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■2.
 篤志がアダチに出入りするようになって、そろそろ3週間が経つ。
 さすがにこれだけ経つと、篤志が提示する社員証を見て驚く者はいなくなった。最初の頃は受付の社員でさえ目を剥いていたので。
 篤志の社員証は仮で発行されたにもかかわらず社内通行権はランクB。これは「秘書課一般」と同じレベルで、臨時社員(ゲスト)としては破格の待遇だ。ちなみにランクAが「役職」で、各部署のトップや社長付秘書である梶正樹や一条和成がこれに該当する。それ以上のランクとして「役員」がある。ほとんどの社員はC以下。
 少し前までは見慣れない顔の者が高い通行権を与えられていることに驚かれていたがそれももうない。「社長令嬢の婚約者」という噂が広まったらしい。

 政徳から最初に言いつけられたことは、秘書課の仕事を覚えることだった。
 もちろん海千山千揃いの課内において、あまつさえ儀礼(プロトコル)の儀の字はおろか人偏さえ知らない篤志が役に立つことなどない。政徳もそれを分かっているから「手伝うこと」ではなく「覚えること」と言ったのだ。課内の人の流れや段取り、管理していること、動かしていることの観察。それから組織体系を学んだり、政徳や梶について外出することもあった。
 ひとつ注意されていることは、あまり下手(したて)に出ないこと。将来、上に立つ人間を甘く見せてしまうことは、下に就く人間の志気を損なう。そのことからも解るように、篤志は未熟ながらも後継候補として扱われていた。

 次の移動まで休んでいていいと梶から言われ、篤志はひとり社内のカフェに来ていた。カフェと言っても、大人数の社員を抱える職場の食堂も兼ねているのでとにかくだだっ広い。洒落っ気は無いが清潔感はある広いホールにテーブルと椅子が敷き詰められている。通常勤務時間帯の今は人も少なく閑散としていた。その中にちらほらと見受けられるいくつかのグループは、少人数の打ち合わせや篤志と同じように休憩している社員たちだった。
 テーブルのあいだを縫って近づいてくる人影がある。篤志はそれを視界に入れていたが、面倒なので気づかないふりをした。その人物が自分のところまで来てなにを言うかは大体想像できている。けれど、どう答えるかは考えていない。彼への言い訳などいちいち考えていられない。篤志には他に考えるべきことが多くあったので。
 一条和成は挨拶もなく篤志の向かいの席に腰をおろした。カフェのメニューではなく、自販機で買ってきたらしい紙コップのコーヒーを飲むと、やっと口を開いた。
「どういうつもりですか?」
 この3週間、同じ職場にいても和成と話す機会はほとんどなかった。なぜなら篤志は梶について行動していたし、そして同じ役職のはずの梶と和成は社内においては別行動が多かったからだ。移動のときは顔を合わせたが私語が許されるはずもなく、交わした言葉といえば挨拶程度。けれど言わずともいつも和成の目は訴えていた。
 どういうつもりでここにいるのか、と。
「想像しているとおりだと思いますよ」
「史緒さんを切るんですか?」
「その表現は誤解を招く」
「実質は同じことでしょう」
「…」
「君がアダチ(ここ)で仕事をするためには、解決すべき事柄が多くあるはずだ。それを片付けずにここへ来て欲しくない」
「助言?」
「嫌味です」
 和成の大人げない返答に篤志は小さく笑った。大きく息を吸って肩をほぐす。
 一緒にいても楽しくない人間だが和成のことは嫌いじゃない。おそらく相手も同じ評価だろう。
「一条さんが味方だとは思ってないけど、事情を知ってる人間が近くにいるのは心強いよ」
「知りません、そちらの事情など」
 不愉快さを隠さずに和成は顔を逸らした。それに倣って篤志も視線を外し、窓の外を眺める。ここは2階なので窓からは向かいのビルしか見えない。それでも秘書課が置かれている窓の少ないフロア(防犯の意味がある)と比べたら格段に開放感ある眺めだった。
(解決すべき事柄、か)
 和成がおもしろくないのも解る。政徳や史緒を騙したまま行動に出た篤志は不安定な情勢を作り上げている。政徳の秘書で、史緒とも懇意である和成から見れば危ういことこのうえないのだろう。この先の篤志の出方で一騒動あるのは目に見えている、そしてそれを避けられないということも。
 本当の意味で篤志の事情を知る者などいない。それでも和成は知っている部類に入る。
 和成はいくつかの、本当に少ない情報しか持っていなかった。しかし先入観と偏見のない部外者だからこそ気づくこともある。客観的な視点が冷静に判断した結果、篤志の正体を知るに至った。反対の立場に川口蘭もいるが、こちらは彼女の素質としか言いようがない。
(他の人たちにも、早く明かしてしまったほうがいいのは解ってるんだ)
 動き出してしまった今、この先の契機を待つ必要はない。今すぐ言ってしまっても構わない。和成が心配しているとおり騒動は避けられないだろうから、今だろうが後だろうがそれは同じことだ。
 篤志が迷っているのはそこではなかった。
「史緒、怒るかな」
 思わずもれてしまった苦笑。和成は眉をひそめた。それほど篤志が情けない顔していたからだろう。
「もう怒ってるんじゃないですか?」
「…そうだな」
「ひとつ、きつい物言いをさせていただきますと」
「どうぞ」
 和成は表情を落とした。
「手放しで喜ぶ人はいないと思います。それくらい“君”は過去の人だ。時機が良くないわけではありませんが、最良の時でもない」
 篤志は静かにそれを聴いた。
「そちらとしても、本当なら櫻がいるときにカタをつけたかったんでしょう?」
「知ってるじゃないか。事情」
「だから知りませんって」
 堂々巡りのやりとりに雰囲気が浮上しかかる。けれど和成はもう一度、言いにくそうに口を開いた。
「彼女が最期まで気に掛けていたのは櫻でしたから。史緒さんでも、──…君でもなく」
「……」
 しばらくののち、次に空気を振るわせたのは和成の携帯電話の着信音だった。
 それを合図に、篤志と和成は同時に席を立つ。
 梶が集合を指示したとき、2人はすでに廊下を歩いていた。


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