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29.12/27(月)19時

 1ヶ月前───
「國枝藤子さん、ですか。あまり気乗りしませんね」
 薄暗いバーのふたつ隣りの椅子に座る始末屋は言った。ふざけるな、と北実は小さく舌打ちする。
「貴様で6人目だ、この仕事を頼むのはな。前の5人はターゲットの名前を聞くなり逃げた。こっちだって急いでるんだ、これ以上、苛つかせないでくれ」
「まぁ、落ち着いてください。やらないとは言ってません。───ただ、忠告させていただけませんか」
「忠告?」
「國枝藤子さんに手を出したらしっぺ返しを喰らいますよ。これは業界内では有名な話です」
「殺し屋を殺した復讐に遭うってか? …はん、そんなヤツが本当に来るというなら、またあんたみたいのを雇ってやるさ。殺し屋の動向を掴めた俺のネットワークをなめるな」
「はぁ、そうですか」と、始末屋はにべもない。「表の人間の動向のほうが、かえって掴みにくいこともありますがね」
「どういう意味だ」
「いえ、なにも」
 これ以上の情報提供は報酬外。國枝藤子の復讐に訪れるのは表の一般人ですよ───このとき、始末屋・鈴木はそれを口にしなかった。

 今日、自分を狙っていた殺し屋の終熄を聞いて北実は浮かれていた。もちろん顔には出さないが、ここ数ヶ月、心労の原因だった問題が片づいたのだ。その知らせに体が軽くなったようだった。年内の仕事も明日で終わる。気持ちよく年を迎えられそうだった。
 昼間に新聞社から連絡を受けた。過去の特集記事に興味を持ったフリーのジャーナリストが北実を取材したいのだという。とくに他に約束もない、気分がよかった北実はジャーナリストの所属と取材の趣旨を確認しただけで了承を出した。来るのは若い女だというので、ちょっと楽しみだった。
「お待たせしました。北実です」
 客人を待たせておいた部屋に入ると、窓際に立っていたパンツスーツの女が振り返った。
 少しのあと、「ふふ」と女が笑う。
「…なにか?」
 あまりよい笑い方ではなかった。名乗りもしない女に不快感を覚えた。すると女は「失礼」と笑みを収める。そして北実に大胆に歩み寄った。数歩の位置まで近寄る。目線は少し下。女は言った。
「私が國枝藤子だったら、北実さんはもう刺されてますね」
 妙にはっきりした、よく響く声だった。國枝藤子、という名前がなんだったか思い出すより先に、さらに女が言う。
「だって、誰かがあなたを殺すよう、國枝に依頼したのは事実ですもの。無事でいられてよかったですね」
「な…っ!」 (殺し屋の名前だ)「なんだ、貴様は!」
「失礼。名乗ってませんでした。───阿達史緒といいます」
 名前など、今は関係ない。ここで本名を名乗る馬鹿がいるものか。
「貴様はだれだっ」
「殺し屋の友人です」
「ななな…なにしに来た!?」
 女は笑った。
「復讐です」



