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■3.
「あんたたちでも喧嘩するのね」
 しばらく続いていた沈黙を切って祥子は言った。
 A.CO.の事務所には今、祥子と史緒の2人しかいない。つまり「あんたたち」という二人称複数形が示すうちの一人は史緒だ。その他に誰が含まれているのか、それは当事者である史緒のほうがよく解っているだろう。
 すぐ隣に座る史緒は、祥子の科白が聞こえなかったかのようにキーボードを叩く指を止めない。表情も動かさず、反応を示さずに、黙々と仕事を続けていた。
(あらま)
 無視されたことには腹立つが、それ以上に祥子は驚いていた。ひとつ言えばもれなく針とパンチ付きで返してくる史緒が無視という幼稚な態度を取ることに。
(“聞こえなかったフリ”が通じるとは思ってないでしょうに)
 逆に、言い返してきたとしても、下手なごまかしは通じないけれど。
 祥子は今日も史緒の仕事を手伝わされている。今までその分の仕事をしていた篤志が不在だからだ。慣れない仕事を押し付けられた不満を篤志に言いたいけれど、今、目の前には史緒しかいない。その史緒は明かに気落ちしているし、祥子に対する取り繕いも弱い。思案に沈む時間が長く、仕事の効率も悪そうだ。別に史緒の仕事時間が増えても祥子に影響しないが、ひとこと言わせてもらおう。
「史緒と篤志はA.CO.(うち)のトップでしょ? その2人の不仲は下の人間を不安にさせるの、早めにどうにかしてよね」
 さすがになにか言ってくるだろうと身構えていると、期待どおり史緒は手を止めた。それからうつむき、目元をゆがめると、酷く重い声を出した。
「……そうね」
「え」
 調子が狂う史緒の消沈ぶりに、仕掛けた祥子のほうがうろたえてしまった。
「ちょっと、しっかりしてよ。…どうしたの? 相手は篤志でしょ? そんな深刻じゃないんでしょ?」
「どうかしら」
「史緒?」
 7人もいる集団だ。何年も一緒にいて争いがないわけがない。なかでも祥子と史緒はその代表。一番険悪な関係だったことは間違いなく、それは自他共に認めるところだ。三佳と健太郎もなにかにつけて言い争いを繰り広げているが、この2人は空気を読み自制することにも長けているので、退き際がよく、禍根を残さない(例外有り)。一種のコミュニケーションである。
 問題になっている史緒と篤志。彼らもたまには言い合いをしているが、それは仕事上の問題においてのみで、長引くことはない。史緒がワンマンになりすぎるのを抑える効果があるので健全な業務進行には悪くないことだ。この、史緒と篤志のバランスがA.CO.を支えてきたと言ってもいい。そんな2人だからこそ、業務に支障を来すような仲違いは今までなかったのに。
 祥子から見れば、篤志は史緒の、(良きパートナー…っていうのは少し違うな。相方(パートナー)という単語なら司と三佳のほうがしっくりくるし。篤志はそうじゃない。…ええと、ほら、そうだ、そう)
(保護者?)
 その対象である史緒は祥子の目の前でさらに低い声を吐いた。
「つまらない喧嘩のほうがよかったわ…」

 史緒は祥子に慰めさせている自分の落ち込みぶりに驚いていた。
 よりによって祥子に。今までのことを省みれば冗談でも考えられない。信じがたいことだが、自分はかなりのショックを受けているらしい。先日の篤志の科白に。
 アダチの仕事をしたい、と。
 3年前、A.CO.の仕事を始める際に協力を乞うた。篤志は快諾してくれた。それから後、学業との両立で苦労をかけさせたのは申し訳ないと思っている。このまま手伝わせていていいのかと何度も考えた。でも篤志がいなかったらここまでこれなかったし、なにより、篤志も彼自身の意思でここにいてくれてるのだと思っていた。
(違うの? 私の思い込みだったの?)
 いつから? という史緒の問いに、篤志は「昔からずっと」と答えた。
(昔ってどれくらい? A.CO.を立ち上げる前から? 私と婚約する前から? それとも私と出会う前から?)
 どうしてアダチの仕事をしたいの? それなのにどうしてA.CO.を手伝ってくれていたの? 我慢させていた? 本当はここにいたくなかった? それとも私を利用していたの? なにか狙いがあったの?
≪決着を付けなければならないことがあるんだ≫
 どうして今まで、なにも言ってくれなかったの?

 目覚ましのように電話が鳴り、史緒は我に返った。
 祥子の目が取ろうか?と訊く。史緒は軽く頭を振って、自分で受話器を取った。
「はい、A.CO.です」
「あの、あたしです」
 蘭だ。上擦った声に勢いがあった。
「すみません、篤志さん、来てます? ケータイが通じないので…」
「篤志は今日は来ないと思うわ」
「…えっと、司さんは?」
「外出中よ、どうしたの?」
「あのぉ…史緒さぁん」
「なぁに?」
「えっと、ごめんなさい、変なこと訊きますけど」
「うん?」
「もしかしたら史緒さん、気を悪くされるかもしれないんですけど」
「どうぞ」
「ばかばかしいことなの、笑い飛ばして欲しいんですけど…」
「内容によるわね」
「…」
「───蘭。なんなの?」
 あまりの遠回しぶりに呆れながら先を促した。それでも蘭は迷いがあるらしく、また少しの沈黙がある。
「…あの」
「はい」
「まだ、…見つかってないんですよね」
「なにが?」
「櫻さん」
 純粋な驚きがあった。
 それは顔にも表れてしまった。
 祥子が反応してこちらを向く。それでも表情を立て直せなかった。
 その名前を聞いても嫌悪感はない。ただ本当に、思い出そうとしなければ思考に現れないほど遠い記憶の中の存在に、驚いただけで。
「…本当に、変なこと訊くのね」
 その声に刺(とげ)はなかったのに蘭は慌てた様子で、
「ごめんなさい、…ホントに、なんでもないんですっ、それじゃ」
 ぶつ、と電話は切れた。
 にぎやかな蘭の声がなくなると急に静かになったような気がする。余韻が深く残って、史緒はしばらく受話器を耳から離せなかった。
 一連の会話を端で聞いていた祥子が問う。
「なんだったの?」
「…さあ」
 重量が増したかのように、史緒は落とすように受話器を置いた。
 その横顔は酷く青かった。


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