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■4.
司が最近街中で振り返ってしまうのは煙草の匂いだ。
薄く笑う声が印象的な、彼の。
いくら司でも、まさか煙草の匂いなどという数えられる(カウンタブルな)もので個人の特定はできない。近づいてくる知人を言い当てることはできるが、その識別は足音によるものだ。
同じ煙草を吸う人間は数多くいる。彼と同じ煙草を吸う人間だって街を歩けばいくらでも。だから匂いだけで思わず振り返ってしまうことなど絶対に無い。
今回のコレは違う。
煙草の匂いとともに鳥肌が立つような感覚がある。警戒心が擡(もた)げ、身構えるよう脳が命令する。接近する人物に注意するようにと。傷つけられないようにと。
阿達家にいた頃はこの感覚も珍しくなかった。日常的にあったことだった。けれどつい最近まで、司はその感覚を忘れていた。
(どうして今になって…)
今になって、同じものを司は感じている。街の喧騒に乗せて彼の存在を知覚する瞬間があった。
彼はもういないのに。
「司っ!」
「!」
突然、三佳に腕を引かれた。それと同時に街の騒音が司の耳を打つ。車の音、人の声。
「あ…」
現在の居場所。状況。
ようやく司は信号が赤だと気付いた。わずか目の前1メートルの距離を車が通り過ぎていく。やっと危険を察知した思考は驚いて小さく声をあげた。
「…しっかりしろ」
三佳は深く息を吐く。腕から微かな震えが伝わってきて、司は小さく謝った。
三佳が驚くのも無理はない。司が信号を聞き逃すことなど今までなかった。晴眼者が信号を見落とすのと同じくらい、いやそれ以上に危険なことだ。
振り切るように手を離して三佳は言う。
「そこのコンビニで買い物してくる。ここで待ってて」
考え事があるなら足を止めてやれ、という三佳なりの気遣い。礼を言う隙も与えず三佳の足音が遠ざかった。
道端に寄り、喧騒に浸かる。司は溜め息を吐いた。
(かなり参ってるな)
三佳にまで心配させてしまっている。
考え込んでいるのは初歩の初歩。自分の感覚を信じるべきか否かだ。
疑うわけにはいかない。少しでも疑ってしまったらこれからすべての行動に迷いが生じる。なにをおいても許可できないことだ。
しかし今の自分の感覚を信じるということは、もういないはずの彼の存在を肯定することになる。
(…櫻、か)
もし彼が目の前に現れたら?
司はそこで自嘲気味に笑った。こんなことまで想像してしまう自分はかなりおかしい。
自分の想像力を抑えるために頭を振ると、司は街中のノイズに耳を済ませた。
「犬みたいなやつだなぁ」
すぐそばで発せられた男の声。
「一匹狼になると思ってたが、子供の飼い犬(ペット)に成り下がったか。七瀬」
急に緞帳が落ちたように「視界」が利かなくなった。
空気が閉ざされ、現在の場所と時間の認識が薄れる。今はいつで、どこで、どうしてここにいるのか。
目の前にいるのは誰なのか。
思考が混乱状態に陥る。なにに焦点をあてて、なにを考えるべきか。通常の思考状態に戻るにはどうするべきか。
取り乱すことをしなかったのは、ショックのほうが大きかったからだ。
「静かに動いているつもりだったがおまえの鼻はごまかせなかったようだ」
微かな笑みを混ぜた声が囁く。息に乗せた囁きが聞こえるくらいの距離に、彼がいた。
「……櫻?」
わかってる。わかってはいるが、確認せずにはいられない。
「あぁ」
余計な情報を与えない短い返答。司に安定を与えないための、計算された科白回し。
間違いなく、幽霊でもない。その存在を感じる。煙草の匂いとともに。
司は無意識に、支えとなる三佳の手を探してしまった。けれど、近くにはいない。───そんな司の不安を見透かしたように彼は言った。
「しかし七瀬が幼女趣味だったとは知らなかったな。結局、ひとりで歩けずに、選んだ杖がアレか」
司は乱れる呼吸を抑えることに意識を集中した。挑発に乗ることはない、今の状況を知ることが先だ。
「…生きてたのか」
「声を掛けなきゃ死んだままだったろ」
「今までどこに?」
「頭の悪い質問はやめろよ。おまえはもう少し利口だと思ってたのに」
「どうしてすぐに出てこなかったんだ」
「今度は少しマシか。まぁ、その必要性を感じなかった、という回答で満足か?」
「なんで今になって」
「やり残したことがある」
この科白は櫻にしては珍しく情報過剰な気がした。
(やり残したこと?)
