キ/GM/41-50/45
≪3/10≫
1−2
どこか冷えた空気。肩を抱く根付くような寒冷。
壁に背をつけて、ベッドの上で膝を抱える。
闇は目が利かない。その代わり耳を澄ますと、遠くから車の音が聞こえた。その響き方で、今が夜だと判る。
その空気は懐かしかった。
実家にいた頃、七瀬くんが隣りに住み始めた頃、よくこうしていた。
あの頃と同じ。
眠ってしまうのが怖い。夢を見るのが怖いから。
なにかに脅迫されているような圧迫感。まるで見張られているような緊張感がある。
この感覚を長い間忘れていた。
あの頃と違って胸元が心許ないのはネコがいないからだ。
(一人で眠れないなんて、もう子供じゃないのに)
その記憶を意識すればするほど、忘れさせないのは自分自身だ。馬鹿みたいな堂々巡り。
───どうして思い出した?
春の日。桜の下の幻影。あの日の風の匂いや、温度や、空の色まで克明に憶えている。
≪怖いのはそのままでいいから。早く忘れたいの≫
忘れたいと願った春の日の記憶は、あのときに忘れたはずだった。
冬の日。櫻が墜ちた日に。
どうして、いまさら思い出したの?
(…藤子だ)
屋上の風の中で藤子を見たからだ。倒れているのを見たから。
あの春の日と同じように、死を目の当たりにしたから。
藤子を失ったから。
「……っ」
重いものが胸から込み上げる。鼻の奥が冷たくなって、あっという間に涙が溢れた。
夜は弱くなる。だから早く眠ってしまいたいのに。
三佳が心配している。
来週には他のみんなも帰ってくる。早く元の自分に戻らなきゃいけない。それなのに体はちっとも思い通りにならなかった。
(この記憶は、もう何の意味もないのよ?)
櫻も亨もいない。怯える対象はもうない。
それなのに、記憶は今もなお史緒を見張り続けている。息が詰まるような胸の軋みを伴って。
(どうして笑うの? 櫻)
(どうして亨くんを)
見てしまった。
同じ顔が倒れ、嘲笑うのを。血に染まるのを。
「…っ」ぞわりと寒気が駆け抜けて思わず叫びそうになる。唇を噛んで声を抑えると今度は涙が滲む。
(いつまでこんなものを気にし続けるの?)
(もうあの頃の私じゃないのに)
「た……」
(───!?)
史緒は暗闇で目を見開いた。
搾り出すように息に乗せた声。なにを言おうとしたのか。
(…あぁ)
愕然とすると同時に胸が温かくなった。震える唇から、どうしてか笑いが込み上げる。自嘲ではない。自棄になってもいない。懐かしさと、それから。
(あぁ、私はまだ、こんなにも弱いんだ)
できることなら認めたくない。でもまだそれを吐いてしまうのは明らかに自分の弱さだった。受け入れなきゃいけないという諦観があった。認めるしかない。
自分の弱さを自分が認めたら、少しだけ楽になった。
幼いころ。
叫び続けていた言葉がある。
胸が軋んだとき、恐怖に抱かれたとき、息ができなくなったとき。
「 」
何度も、何度も。耳を塞ぎながら、胸を掴みながら、髪をかきむしりながら、まるで祈るように、願うように。
叫んだ。
まるでこの身体にしがみつくように。
叫ばずにはいられなかった。
「 て」
一度も、声にしたことはないけれど。
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