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■1.
 A.CO.へ向かうための路線に乗り換えた駅で、蘭は見知った人影を見つけた。
「おーい、健さーん」
 ちょうど階段を降りようとしていた健太郎が振り返った。人込みを見渡して蘭を見つけると軽く手を振った。
「おっす」
 Tシャツにジーンズ姿、肩に掛けているバッグから学校帰りだとわかる。つい春先まで着ていた学生服が妙に懐かしい。
「事務所へ行くんでしょー? ご一緒していいですか?」
「おう。あ、でも、俺は月曜館に寄ってく」
「冷たいもの飲むなら、あたし、淹れますけど。事務所で」
「そうじゃなくて」健太郎は苦しそうに腹をさすった。「腹減ってんの。マジで倒れるくらい」
「お昼食べてないんですか?」
「朝も食ってない」
「えーっ」
「徹夜で兄貴の仕事手伝わされてさぁ。その兄貴は来日してる有名人の視察があるとかで、コキ使った弟の屍を踏みつけて仕事に出かけるし。今回ばかりは殺意が芽生えた。ほんと、イイ兄貴だよなぁ、ははは」
 後に続いた乾いた笑い声は低く、凄みが含まれている。その気持ちを汲んでか、それともまったく読めずか蘭はあっけらかんと笑った。
「でも楽しそうですよね、兄弟で一緒に暮らしてるのって」
「…俺の話聞いてた?」
「もちろんですよー。あたし一人暮らしだから、家に帰るとなんだか淋しくて」
 あぁ、と健太郎は声のトーンを落とした。
「蘭は兄姉多いんだよな」
「ええ。実家にいたときは一人になる時間もないくらい!」
 すぐそこに素晴らしい物があるかのように目を輝かせる。
「でも、あたしが小さい頃はそんなに仲良かったわけじゃないんです。おんなじ家に住んでるのにお話もしないし、ごはんを食べるのも別だったし、みんな優しくて立派な人たちなのに、どこか他人行儀で」
 蘭の家のこととその兄姉関係は聞いたことがあったので、健太郎は蘭から語られる状況に頷くことができた。むしろその環境にあって、蘭のように育つことのほうが特異に思える。
「大切なお式のときに…ふふふ、あたしが派手に転んでしまったことがあって、そのときみんなが駆け寄ってきてくれて、心配してくれて、助けてくれたの。今までいがみ合ってたみんなが、顔を付き合わせてばつが悪そうにしてるのが可笑しくて、あたしは嬉しいやら足が痛いやらで泣き笑いです。だけどお客様を迎えるお式の途中だったから父さまはカンカン! 後で揃って叩かれました。でも、そのときからです、みんなが仲良くなったのは。───それで、そのときいらっしゃったお客様というのが…」
 大切な想い出を大切そうに語る蘭。その口が突然止まる。音読の最中に読めない漢字に当たったときのような不自然さだった。
「そのときの客が、なんだって?」
 健太郎に促されて蘭は一瞬迷ったような素振りを見せたが、やはり大切そうに、それを口にした。
「あたしの、初恋の人です」
「例の写真の?」
「ええ」
 今度は迷わない。意志を持ってはっきりと頷いた。
「───ねぇ、健さんのお兄様ってどんな方なんですか? 健さんと似てます?」
「そうだなぁ。三佳が言うには全然似てないらしいけど。自分じゃわかんねーよ」
「一度お会いしたいな! そういえば祥子さんはお母様そっくりですよね。お母様も美人!」
「あー。あれは、若い頃同じ顔してたろってくらい似てたな」
「去年の末くらいにね、篤志さんのお母様にお会いできたんです。上品で落ち着いてて、緊張しちゃってうまく喋れませんでした」
「へーぇ」
 緊張したのは別の意味もあるだろ、と冷やかそうとしたがやめた。蘭が相手では冷やかし甲斐がない。
「そういや、A.CO.(うち)で、きょうだいがいるのは俺と蘭だけか。他は聞かないもんな」
「ぁ…。───…えーと」
 そのとき、前方の人混みが騒がしくなった。
「捕まえてくれ! ひったくりだ!」
 弱々しいながらも張り上げた、割れた声が遠くから聞こえた。その声に反応して多くの人が振り返る。けれど状況を把握するには至らず、ただ単に何事かと目を向けた人がほとんどだった。
 健太郎と蘭は喋るのをやめ、揃って足を止める。