 史緒が胸元からナイフを取り出すと、「ぎゃっ」と北実が喉を鳴らした。腰が引けて後ずさりするが、史緒は自分の立ち位置を計算している。扉に背を向けて北実が逃げ出せないようにする。それから史緒は、この部屋の電話のジャックを抜いて、詰め物をしておいた。当然、この部屋にカメラ等が無いかも確認している。助けを呼ぶことはできない。
「ひぃ…っ」
 ナイフを見て、悲鳴をあげる。「待て…、待て待て! やめろっ!」
 慌てふためき冷静さを失っている。史緒はそれを利用する。北実が落ち着きを取り戻し、力業で抵抗されたら敵わない。
 史緒はソファの上からクッションを取り、それを切り裂いた。羽毛だったらしく、羽根が飛び散り、ゆっくりと床の上に降る。北実は悲鳴をあげた。
 北実を壁際に追い詰めて言った。
「私があなたを刺してはいけない理由があったら言ってください」
「ば…馬鹿かっ! 犯罪だ! 痛いだろうがっ、こんなことしてただで済むと思ってるのかっ」
「忘れてないとは思いたいですが、あなた自身、始末屋を使って人を殺させました。それも犯罪ではないですか」
「それは…っ。あ、あいつは人殺しだ!」
「だから。あなたも同じでしょう?」
「あいつは…殺し屋は、俺を殺そうと狙っていた! …そうだ、これは正当防衛だっ! あいつを殺(や)らなければ俺が殺されてたんだぞっ!? それが解っていながら、なにもするなと言うのか? 殺されるのを黙って待っていろというのかっ!?」
「───」
 どちらが悪い? と訊いたら、ほとんどの人間が藤子を指す。おまえこそなにをしているのかと、史緒を責めるに違いない。
 藤子は人殺しだ。それは悪とされる。人々が共存していくためのルールに反している。己の意志で、故意で、殺しを生業とする藤子の存在を社会は許さないだろう。───だから殺されてもいいの?
 藤子は自分が社会に受け入れられないことをちゃんと解っていた。非難され、糾弾され、誰かに殺されるだろう未来も受け入れ、覚悟していた。
(でも───…)
 史緒のこの復讐に正当性はない。それは解ってる。藤子は悪だった。最低の職業だろう。でも。
 あの笑顔も、言葉も、ずっと遠くを見る瞳の色を。なんでもないような街並みを眺める横顔、恋人について語るときの声、一緒にいて安らぐ雰囲気を。
 それらを失くしてもいいなんて、誰も言わないで。それは必要無いものだなんて言わないで。
(私の悲しみを否定しないで)
(この気持ちを無駄だと言わないで)
 殺されて構わない人間なんていない。いなくなって、誰も悲しまない人間なんていない。誰に責められようとも、史緒は。
(それでも私は、藤子のこと───)
 一度も言えなかったけれど。
「殺し屋を殺したのは私じゃない、始末屋だっ」
「…っ」
 史緒は知らず、ナイフを構え直していた。
「くだらない」
 と低く呟く。
「本当にくだらない…ッ。あなたみたいな人間に藤子は殺されたっ! あなたみたいな、なんの覚悟もない人間に!」

    幸せになってね
「───…ッ!」
 背筋を一気になにかが駆け上った。そのなにかに身体を操られるようにナイフを振り上げる。「ウワァッァァア!!」北実は悲鳴をあげた。逆手に握った銀色の刀身を史緒は渾身の力で───振り下ろした。





 鈍い音がした。

 北実がわずかによろめいた。
 ナイフは史緒の背後に落ちた。
「……ぅ」
 北実は状況が掴めない。極度の緊張から抜け出した体が、痙攣のような足の震えに耐えきれず、膝を折り、その場にへたりこむ。「かは…っ」呼吸すらままならなくて咽せた。そしてようやく痛みを感じたのか、左頬に手を添え、すぐに手のひらを見る。出血はなかった。
「───?」
 刺されてはいない。ほっとしたのもつかの間、頭上から呼吸が聞こえ、北実は振り仰いだ。
 そこには、歯を食いしばり、大きく肩を揺らし、なにも持たない右手を握りしめる史緒が立っていた。

