キ/GM/41-50/45
≪2/10≫
1.
1−1
史緒は夢から引き剥がされた。
「───ッ!」
内臓を置いてきてしまったような喪失感があって、ゆるやかな痺れが四肢に残っていた。手の握りさえだるい。ふっ、と地面が無くなったような浮遊感に、藻掻くようにしがみつく。史緒が両腕で抱きしめたものは枕だった。体は、ちゃんとベッドの上にあった。
───今のはなに?
脳裏にまだ残る鮮やかな光景。目の前の暗闇と比べて愕然とするほどの違和感。
(どうして暗いの? どうして寒いの?)(今は夜、季節は冬)(温かい日差しはない。桜も咲いてない)
(名前を呼ばれた)(誰に?)
(亨くんは? 櫻くんは?)(いない)
(わかってる)(本当に?)
(あの双子はもういない)
忘れていた呼吸をようやく思い出して、喉が奇妙な音を立てた。
「大丈夫か?」
「!」
暗闇から声が掛かって、一気に現実感が戻る。
ここは自分の部屋だ。聞き慣れた時計の音。その響き方。毛布の肌触り。空気の冷たさ。
夢を見ていた。
落ち着いてみれば大して暗くもない。ドアが開いて、廊下の照明が室内に差し込んでいる。
警戒心は生まれなかった。ドアを開ける人物は一人しかいない。
目線を少し上げれば、彼らと同じ年代の女の子が心配そうに覗き込んでいた。(───違う)
(あれから10年も経ってる)
目の前の女の子の名前を思い出して、史緒はそれを確認した。
「三佳」
「魘(うな)されてたぞ」
「…そう?」
心臓の音が大きい。全身に汗を掻いて、ベッドの中が蒸れていた。
(夢を見ていた)(何年ぶりだろう)
幼い頃、何度も、繰り返し見た夢だ。
(夢だ)(怖い夢)(どうして今になって?)
「史緒?」
「…うん?」
「どうした、いつもと逆だな」
三佳が静かに笑いかける。安心させようという気遣いが見えて、史緒も笑顔を返す。でもうまくいかなかった。失敗したみっともない表情を、両手で覆い隠した。
(夢じゃない───)
(だめ)(掘り起こさないで)
(だめだ)(もうごまかせない)
「史緒?」
なんでもない、そう言わなきゃ。
(もう忘れた振りはできない)
「───おもい、だしちゃった…」
朝食の支度を一段落させて三佳は一息吐いた。
ちょうど、朝のニュース番組が時報を告げる。午前7時。
(あいつ、起きてくるかな)
朝食が並ぶテーブルを三佳は心配そうに眺めた。せっかく作った食事が無駄にならなければいいけど。
昨夜、史緒は魘(うな)されていた。史緒と同居し始めて2年半、はじめてのこと。
(そのあとも様子がおかしかったし…)
年末───先週のことだが───史緒の友人が亡くなった。三佳の前では平静を装っていたけど、史緒は年明けまで目を腫らしていた。ようやくそれも収まりつつあって、落ち着きを取り戻したように見えていた、少しは立ち直れたかと思っていたのに。
同じく年末に痛めたという史緒の右手と右肩は、まだ包帯が取れない。心配要素が次々と増えていくことに、三佳は心労を覚えずにはいられなかった。
「おはよう」
史緒がリビングに入ってきた。三佳は挨拶を返して立ち上がり、ケトルに火を点けに行く。
「あのあと、眠れたか?」
「うん、すぐ寝たよ。夜中に起こしちゃって、ごめんなさい」
その科白の真偽を確かめる為に、三佳は史緒の顔を覗き込む。なに? と、史緒は口端を持ち上げて応えた。不自然に笑ってもいないし、顔色も悪くない。額面通りに受け取るわけにはいかないが、心配するほどでもないか、と三佳は息を吐いた。
いつものように、2人、席に着いて軽く手を合わせる。テレビでニュース番組を流しながら、その日のお互いのスケジュールを確認し合うのが朝食の席での日課だった。
2人が同居し始めて2年半。家事全般は三佳の担当である。史緒は「そんなことしなくてもいいのに」と言うが、居候の身分ではこの程度の労働は当然。しかしそれだけが理由じゃない。三佳は声を大にして言いたい。史緒は家事能力ゼロだ。放っておけばなにも、とくに食事に関しては、最悪の場合食べることさえ忘れる。だから三佳のこれは恩返しではなく使命感。この、手のかかる同居人を真っ当に生活させていくことが、三佳の日常のなかで最も重要な仕事だった。
「史緒、行儀悪い」
手を合わせて箸を持ったものの、さきほどから史緒はごはんを口に持っていけてない。どこかぼーっとして、箸でおかずをつついているだけだった。
三佳の呼び掛けに史緒ははっとした様子を見せて、縮こまったあと、茶碗と箸をテーブルに置いた。
「ごめんなさい。…ちょっと、食欲なくて」
と、視線を落とす。
「体調、悪いのか?」
「ううん、そうじゃないけど」
「残していいから、少しでも食っとけ。自己の健康管理ができないほど子供でもないだろ」
「うん」
しかし結局、史緒はその日、コーヒー以外を口に付けなかった。
翌日。
朝食の後かたづけを済ませた三佳は、休む間もなく出掛ける支度を始めた。
「今日から仕事だから、バイト行くけど」
