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■5.
 篤志は駅からアパートへ続く夜道を歩いていた。夏至を越して折り返しに入ったといってもまだまだ日は長く、7時を過ぎてようやく暗くなったところだった。それでも温度と湿度は簡単には下がらない。湿った夜風がベタついて不快指数をも上げていた。スーツの上着は脱いでいるのに、それでも汗が噴き出てくる。毎日スーツを着て会社行っている人たちの苦労がしのばれた。
 篤志はこの春、4年生に進級した。その前に一度留年しているので、かつての同窓のほとんどはもう卒業している。もしかしたら彼らも今頃スーツを着て気候に文句を言っているのかもしれない。彼らを追うように、これから篤志も忙しくなるのだろう。
 母親曰く「両立できないなら、大学なんて早く辞めなさい」。篤志自身、卒業することが目的ではないから、親がそう言ってくれるのは正直ありがたい。けれど卒業しておくに越したことはないし、なにより史緒の婚約者として見限られないためにはそれなりの学歴を残しておく必要があった。史緒にではなく、阿達政徳に見限られないために。

 篤志には史緒と結婚する気など欠片(かけら)もない。「君がはっきり断らないのも問題だと思う」と司に言われたことがあるが、そんなことをすれば政徳は別の婚約者を探してきてしまうだろう。第三者の介入は篤志にとって邪魔でしかなく、のちの状況をややこしくさせるだけだ。篤志が「史緒の婚約者」という立場を守っている理由はそこにある。史緒が自由に動けるように立ち回りながら、政徳には「使える人間」だと思わせておく。それはすべて、ふたつの約束を叶えるため───。


 大通りから横道へ入ろうとしたところで篤志は足を止めた。帰る前に事務所へ寄ろうかと迷う。でもこの時間では夕食時だろう、篤志は自分のアパートへ足を向けた。集合ポストの中身を確認して、蛍光灯が切れ掛かっている階段を上る。篤志の部屋は2階の一番奥だが、階段を上りきったところで篤志は足を止めた。通路の奥、篤志の部屋の前に誰かが立っていた。
 髪の長い細い影。───史緒だ。
 驚きより厭(いと)わしいという気持ちのほうが強い。
 史緒も篤志に気付いたようで、無言で視線を向けた。薄暗い通路の端と端でも判る、今、目が合った。その挑むような視線の意味を、篤志はもうわかっている。
 篤志は気づかれないようにそっと息を吐く。速度を意識して足を進め、史緒の前で止まる。史緒は一歩も動かず、表情も変えず、そしてなにも言わなかった。篤志はわざと軽い調子で声をかけた。
「ここで待たれると近所に印象悪いんだよ」
「父さんの仕事を手伝ってるでしょう?」
 疑問ではなく確認だった。史緒は篤志の科白を無視していきなり核心を突いた。
 篤志は驚かない。最近の自分の行動を鑑みれば不審に映るのは当然。史緒がどこから情報を得たかも容易に想像できる。
「一条さんが漏らしたか?」
 史緒はこれも無視して質問を重ねる。
「どうして?」
 強い瞳はまっすぐに篤志の視線を捉え、問う。何故、と。睨みつけるような史緒の目の奥に微かに不安が読みとれて、篤志は強引に顔を逸らした。その不安を与えているのは篤志自身だ。それなのに篤志はなにも答えることができない。
「…送るよ。歩きながら話そう」
 了承を待たずに史緒に背を向ける。少しの時間も待たずに篤志は今来た通路を戻った。遅れて、史緒がついてくる足音が聞こえた。
 アパートの通路に2人ぶんの足音が響いている。その足音はわざとらしいまでに大きく聞こえた。吹き抜けた湿った風は何故だか冷たかった。
 階段の上、降りるときいつも南の空に月を探してしまう。けれども今夜は見えない。



 もう3年半前になる。阿達政徳の長男・阿達櫻が失踪した(この場合の失踪とは、海難事故で行方不明という意味だ)。後継者を失った政徳は、急遽、長女・阿達史緒の婚約者を仕立て上げ、その婚約者であり血縁の関谷篤志を後継とすることを発表。社内幹部による後継狙いの派閥争いを大人しくさせたという。
 しかし当の本人・史緒はそれを強く拒み家を出て、自ら調査事務所を設立、仕事を始めた。篤志と七瀬司を引き連れて。
 父親の会社に関わるつもりはないという反抗の意思表示。
 けれど問題は少なくない。家を出て独立したといっても史緒と司は未だ政徳の扶養から抜け切れない。本意ではない婚約も解消できていない。政徳の言い分を諦めさせるために、なんらかの交渉を用いて決着を着けなければならなかった。いずれは後継問題から完全に手を切り、会社は別の人間が継いで丸く収まり、史緒たちは自分らの仕事に専念するため。


