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2.
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一条和成が病院に駆けつけたとき、病室前の廊下に関谷篤志はいた。
上着も脱がず椅子に腰掛けている。他に人影は無く、消毒液の匂いが染みついた冷えた廊下に、硬い影が映る。篤志はまるで床を睨むように視線を落としていた。
和成の足音で顔を上げる。けれど一瞥しただけで、どうでもいいというようにすぐに視線外した。挨拶もなかった。
静寂な空気に声を出すのも憚られて、和成は篤志のそばまで近づいた後、抑えた声で訊いた。
「酷いんですか?」
「寝不足とエネルギー不足。大したことはない」篤志は横顔を向けたまま答えた。「三佳が言うには、このところほとんど食べてなかったらしい。原因があれば相応の結果は出る」
篤志は大抵、和成にいい顔をしないが、このときはいつも以上につっけんどんな態度だった。
「…三佳さんが、ずいぶん動揺しているようですね」
ロビーで今にも泣き出しそうな顔をしているのを見た。隣で宥(なだ)めていた司が、和成に病室を教えてくれた。
「あいつは史緒の面倒見るのに使命感を持ってるから。責任を感じているんだろう」
篤志は椅子から立ち上がって裾を払う。「医者が言うには意識は戻ってるらしい。あとは頼みます」
そう言って、和成の横を通り過ぎた。
頼みます、という科白に耳を疑った。篤志にとっては不本意なはずだ。既に手を引いたはずの和成に、史緒のことを頼むなどということは。
篤志は最後まで和成と目を合わせなかった。しかし。
「首の火傷」
「───!」
首根を掴まれたように和成は振り返る。すると、篤志が鋭い眼光でこちらを睨みつけていた。そして重そうに口を開く。
「櫻か?」
どうりでいつもよりさらに当りが厳しいわけだ、と和成は冷静に思う。
「…ええ」
「その頃は、あんたがいたはずだな」
「ええ」
言うが早いか篤志の拳が飛んできた。避けるつもりはなかったが避ける暇もなかった。頬を殴られて2歩ほど後退する。2歩で済んだのは、篤志が殴りかかってくることを予測していたからだ。
篤志が史緒の火傷を見たら自分を殴りにくるだろうと、和成は判っていた。
「…いてて。顔はやめて欲しかったな、社長に叱られる」
「手加減はした」
「お気遣いどうも」
篤志の声には明らかな怒りと苛立ちが込められている。
「何のためにあんたが残されたのか、解ってなかったのか?」
「勿論、解ってました。あれは私の責任です」
「解ってるなら、行動で示せ。取りきれない責任だってあるんだ」
そう言い捨てて踵を返す足音を、和成はじっと聴いていた。
───解っているつもりだった。
“彼女”のイタズラに巻き込まれ、役割を与えられ、それを引き受けた。もう10年以上前のこと。
≪次に史緒を守ってくれる人が現れるから、それまでは、お願い≫
それはいずれ出会うだろう史緒の恋人を指しているのかと思った。しかし違う。
≪だって約束だもの≫
彼女が意図的に残したのだ。次に史緒を守る誰かを。
いつ現れるのか。それが誰なのか。彼女は言い残さなかった。
それから数年。本当にそんな人物が現れるのかと疑い始めていた頃。
≪あんたはもう手を引いていい≫
奇しくも彼女の葬儀の日に、彼は現れた。彼の立場を観察するのに時間を要したが間違いない。
彼女が残したもの。それが現れた。そして史緒を守ることから手を引けと言う。
それなら自分は、彼女が残した者に託して手を引こう。
外から彼女のイタズラを見届けよう。
すべての問題を、彼女が彼に託したというのなら。
≪でも、櫻がいるもの!!≫
史緒が櫻に怯える理由。
≪あの子は可哀そう≫
≪櫻をあんな風にしたのはあたしのせいだから≫
彼女の、櫻に対する負い目。
(…櫻)(そうだ、櫻だ)
史緒を守ることは付随に過ぎない。
彼女は───咲子は、櫻を救おうとした。そのために、彼を残した。
彼を。
和成は勘違いしていた。後から現れた彼も、和成と同じ、阿達兄妹と関係の無い第三者だと思っていた。咲子がその人懐っこさで、やはりどこかで知り合った他人に託したのだと思っていた。
(違う。彼は知っている)
彼は知っていた。初対面であるはずの史緒を。なにより櫻を。
「───待ってください」
彼の正体など、推測はできている。それはあり得ないことだと否定しても、何度も同じ結論にたどり着く。無理に暴く必要はない、彼は咲子が残した者だ。役割を終えた和成に許されるのは傍観のみ。…けれど。
「あなたは、誰ですか」
かつり、と篤志の足が止まった。
振り返らない。冷たい廊下がそのまま凍り付いたように空気が緊張した。
「…知ってるんじゃないのか?」
篤志の背中が問い返す。
「確認させてください」
一字一字区切るように答えると、篤志はやっと振り返った。
その表情は不敵に笑っている。
それはイタズラをする子供のような、憂いの無い清々しい笑い方だった。
「俺は関谷篤志だよ。嘘じゃないのは、知ってるだろう?」
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