 史緒は素手の拳で北実の頬を殴った。北実の頬は赤くなっただけだ。
 背後にナイフを捨てた。振り下ろした拳にナイフは握られていなかった。
 それなのに、まるで史緒のほうが刺されたように、苦しそうに胸を押さえている。
「ハ…ッ、ぁ」
 史緒は口を開け、肩で息を繰り返した。溺れたときのように体が酸素を欲しがっている。肺が、胸が痛い。苦しくて、そのまま心臓が止まってしまうかと思った。一瞬だけ本気で、死んだらあの友達に会えるかも、と思った。
(…馬鹿だ)
(あの子がいなくても、生きていかなきゃいけない)
(あなたがいない世界でも、私は───)
「───」
 両眼を固く閉じ、ナイフを持たない右手を握りしめる。
 その拳を額まで持ち上げ、深呼吸。
 史緒は顔をあげた。
「一千万円、出せますか?」
 落ち着き払った史緒の声が小さく響いた。
 床にへたったままの北実は眉をひそめて史緒を見上げた。なにを言われたか判らないという様にいくつか表情が動く。
「…なんだって?」
 史緒はそんな北実を見下ろしたまま淡々と言葉を継いだ。
「難しいことは訊いてません。今すぐ一千万出せるのか出せないのか訊いているんです」
「はっ…」北実は大きく笑った。いくぶん調子を取り戻した様子で、余裕のある表情で史緒を睨め付けた。「金で片づけようって魂胆かぁ?」
 史緒は深く頷く。
「そうです。私への口止め料です。あなたの社会的地位を守るためなら安いものでしょう? それとも、あなたから始末屋に渡った資金の証拠と一緒に警察に行ったほうがいいですか。…あぁ、警察じゃどうにもできませんね、じゃあ、庫勝建設にリークすることにします。会社はあなたを守るでしょうけど、人の口に戸は立てられません。末端の人間ほどなおさらに」
 北実は勢いを付けて立ち上がり、ついでに机を叩いた。
「脅迫する気かっ!」
「脅迫罪で訴えてくれても構いませんよ。こちらも出せるだけの証拠は揃えていきますから」
「……ッ」
 北実は顔を大きくひきつらせて史緒を見上げた。史緒はそれを冷静に観察する。さらに史緒は、ゆっくりした動作で落ちたナイフを拾った。それを見せつけるように北実に向き直る。「私は、どちらでも構いません」
「く…っ」
 北実は歯を噛んで顔を歪ませた。この時点で、どちらが優勢かは明かだった。緊張した空気が2人の間を走る。しかし、
「すみません」
 と、一転、史緒はくだけた笑いをする。
「これじゃあ、あなたに条件が悪すぎますね。金額も高すぎますし。───だから、その一千万は非課税になるよう、手を回します。それなら、あなたにとっても大した損失ではないでしょう?」
 緊張を解かれ、北実は息を吐く。史緒の台詞を反芻しているのか、視線が短く泳いだ。
「…どう、手を回すんだ」
「それはこちらに任せてください、としか言えません」
「払うとしたら…。おい、まだ払うとは言ってないぞ! 払うとしたら、だ! キャッシュで今すぐは無理だ。振込も記録が残るのは厄介だぞ」
 史緒は軽く頷く。
「そうですね。それはこちらも都合が悪いです」少し考える素振りを見せて「手形ではどうですか? できれば小切手にしてくれます?」
 それなら記録の細工はどうにでもなります、と笑った。「当然ですが不渡りは出さないでくださいね」とも。
「領収書は換金後に送付します」
「おい、待て。どうやって信用しろと?」
 北実が声を荒げると、史緒は困ったような顔をした。
「非課税にするための細工に少し時間をください。送付する領収書は確定申告でも充分通用する代物です。それにもし私が北実さんとの取引を違えても、こちらの身元は明かしているのだから、いくらでも処罰のしようがあるでしょう。警察は動かせなくても、他に役に立つ請負屋を、あなたは知ってるはずです」
「しかし」
「少しは信用してくださってもいいのでは? もう二度と顔を合わせないでしょうけど、私も賄賂をもらったんだから、あなたに失脚されたら困ります」
 北実は目を丸くして、次に肩を震わせた。
「ふは…はははは、そうだな」
 北実はいやらしく笑う。それは2人だけの部屋に染みつくように響いた。
 史緒は微かに目元を歪ませたのだが、北実はそれに気付かなかったようだ。
「あんた、大物になるよ」
「それはどうも」
 そんな皮肉を巧くかわせないほど、史緒は酷く疲れていた。
 この場の嫌悪感に泣きたくなっているのは、心身ともに疲労の限界だからだろう。
 それでも北実の不愉快な笑い声を、史緒は目を逸らさずに聞いていた。
 まるで、己への罰を甘んずるように。


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