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■4.
「お先に失礼します」
三佳は峰倉に挨拶してバイト先を後にした。引き戸を開けて、それを両手で閉め───ようとしたところで止まる。
軒先に意外な人物を見かけたからだ。三佳はびっくりして大声を出してしまった。
「司? え…っ、どうしてここに?」
三佳の声に反応して顔を向ける。司はいつものようにやわらかく笑うと「おつかれさま」と言った。
今日はとくに約束があったわけじゃない。三佳はこのまままっすぐ帰って、そのまま司の部屋へ遊びに行こうと思っていたところだ。思わぬ先回りに驚いてしまった。
それに司は三佳のバイト先へ来たことはなかったはずだ。どうやってここまで来たのか、なにか急用があったのかと三佳は尋ねた。
「偶然、この近くに用事があって、その帰り道。聞いたことがあるバス停だったから降りてみたんだ。あとは人に道を訊いてここまで。迷惑じゃなかった?」
「いや、私も今から帰るところ」
「よかっ」
た、という声は、店の奥からの大声に掻き消された。
「“ツカサ”だって!??」
薄暗い店内、薬品棚の間から人影が立ち上がる。勢いよく首を回してこちらを向いた。三佳が世話になっているバイト先の店長・峰倉徳丸だ。
「おおっ!」
2度目の意味不明な叫び。峰倉はサンダルをつっかけて走ってきた。
「あんたが噂の島田の男かっ」
峰倉は勢いづいたまま司に向かってくる。
いつもなら相手の肩を暴力的に叩くくらいはしそうなのに、峰倉は白い杖に目をやると司の前で止まった。手は出さなかった。三佳の制止より早い。
そのかわり大きな動作で手を組んで、目を細めて司を観察する。
「島田と付き合えるなんてどんな男かと思ってたがなぁ。なんか似てるな、雰囲気あるよ。…おっと、俺は峰倉だ」
一連の流れに面食らっていた三佳は、そこで我に返り、司に峰倉を紹介した。司は了解したようで表情を明るくして挨拶した。
「はじめまして。七瀬といいます」
「もしかして見えない?」
「はい」
「そっか。にしても、ようやくだな〜、ほんと。3年近く島田をこき使ってるのに、一度も会う機会無かったもんな」
峰倉の声はいつも必要以上に大きい。司はその声量に一瞬驚いたようだが、他人には分からない程の短い時間で立ち直り、苦笑して返した。
「挨拶に伺ったほうがよかったですか」
「そりゃそうだ。なんつったって、島田はウチの3人目の子供みたいなもんだし、ムスメに虫(ムシ)がついてたら黙ってられんわけよ。阿達からあんたのこと聞いたときは、ヨメと2人で心配したもんだ」
「それじゃあ、お義母さんにも挨拶していかないと」
「あっはは。今は出掛けてる。また来てくれ」
豪快に笑う様子に三佳は不満の声をあげた。
「峰倉さん!」
「なんだ、我がムスメ」
「悪ノリしすぎだ。それから、『島田の男』っていう表現も気に入らない。司は私の所有物じゃない」
「真面目だなぁ」
肩をすくめてさらに笑い出す。峰倉は仕事中はふざけたりせず厳しい師匠だが、それ以外のときの他人をからかうような物言いはときどき本当に腹が立つ。
「峰…」
「まぁ、それが三佳のいいところですから」
司に頭を撫でられてそれ以上は言えなくなった。
その様子を見た峰倉がにやりと笑う。妙に癇に障る笑い方だった。
バスから降りると駅前ということもあって人通りが多かった。三佳は司と手をつないで改札を抜けて歩く。
「峰倉さんって、お子さんが2人いるんだね」
「あぁ。姉と弟。弟は私と同じ。姉はひとつ上」
「へぇ。三佳と同世代か。仲良いの?」
「顔合わせたら挨拶くらいはするけど、仲が良いっていうのとは違うな」
「峰倉さんみたいなノリとか」
「それもちょっと違う。弟のほうはうるさいし、落ち着きないし、ガキだし」
最後の一言に司は笑ってしまった。
「うーん。だって、12歳の子供でしょ?」
「…」
しかも三佳と同い年、とはもちろん口にしない。
「お姉さんのほうは?」
「姉のほうもうるさい。遠慮が無いのは峰倉さんに似てるかも。私立の中学に通っていて、学校での愚痴をたまに聞かされる」
三佳が知る同世代の人間というとこの2人しか思い浮かばない。それは三佳が学校へ通っていないせいだ。三佳は12歳、本来なら義務教育真っ最中の小学6年生。来年には中学生になるはずなのに。
長いあいだ自主的にサボってきた学校について、三佳もこれでも自分なりに考えているのだ。将来のことを考えたら、学校へ行くほうが善いことは分かっている。進路の選び方や進み方、社会性を培うにはそれが一番効率が良い。
「ふぅん、学校か」
少し遅れて司が相槌を打った。
「…三佳」
握る手に力が入ったので、三佳は視線を上げる。
「どうした?」
「あのね、もし僕が…」
意を決したような、少し硬い表情。司にしては珍しく、言い淀んで、言葉が出てこない。
「司?」
「…ううん。なんでもない」
逸らした表情は少し憂えてるように見えた。でもすぐに戻って、
「さ。じゃあ、買い物して帰ろうか」
と、司は笑った。
そのときのことだった。
「…っ!」
司は足を止め、鋭い動作で振り返った。そのまま、見えないはずの背後に目を向けている。普段では見せないほどの不安のある面持ちで。
本当に前触れもない動作だったが、三佳は驚かなかった。
初めてのことではないからだ。
ここ1週間のあいだに、数回。同じようなことがあった。
急に立ち止まり、振り返る。
彼らしくない、驚愕を表にして。
つないでいる手から動揺が伝わってくる。それを慰めたいと思う、でも握り返していいのか判らない。声を掛けてもいいのか、それともなんでもない振りで先を促したほうがいいのか判らない。
やがて司は背後から視線を外し、いつも通りの言葉を三佳にかける。
「ごめん、なんでもないんだ」
それは謝罪の言葉ではなく、追求を拒む科白だ。三佳は暗鬱になった。
「司…」
「大丈夫。本当に。気のせい…のはずだから」
気のせいだと願いたい、と司の態度は言っている。その願いとは裏腹に確信してしまっているはずなのに。
三佳にだってもう判ってる。
司は「匂い」に反応して振り返っている。通り過ぎた匂いに肩を引かれるように。
決まって、今みたいな人混みの中。
この2分の間に「なんでもない」を2回聞いた。
それは司の「最近気になること」と「蓮家からの手紙によって増えた悩み」を合わせた数だった。
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