。そしておそらく見つけたんだろう、しかし手遅れだった。もしかしたら史緒は」
篤志は凍りついた。
───國枝藤子さん。私の…友達
そう、史緒から紹介されたのはつい先日のこと。史緒と同年代の、明るい少女。いつから付き合いがあるのか、どこで知り合ったのかは知らない。でも長い付き合いを感じさせたし、遊びに出掛けたりもして気心が知れてそうだった。
その國枝藤子が死んだ。
(まさか)
あまりにも自然に予測できる史緒の次の行動。
そのとき、三佳が駆け込んできた。
「篤志! 史緒がいない!!」
ほぼ同時に文隆が言う。
「もしかしたら史緒は、復讐を考えているのかもしれない」
「…っ」
その通りだ。史緒がおとなしくしているとは思えなかった。しかし。
「復讐…? それにしたって、どうやって」
「最悪な事態にならないことを祈るしかないだろう」
「…追います」
篤志は無意識で呟いていた。
「一度こっちに来ないか? 経緯を説明するから」
「はい。すぐに伺います」
腕を落とすように電話を下ろす。すぐには動き出せなかった。今、聞いたことを整理できないせいだ。顔を上げると、何事かと不安げな面持ちの三佳。篤志は三佳の目を見ながら、別の名前を呼んだ。
「司」
「わかった、早く行って」
耳の良い司には電話の内容はすべて伝わっているはずだ。
「任せた」
篤志は上着を取ると事務所を飛び出した。
≪3/20≫
キ/GM/41-50/44