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≪6/10≫
2−2
史緒は壁に向かって丸くなって寝ていた。
(膝を抱えて眠る癖、直ってないな)
と、和成は苦笑する。面倒を見ていた子供の頃と変わっていない癖に懐かしさを覚えた。
見ると、左腕にはまだ点滴が刺さっている。こんなときくらい、姿勢を正せないものだろうか。さらに、右手と右肩には包帯が巻かれていた。これは篤志からは聞いてない、まだ何かあったというのだろうか。
そして水色の病院服からは首が覗いていた。なるほど、篤志はこれを見たのだろう。今日、初めて。
手近なところに椅子がなかったので、和成は史緒が眠るベッドの端に腰を下ろした。覗き込むと微かな寝息が聞こえる。史緒の寝顔を見るのは久しぶりのことだった。最後に見たのは2年以上前。黒猫が死んだ日、史緒を自分のマンションに泊めたことがあった。あの後、史緒はすぐに実家を出て、会う回数も減り、お互いの付き合い方も変わった。だからこんな無防備な顔を見るのは本当に久しぶりだ。
長い黒髪が白いシーツの上に散っている。袖からは白い腕が伸びる。細く折れそうな腕だがしなやかで女性らしい肉付きだった。
もう、和成が面倒を見ていた頃の幼い少女じゃない。その成長には感動さえ覚える。イタズラ屋の彼女は、この姿をどんなに見たがっただろう。それを思うと胸が痛んだ。同時に、自分はその成長を見ることができた幸運に感謝する。史緒と引き合わせてくれた彼女に。
「…どうしてあなたが来るの?」
ベッドの中から声が聞こえた。どうやら起きていたらしい。調子に乗って髪を撫でなくてよかった、と和成は冷や汗を掻いた。
「あ、すごい。どうして判りました?」
「あのね」史緒は不機嫌そうな様子で上体を起こす。「三佳だって、私が寝てるベッドに腰掛けたりしな───」
唇の動きが止まった。史緒は目を見開いて、驚きと心配、ちょうど半々くらいの声で言った。
「…どうしたの、その顔」
篤志に殴られた顔が赤くなっているらしい。明日には青くなるかと思うと気が重い。まさか本当のことを話すわけにもいかず、和成は笑ってごまかした。
「ちょっとありまして。史緒さんこそ、それ、どうしたんですか」
包帯が巻かれている右手を指差すと、史緒は言葉に詰まった。
「…ちょっとありまして」
と、気まずそうに視線を落とす。史緒のことだから、その怪我の原因が事故でも自業(じごう)でも喋らないだろう。それが解っているので和成はそれ以上追求しなかった。
「史緒さん、いくつか申し上げたいことが」
態度を改めて言うと、ぎく、と史緒の肩が揺れる。「…はい」
「まずは新年のご挨拶を。本年もよろしく」
「…は?」一拍遅れた。「あ、いえ、こちらこそ」
「それと遅ればせながら、18歳の誕生日おめでとう」
「───え?」
「え?」
「…あ、…あぁ、最近はばたばたしていて…。そっか…ありがとうございます」
「プレゼントはなにがいいですか?」
「なにもいりません。言葉だけ受け取ります」
それを聞いて和成は思わず吹き出した。
「それを言うなら、気持ちだけ、です」
あいかわらず、史緒はそういうところが駄目だ。
和成が添削すると、史緒ははにかむように笑った。それは自然に出た笑顔だったので、とりあえず和成は安堵する。最低最悪の精神状態ではないということだろう。
突然、史緒は両手で両耳を塞いだ。それからほっとしたような表情をする。───和成はその行動の意味を理解していた。史緒はイヤリングを付けていないことに安心したのだ。
2年前の史緒の誕生日に、和成は赤い石のイヤリングを贈った。史緒は和成の前ではそれをわざわざ外している。照れ隠しであろうその態度は微笑ましくある。
「じゃあ、お見舞い品は? 今日は急いでいたので手ぶらですが、次に持ってきますよ」
史緒は黙って首を振った。疲れた表情で笑いながら。
どうやら雰囲気を砕くことには失敗したので、和成は本来掛けるべき言葉を掛けた。
「具合はどうですか?」
「寝不足が祟ったみたいで。2,3日入院です」
「下で三佳さんに会いました。とても心配されてましたよ」
「…司は?」
「一緒でした」
「そう」
史緒はひとまず安堵の溜め息を漏らす。
「それに篤志くんも」
「篤志も来てるの? 実家へ帰ってたはずなのに」
「会いませんでした?」
篤志は廊下にいたが、一度は病室に入ったはずだ。史緒が目覚めるタイミングと合わなかっただけか。それとも。
(火傷について問いつめてしまうのを自制したのかな)
篤志と和成のやりとりなどもちろん知らない史緒は、前髪を掻き上げながら苦笑する。
「私、ついさっき目が覚めたんです。問診のあとは誰とも。…だから、最初に来たのが一条さんで、驚きました」
心なしか声が強くなる。
「まだ休暇中だったんでしょう? 新年早々、こんなところに来させちゃって、本当にすみません」
「謝ることでは」
「そうそう、父さんに挨拶に行かなきゃって思ってたところなんです。…行けない口実ができて、喜んでたりして」
不謹慎ですね、と苦笑い。わざとらしいまでに表情が動く。
「史緒さん?」
「一条さんは、年が明けてから父さんに会いました? 実を言うと、私、梶さんのこともちょっと苦手で…。だから、行くときは一条さんがいるときがいいな、なんて。勝手ですね」
「……」
いつも以上に饒舌な史緒の様子は和成を白けさせた。どう見ても空(カラ)元気だ。
「史緒さん」
「───っ」
強く名前を呼ぶと史緒は肩を震わせて口を噤(つぐ)む。その様子はまるで怯えているようだった。
(怯える…?)