「はーい、行ってらっしゃい。あ、峰倉さんにお年始持って行って」史緒はソファに座って新聞を読んでいた。「それから、私もあとで挨拶に伺うからって伝えて」
「了解。他の挨拶回りはどうする? いつもなら、桐生院さんと、親父さんのところだな」
「桐生院さんのところは、今年は仕事始めの挨拶だけでいいわ。真琴くんたちと一緒に行ってくる。……父さんのほうは、毎年のことながら気が重いわね」
史緒がわざとらしく額を抑えるので三佳は笑って返した。
「毎年のことなんだから観念したらどうだ。あちらも忙しい中、時間を割いてくれてるんだろ」
「三佳も一緒に行く? 父さんに気に入られてるみたいだし」
「親子の化かし合いに付き合いたくない」
史緒は肩をすくめて見せた後、新聞に目を戻した。こんな風におどけて言い合っても、実際の場はとてもじゃないが冗談を言える空気ではないだろう。もちろん、三佳は同席などしたくはない。それでも相手は史緒の実の父親で、新年の挨拶も毎年のことだ。がんばってこい、としか三佳には言いようがなかった。
「史緒のほうの今日の予定は?」
「デスクワーク。年末サボっちゃったから。ほんと、溜まってるのよ」
「一応、言っておくけど、ちゃんと食べろよ?」
史緒は苦笑して頷いた。
───その苦笑いがとても自然なものに見えて、リビングを出た後、三佳はとても嫌なものを見たように顔を歪ませた。
あえて口にしなかったけれど、史緒の様子がおかしいのは明白だった。
一晩明けてみれば目の下にクマ。顔色も良くない。そんな様子でいつもと同じような態度だから、心配を通り越して滑稽でさえある。それだけでなく、史緒は昨日からほとんど食べてない。
(國枝さんのこと? でもおとといまで、食事は摂っていたし)
篤志に任せようとも思ったが、今は実家へ帰っている。連絡したらすぐに来るだろうが、そんなことをすれば史緒は却って意固地になるだろう。
三佳は電車に揺られながら考えた。
史緒には弱音を吐ける相手がいるのだろうかと。同じ質問をされると三佳も困るが、でも三佳にとっては司や史緒、峰倉だって良い相談相手だ。では、史緒にとっては?
(もしかして國枝さんが、そういう相手だったのかな)
どうも阿達史緒という人間は、A.CO.のトップである体面が先に立ち、仲間にもなかなか本音を見せないところがある。確かに、トップが不安になればみんなが不安になる。その気遣いは理解できる。けれど一人で全部抱えられては周囲は逆に心配になる、そのことに史緒は気付かないのだろうか。
三佳がバイトから帰ってきたとき、用意しておいた食事はなくなっていた。
(ちゃんと食べたのか)
と、一安心。念の為キッチンのゴミも確認する。捨てたわけではなさそうだった。
史緒が部屋から出てきた。
「おかえりなさい」
「ああ」
「私、夕飯いらない」
「史緒」
「ほんとに食べられないから」
そう言って、逃げるように戻って行った。
(───…。まさか昼も)
思っていた以上に深刻かもしれない。
寒さに目が覚めた。なにか飲もうとキッチンへ向かった三佳は、驚きで眠気が吹っ飛んだ。リビングに明かりが点いていたからだ。
(史緒…?)
強盗でなければ、同居人が消し忘れたか同居人が起きているかだ。足音を忍ばせてリビングを覗くと、やはりいた。三佳の位置からはソファの背しか見えない。けれどそのソファの肘掛から長い髪がこぼれている。
「史緒」
名前を呼ぶと短い悲鳴をあげて史緒は飛び起きた。派手に飛び起きたのでその際、毛布が床に落ちた。
「びっくりしたぁ」
「こっちの科白だ。何でこんなところで寝てるんだ」
「あ、うん。こっちのほうが暖かいかな、と」
「どう考えても、史緒の部屋のほうが暖かいと思うぞ」
「そうみたい。三佳も寒くて目が覚めた? お茶いれようか?」
そう言ってそそくさとキッチンへ向かう。
「史緒」
「んー?」
「國枝さんのこと?」
ぴたりと足が止まった。不自然な沈黙の後、その背が小さく答える。
「……半々かな」
「他に、なにか?」
「ううん。年末のことは片づいたし、うちの仕事にも問題は無いし」
「じゃあ」
「個人的なことなの。それを、無駄にいろいろ考えてるだけ。鬱陶しいかもしれないけど、しばらく放っておいて」
「…篤志か誰か、呼ぼうか?」
「どうして?」
我慢できなくなって三佳は声を荒げた。
「飯もまともに食えなくなって何日経ったと思う? それだけのあいだ無駄に考えてるだけでどうにもならないなら、大人しく他人を頼ればいいじゃないか」
三佳の声が強く響いた後、史緒の反応は遅れて返ってきた。
「…ええと。違うの、そういうのじゃない。ほんとに、無駄なの」
「は?」
「なにかが解決できるわけじゃないの。…ううん、問題ですらない」
「…」
「考えた末になにかが変わるわけじゃないし、なにかを得られるわけでもないから」
振り返った史緒は、やはり笑っていた。
「───大丈夫よ、三佳。心配かけてごめんね」
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