「安心しろよ。そう長くは居座らない、長くても2ヶ月くらいだ」
「……まさか報せないつもりか? おじさんにも?」
「面倒はごめんだ。名乗り出ることに意味もない」
「“阿達櫻”を死なせて構わないのか?」
そこで彼は笑ったようだった。
「あのな。俺はとっくに、その名前は捨ててるんだよ」
「…」
櫻は生きている。その真実を報せる必要があるのではないか。道徳的、倫理的───それには目を瞑っても、阿達家をとりまく数々の問題に進展があるかもしれない。いや、もしかしたら余計な問題を抱え込むことになるかもしれない。
櫻の生存を知ったときの史緒の動揺は想像もできない。櫻が本当に、誰にも知られずこのまま去ってくれるというなら日常は今までとなにも変わらない。余計な波風は立てたくなければ、司はこのままずっと口を閉ざしていればいいのだ。
打算しなければならない。この場で。司の思考は混乱し、信号待ちを強要されているように鈍くなっていた。
「櫻」
ひとつだけ、確認しておきたいことがあった。
「なんだよ」
「…史緒は君を殺したと言ってる。実際はどうなの?」
「はぁ?」
「あのとき、みんなで行った別荘で、…君を、崖から突き落としたって」
一月の寒い日、夕暮れ時だった。風に攫(さら)われそうな丘の上、司の腕のなかで史緒は言った。櫻を殺しちゃった、と。
あの後、マキさんが迎えに来て、雨の中別荘に戻った。警察は櫻の捜索と同時に事情聴取をした。史緒は自棄になってひけらかすように言う。櫻を殺したのは、崖から落としたのは自分だ、逮捕しろと。けれど、警察はそれを信憑性ある証言だとしなかった。
その証言を篤志がどう思ったかは知らない。司は半信半疑。もう過去のことだ、いまさら史緒の評価が変わるわけではないが白黒つけておきたい問題だった。
「ふーん」彼は面白そうに答える。ベタつくような笑いを漏らした。「そうそう、そのとおり。おもしろいな、七瀬の言うとおりだ」
やや声を強めて、
「3年前、俺は史緒に殺されたんだ」
わざとらしいまでにはっきりと言い、笑う。
「…?」
その科白は誰に向けたものなのか、普段の司ならすぐに気づいたかもしれない。けれど今はそれだけの余裕を持っていなかった。
「そんなんで自己紹介になるかな。島田三佳サン」
「!」
弾かれたように司は振り返った。
「───三佳っ!?」
彼に気を取られすぎて気付かなかった。わずか3メートルの距離に。
低い位置から、聞き慣れた声が細く言う。
「今の…なに? 史緒が…」
聞かれたくなかったことを聞かれて司は歯ぎしりした。不用意な質問をした自分の失態だ。しかしフォローしている場合ではない。
三佳の肩をとり、彼からかばうように立つ。
(どうして三佳の名前を…)
「…なにを調べてるんだ」
「島田サンに用があるわけじゃない。あいつの近辺を少し洗っただけだ」
あいつ、という言葉が示すものはすぐにピンときた。
「──…史緒?」
彼は否定しない。
「無駄骨だったけどな。蓮家の末っ子は相変わらず使えなさそうだし」
「まさか史緒になにか」
「よしてくれ。あいつに構ってる暇はない」
煙たそうに吐くその科白は嘘ではないようだった。
(櫻の意図はなんだ?)
やり残したことがあるという。阿達櫻の身分にももう興味がない。狙いは史緒ではない。でも史緒の近辺を調べている。それが、やり残したことだというのなら…。
「…なにを、捜してる?」
「おまえのそういう利口なところは買ってるよ。そうだな、一応、訊いておこう。───亨(とおる)、という名を知ってるか?」
「…? いや、聞いたことない」
(捜しているのは人? …トオル?)
「それなら、史緒はおまえにすべてを話しているわけではないということだ。残念だったな」
その程度で疑念を植え付けられるとは思ってないだろうに、それでも科白の端々に揺さぶりを仕掛けてくるのは櫻の常套手段だ。昔からそう。他人を不安にさせないと気が済まないかのように。
「わざと訊かないでやってるんだ」
と言ったのは司ではなく三佳だ。
「史緒に殺されただって? あんな小娘にやられたというなら、そっちも大したことないようだな」
三佳の手は司の手を強く握って微かに震えている。櫻に突っかかる声も強い割に細かった。
「三佳…っ」
その強がりは解るし、司のためを思って言ってくれたのもわかる。けれど三佳が櫻に目を付けられることを司は恐れた。
櫻は悦に入ったように喉の奥で笑う。
「あいつにはもったいないくらいの同居人だな。まぁ、気が向いたときにでも訊いてみればいいさ。亨は誰だってな」
答えられないはずだ、と彼は言った。
櫻が去ると、知らず感じていた圧迫感(プレッシャー)が緩み、司は大きく息を吐いた。
「訊いていいか?」
三佳の慎重な声がかかる。
「…いいよ」
「誰?」
「阿達、櫻」
三佳が息を飲んだ。
「史緒の兄だ」
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