 3年と半年。それだけの時間を過ごしてきた2人は今、蒸し暑い夜道を歩いていた。篤志が先を行き、史緒がついてくる。不穏な空気とともに。
「父さんに言われたの?」
「それもある」
「ほかになにが?」
「俺の意志」
 声もないのに背後から史緒の動揺が伝わる。無理もない。ずっと結託していた篤志が、己の意志で政徳の仕事をしているというのだから。それは史緒が拒み続けていた政徳の要求に応じたことになる。裏切った、と取られても仕方のない行動だ。
「大丈夫だよ。史緒が不本意で迎合することにはならない。絶対に」
 篤志にとってはぎりぎりの、史緒を安心させる言い訳。けれど史緒は気に入らなかったようで声を強めた。
「そんなことを訊いてるんじゃない…」
 ──2人でおじさんを謀(たばか)ってやろう
 ──逆らえない振りして、期待させておいて。最後には拒否してやろう
 かつて篤志は史緒に言った。
 あのときから、それよりずっと前から、篤志の意志は変わってない。矛盾もしてない。たとえ史緒の目にそうは映らなかったとしても。
「どうして…?」
「心配するな。史緒は、俺とは結婚しないし、今の仕事を辞めることにもならない。今までみたいに、やりたいことを続けられる」
「突き放すような言い方はやめて!」
 後ろから腕を引かれて、しかたなく篤志は振り返った。足を止めた。薄暗闇でも判る、不安に震える目が見上げてくる。
 そんな顔をしないでほしい。
 この子を守ることが、ふたつめの約束だったから。
「私は、今の仕事を続ける。……篤志は、違うの?」
 語尾はほとんど聞き取れないくらい小さな声だった。篤志は答えない。聞き取れなかったわけではないのに。
 史緒は篤志の腕を掴んだまま俯く。無言の篤志にもう一度質問した。
「…アダチの仕事がしたいの?」
 篤志は目蓋を落とした。
 嘘は言いたくない。でも自分の本音が、史緒の望むものではないこともわかっていた。
「あぁ」
「!」
「昔からずっと、そう思ってた」
「ちょっと待ってよ…」
 おかしいくらい史緒の声が震えた。信じたくない、という葛藤が伝わってくる。篤志はただ史緒の言葉を待った。
「どうしていきなり? 父さんになにか言われたんじゃないの?」
「最初に言ったとおり、俺の意志だよ」
「それならどうして、私と一緒にいてくれたの? 手伝ってくれていたの? もしかして嫌だったの? 我慢して付き合ってくれてたの?」
 史緒は平静を保とうとしているが、声が震え、目に涙が滲む。それを痛ましいと思う資格は篤志にはなかった。
「違う、史緒と一緒にいたのも、ちゃんと自分の意志だ」
「やめてよ! …わかってる? その言い分、“アダチに近づくために娘(わたし)を利用した”と思われてもおかしくないのよ?」
「そんなこと…」
「見損なわないで。…篤志が、ちゃんと私のこと思ってくれているのは解ってるの。見守っていてくれて、助けてくれて…。───私が言いたいのは、どうしてなにも言ってくれないのかっていうこと。ひとりでなにを考えてるの?」
 史緒は息を切らせていた。涙が滲む目で篤志を睨む。
 最近の篤志の行動が史緒を不安にさせていることは解っていた。でもそれは長くないはずだった。
「史緒」
 すべてを明るみにするときが近づいている。そのときこそが、本当の岐路だ。
「もう少しだけ待ってくれないか。史緒にも、言わなければならないことがある」
「言わなければならないこと?」
 そっと史緒の手をほどいた。
「俺自身、決着を付けなければならないことがあるんだ。」
 夜風が2人のあいだを通り抜けていく。長い沈黙があった。
 そのあいだに史緒は落ち着きを取り戻し、顔を上げて篤志を見上げる。篤志はその視線を受けとめた。そのまましばらく見つめ合う。
 嘘を見抜くためじゃない。相手が自分に対して誠実であるかを問うためだ。
 どれくらい経っただろう。史緒は目を外し、篤志の横を小走りですり抜けていく。通り過ぎざま、「おやすみなさい」と小さく言った。篤志はひとり、残された。



 凪いでいたものが動き始める気配がする。
 止まっていた時計の針が最初の1秒を刻むときのように、重く。
 氷の解け始める瞬間が見届けられないように、いつのまにか。
 ゆっくりと。
 大きく動き始める。

 最初の一歩を踏み出すのに必要なのは勇気ではなく契機(きっかけ)。
 長く留まりすぎていた篤志にはそれすら無く、重々しく、引きずるように足を出した。
 歩き出したいわけじゃなかった。
 留まり続けることが、辛くなっただけで。

 動き始めたら孤立することは分かっていた。
 欺(あざむ)き続けた自分を受け入れるのは容易ではないはずだから。───それを怖くないといえばもちろん嘘になる。
 そのままでいれば史緒と居られたのに。
 偽りの自分のままでも、大切な人たちと一緒に居られたのに。
 けれど篤志にはもう、止まるつもりも、戻るつもりもなかった。


(大丈夫だよな。まだ、生きてるよな)
 見上げた空は世界を覆う黒い布のようだった。「吸い込まれそうな青い空」というなら、これは「吸い上げられてしまいそうな黒い空」だ。同じものとはとても思えない。
 けれど同じこの空の下、この街でこの国でこの世界で。

 まだいる。

 どこかで生きていてくれるなら、いっそ逢えなくてもいいと思う。史緒のことを思うと出てきて欲しくない。
 それでも、伝えなければならないことがあるから。
(櫻───!)

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