 小さく短い悲鳴がいくつか上がった。その方向から、30代くらいの男性が飛び出してきた。
「捕まえてくれぇ!」
 人混みは協力する気は無いわけではないが、突然のことに驚き、激走してくる男に思わず道を開けてしまう。しょうがない、咄嗟のときにはなかなか動けないものだ。
 そして開けた道は、健太郎と蘭につながっていた。
「健さんやる?」
 飲み物なににします? と同じくらいの何気なさで蘭は訊いた。空腹の健太郎を気遣ってのことだろうが、ここでのらなければおいしいところを蘭に取られてしまう。
「足止めくらいなら」
「じゃあ、あたしは捕獲(ホカク)」
 各自の飲み物(オーダー)を確認し合うと2人は左右に分かれた。周囲との間合いは充分にある。それを健太郎は目視で確認した。
 前方でそんな注文があったとは知る由もない男は脇目もふらずに2人の間を駆け抜けた。 いや、駆け抜ける前に、タイミングを計っていた健太郎がわずかに腰をかがめて男の足をひっかけた。反射的にバランスを取ろうとした逆の足を見切って蹴飛ばすことも忘れない。結果、転倒。受け身を知らなかったのか、男は容赦なく顔面からコンクリートに突っ込んだ。その際、宙を飛んだ男の手荷物を難なくキャッチする。もう少し上手くコケて欲しかった、と健太郎は同情するも、わざわざ階段から落ちない場所を選んでやったのだから許してもらおう。
 そのあいだに蘭は、倒れた男の背中に膝を落とし片腕を締め上げていた。聞き苦しい男の悲鳴が短く響いた。
(スカートでよくやるよ)
 と、健太郎は苦笑い。こうなる結果は見えていたとはいえ、細い手足がそれより一回り大きい体躯を押さえつけている姿は異様だ。力の差は歴然のはずなのに、男の抵抗は少女の技を外すことができなかった。技量の差が歴然なのだ。
「ひったくりなんて善くないですよ〜」
 と、悉(ことごと)く状況にそぐわない間延びした声で蘭。うるせー、と男は吠えたがそれは悲鳴に変わった。腕が絞まったらしい。
「ええと、捕まえましたけど……どうしましょう」
 と、大の男を締め上げているとは思えない余裕をもって、少女は真顔を上げる。
「そうだなぁ…」
 健太郎が蘭の荷物を拾い上げながら相槌を打ったときのことだった。
「嬢ちゃん、やるな」
「かっこいー!」
 いつのまにかできていた周囲の人垣から口笛と拍手が上がった。
 手を放すわけにはいかないので、蘭は少し照れたような笑顔で歓声に答えた。
 ───そのとき、蘭は歓声の中に聞いた。
「連家の末っ子は相変わらずか」

 耳の奥が冷えた。
「……え。わっ、きゃあ」
 一瞬の隙を見逃さなかった男は蘭の技を振り解いた。急に立ち上がったので背中に乗っていた蘭は放り出され、地面に腕を打つ。男は大きな舌打ちをして人波のあいだを縫って走り逃げていった。
「おい、大丈夫か」
 健太郎の手を借りて蘭は立ち上がり、お礼を言うのも忘れて周囲を見回す。一段落した事件を後にして人垣は散り始めていた。幾人かは犯人を逃がした蘭に慰めの言葉をかけている。散っていく人影の中に、背の高い男性の後姿があった。惹きつけられるように蘭は目を留めたが、それはまるで蜃気楼のように人波に消えた。
 何故だが、追う気にはなれなかった。
「蘭?」
 健太郎の呼びかけに引き戻された。
「あ…っと、ごめんなさいっ」
「モノは取り返してある。問題ないよ。どうかしたのか?」
 犯人を採り逃した隙。その一瞬、なにに気をとられたのかは判っている。
 知っている声だった。それに蘭を呼ぶときの呼称も…。
「健さん、今の…」
「なに?」
 健太郎は「彼」のことを知らない。言ってもこの気持ちは伝わらない。それでも蘭は嘔吐感に似た胸騒ぎを吐き出さずにはいられなくて、口を割った。
「さっきの人…っ」
「さっき?」
「……」
 大きな波のように押し寄せる感情がある。
 それは懐かしさだったか、喜びか、畏れか不安か───。
 季節は夏。ホームは蒸すように熱いのに、背筋を駆け上がるなにかに蘭は震えた。


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