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23.12/26(日)11時

 佐東孝三(33歳)の右頬には絆創膏が貼られている。
 その絆創膏は24日金曜日の朝からのもの。冷やかし訝しむ同僚たちに、佐東は「猫に引っ掻かれた」と答えていた。実際、そんなようなものだ。
 商社勤めの佐東は普段は土日が休日である。しかし、ふた月に一度、最後の日曜日は定期研修のために休日出勤をしなければならなかった。それは年末でも変わらない。クリスマスを一緒に過ごした恋人にぐちぐち言われながら(そのクリスマスも予定が一転二転して顰蹙を買ってしまった)、今日、佐東は出社していた。
 退屈な研修を無難にこなして喫煙室へ逃げ込んだ。あとはレポートを提出すれば帰れる。あと1時間で終わらせるには一服の休憩が必要だった。
「なんだ、その顔。女にひっぱたかれたか?」
 喫煙室には先客がいた。同じく休日出勤を強いられたとなりの部署の男だ。軽い挨拶のあと、佐東は笑って返した。
「幸い、相方はそんな凶暴ではありません」
 向かいに座って煙草に火を点ける。テーブルの上の灰皿にはすでに5本の吸い滓。目の前の男も相当ストレスを抱えているようだ。
「じゃあ、なんだよ。もしかして、そっちの課長サン?」
「まさかまさか。部下思いの課長はそんなことしません。──野良猫ですよ」
「猫? ひっかかれたの?」
「ええ」
「それはそれでマヌケだなぁ」
「不覚でした」
(本当に)
 1本目を半分も吸ってないうちに、首から提げているPHSが鳴った。それは課内からの呼び出しを意味している。休憩を邪魔された佐東は芝居がかった調子で口元を歪ませた。男は冷やかすように笑う。
「お忙しいようで」
「そのようで…。──はい、佐東です」
 電話に出ると、同じ課の新人の声が返った。
「白井っス。受付から佐東さんに内線入ってますよ」
 回してください、と言うと回線が切り替わる音。「お待たせしました。C3-D12の佐東です」
「受付(レセプション)です。佐東さんに面会です。ロビーでお客様がお待ちです」
「どなたですか?」
「名刺はいただけませんでした。鈴木様という女性の方です」
(──スズキ?)
 佐東はその名に覚えがあった。とてもよく知っている。けれどそれは、他人の名前じゃない。
 しかし、よくある名前であることも確かだ。取引先にも数人いる。だが、その取引先は日曜(きょう)は休日だし、そもそも面識があるのはすべて男性である。
 佐東が答えないでいると、電話の向こうが続けて言った。
「アポは無いので時間が空くまで待つ、と仰られていますが」
(誰だ?)
 時々、機器メーカーの営業がアポ無しで訪れることもあるが、日曜に来ることはまずない。そのほかに思い当たる節もない。
 佐東は訝りながらも、すぐに行く旨を伝え、電話を切った。

 受付の女性社員に案内されて、佐東は鈴木なる来訪者を見つけた。
 パンツスーツの女性だった。髪を高い位置でまとめ、首にはオレンジ色のスカーフ。テーブルの上のカップには手を付けた形跡がない。眼鏡を掛けていて顔はよく見えない、しかしずいぶんと若そうだ。やはり心当たりはなかった。
 ロビーの片隅のテーブルへ、佐東は慎重に近づいた。
「佐東です」
 声をかけると女性──鈴木はやけにゆっくりと顔を上げた。佐東の顔を3秒かけて確認するとその表情が歪む。けれどそれも一瞬、鈴木は営業スマイルを向け、立ち上がった。
「こんにちは。お忙しいところお邪魔して申し訳ありません。おかげで確定しました」
「なにがですか?」
「失礼ですけど右頬の…、切創ですね」
「あぁ、ええ、野良猫にひっかかれまして」
 ここ数日、何度言ったか知れない言い訳をすると、鈴木は薄く微笑った。
「私は、その猫の友人です」
 そして目だけ笑うのをやめた。
「野良猫に首輪をかけたのは、あなたですね」
「───」
 佐東の背後を他の社員が通り過ぎた。そういう場所だと考慮しての隠喩。この会話は一言間違えば危険だ。
「新宿駅西口の街路樹に、猫の爪が刺さっていました。ちょうど、佐東さんの頭の高さに」
「──あなたは誰ですか」
「さっき言いました。野良猫の友人だと」
 “鈴木”は眼鏡を外して佐東を見据えた。
「はじめまして。阿達史緒です」


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