その単語には懐かしさを覚えてしまう。あまり良くないことだ。
沈黙が怖いのか、史緒はさらに口を開いた。
「……一条さんに連絡したの、誰ですか? すぐに退院するし、本当に、大したことないんです。来てもらうほどのことでもなかったのに」
そう言うあいだにも視線が泳いでこちらを見ようとしない。
史緒の様子は確かにおかしい。だからこそ篤志も、和成を呼びつけて「頼みます」などと言ったのだろうが。
けれど様子がおかしいどころか、その様子が子供の頃の史緒と重なるのは気がかりだ。
「一条さ」「史緒さん」
三佳や篤志にもう少し事情を聞いてきたほうが良さそうだ。
「無理に繕わないで。余計な気を遣わせているなら、もう少し落ち着いた頃にまた来ます」
和成がベッドから立ち上がり改めて向き直ると、史緒は顔を伏せて黙っていた。
「…なにがあったか知りませんけど、今はちゃんと体を治してくださいね」
史緒は答えない。
(これは重傷だな)
沈黙はなにかあったことを認めることだ。自らの不調を隠すこともできないとは史緒らしくない。篤志がこちらに振ってくるのもよくわかる。といっても、あちらにしてみれば藁にもすがるというやつだろうが。
和成が踵を返そうとしたとき、つん、と引っ張られるような感覚にそれを阻止された。
史緒が手を伸ばし、和成の袖を掴んでいた。
無意識に伸びた手は和成を引き留めていた。史緒は自分の行動に愕然とする。「あ…」取り繕うために必死で言葉を探した。
「あの…」
「はい」
思いの外、優しい声が返る。その優しさに負けて、声が揺れた。
「…眠れないんです」
「見れば判ります。ひどい顔ですよ」
ひどい顔と言われて史緒は慌てて顔を伏せた。それでも和成に伸ばした手は放せなかった。掴んだその存在を手放すことができなかった。
「あの、私」もう片方の手で顔を隠しながら。「子供の頃、眠るの、…下手でしたよね」
頭が回らない、言葉がまとまらない。これ以上、おかしなことを言って、迷惑をかけたくないのに。
「私、子供の頃、…どうやって眠ってた?」
体調を整えるには眠らなきゃいけない。でも今は、眠り方を忘れてしまったようにうまく眠れない。体はだるいし、意識を放棄したいと頭が要求している。心臓だけがそれを許さないとでも言うように冷たい緊張感がついて離れなかった。それがこの記憶のせいなら、同じように記憶を持っていた子供の頃、あの頃はどうやって眠っていたのだろう。
どうやって眠ればいい?
言ってから顔がカッとなった。
(ばか、そんなこと子供でも言わない!)
和成はしばらく喋らなかった。呆れたのだろう。
史緒は力を込めて目を瞑(つむ)る。手を解(ほど)くには強い意志が必要だった。「…すみません。変なこと言って」
これ以上、馬鹿な自分に付き合わせたくない。
勢いをつけて手を離すと、逆に、和成が追いかけるように史緒の手を取った。「…!」思わず手を引くが和成は放さない。指から伝わる体温を感じた。手を繋がれてはじめて、自分の手が震えていることに気付いた。
和成は史緒の肩に手をかける。「一条さん? …え?」そのまま肩を押されてベッドの上に横にされた。すぐに毛布が掛けられて、和成はまたベッドの端に腰を下ろした。
「あの…」
史緒が頭を持ち上げるより先に、ぽんぽんと毛布の上から体を叩かれた。そのやわらかい感触が体を包む。とても、温かかった。
ぽんぽんぽん
和成は史緒を安心させるようにゆっくりと毛布を叩く。
かつて幼い史緒に、そうしていたように。
「───ぁ…」
ぶわっと懐かしい匂いが蘇った。実家の、自分の部屋の空気。和成の手の温かさ。ネコの毛並みの感触まで。
幼い頃は同じ家の中に櫻がいた。あの記憶を持っていた。
でも。ネコがいて、和成がいた。
眠ることなど簡単だった。
ネコを抱きしめた。
和成の手を、握りしめていた。
眠ることなど簡単だった。
すぐそばにぬくもりがあったから。
「──…ッ」
つないだ手にすがるように、史緒は声をあげて泣いた。
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