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≪5/16≫
■03
その日。
わかったこと。
わからなくなったこと。
脳を刺す鮮血。神経にまとわりつく鉄の匂い。冷たい温かさ。
母の笑顔の嘘。
嘘。
笑ってくれていたのは見せかけ。苦しかったのに。血を吐くような内蔵がどんな状態か。怖い。咲子さん。無理して笑っていた。病気だと知ってたのに。その苦しみを。理解していなかった。
やさしいだけの世界に浸かっていた自分。
それと知らず、欺かれ続けていた毎日。
本当は辛いことなんてたくさんあるのに。悲しいことも苦しいこともそこかしこにあるのに。
やさしいだけの世界の外側には、いつも現実があったのに。
なにも見えてなかったんだ。
目が覚めたとき、別の世界へ来ていた。
やわらかい枕とシーツの上に寝ていて、毛布はあたたかかった。
大きな窓があって、大きな空があった。
空があった。
ちゃんと、それが空だと分かった。
目覚める前までの世界とは明らかに違う。
赤いのに、それが空だと分かった。まるで赤色のセロファンに眼を覆われているよう。
それを知覚した途端、どっと吐き気が込み上げた。脳が大暴れして、色覚の異常を訴えている。
(…だいじょうぶ)
自分で自分の脳を宥める。
(だいじょうぶ。きっとこれが、この世界の色なんだ)
頭の中で警報が鳴り響いている。
(こっちが本当の色なんだよ)
頭の中で警報が鳴り響いている。
(やさしいだけの世界じゃない世界に来たんだよ)
(だからだいじょうぶ)
脳は体に頭痛と目眩と耳鳴りを命じて、それを実行させている。
この体の中で、思考だけが穏やかだった。
(だいじょうぶだよ…)
涙が溢れ、流れた。それを拭う気にはならない。
他に誰もいない病室は空気を揺るがすものが無い。喋り声も衣擦れもない。さわやかな風だけが音も無く流れる。ゆるやかにカーテンが揺れた。
窓の外には大きな空が広がって、暖かい日差しが室内に差し込んでいた。
真木がやってくるまで、櫻はその空を見ていた。
真木の運転する車の後部席で、ひとり椅子に凭れる。
体の力を抜いて、車の揺れに身を任す。エンジンの音と、真木の声がやたらと遠くに聞こえた。
体調は最悪。意識の半分は眠っているような感覚。けれど、頭はいつも以上に冴えていた。
これから帰り着く家、そこで待つ人。そこにあるやさしさ。嘘。騙し、騙すこと。今まで見逃していた笑顔の向こう側。
(───…)
窓の外はもう暗い。
黒い空は赤いセロファンをかぶせても、やっぱり黒かった。
「さくらくんっ」
ぱたぱたと近づいてくる妹を見る気持ちが、今までと明らかに違う。
無知で、愚かなものだ。
まだやさしいだけの世界にいる妹はもちろんなにも変わっていない。変わったのは自分のほう。それは分かってる。ただ、その愚かさがとても汚らしいものに見えた。今までの自分も、そんな風に見られていたのだろう。
まだ残る吐き気に口を抑えると、史緒が心配そうな声を出した。
「ねぇ、ぐあい悪いの? へいき?」
まだやさしいだけの世界にいる妹へ。もしかして笑わなければいけないのだろうか。咲子のように。なにも知らない人間を騙すように。
「ああ、平気だよ。なんともない」
「……さくらくん…、どうしたの?」
「なにが?」
「こわいかおしてる」
「───」
無防備に覗き込んでくる。その無垢な顔に腹が立つ。
思わず自分の手のひらを見る。白い手のひらを見て色覚を確認する。異常警報が鳴っている。動悸が高まり耳鳴りが止まらない。
(大丈夫だって言ってるだろッ)
歯を噛みしめて体を黙らせる。もちろんそれで収まるわけではない、一時の凌ぎになるだけだ。
「さくらくん?」
「───亨はどうした」
強い声に機嫌の悪さを察知したのか、史緒は少し怯えた様子で一歩下がった。
「櫻!」
同じ顔の少年が駆けてくる。心配そうな表情で、気遣うように櫻の手を取った。
「倒れたって、大丈夫なの? なにかあった?」
すぐそこにあるのはやはり知っている顔で、知っている表情だった。
本気で心配している。
亨はまだ、あちらの世界にいた。
まるで水の中にいるよう。亨の顔が赤い色の中に沈む。櫻は溺れかけて藁を掴むように衝動的に自分の手のひらを、次に窓の外を見た。夜なので空は見えない。櫻は舌打ちした。
(分かってる。変わったのは自分だ)
「…櫻?」
「なんでもない」
「そんな青い顔してなんでもないわけないだろ。目? どうかしたのか?」
「!」
頭がカッとなった。
「なんでもないって言ってるだろ!」
あれだけの動作で亨は見抜いてきた。そういう相手だということは解っていた。それくらい、本当に近い存在だったから。
大声を出したことに史緒は縮こまり、亨にしがみつく。どこか不安を孕んだ瞳がこちらを伺う。
亨はまだなにか言いたそうな目をしていたが口を閉ざしていた。これ以上、史緒の前で言い合う気は無いらしい。
「今日はもう休むよ。亨、僕の部屋(こっち)には来ないで」
2人の横をすり抜けて歩き出す。亨の視線が追ってきたのは分かっていたけど無視した。
廊下に足音が響く。ひとつだけ。自分の足音だけが。
* * *
晴れた日に空を見上げるようになった。
そこになにか感銘を受けるわけじゃない。色を確認するだけだ。
冬の空は深さより広さを感じさせる。大気は冷たく澄んで、短い髪を梳いていく。広い空は吸い込まれそうに───赤い。
あの日の残像。きっと、本当の世界の色。
けれど、生まれたときから頭に染み込まれている色と、今この眼が見ている色の違いに相変わらず脳が騒いで、吐き気が込み上げる。見えているものは違う、それは違うと。
本で調べてみると、赤く見せているのは眼ではなく脳の方だとわかった。
眼は入力装置、ただのレンズにすぎない。入力された情報を処理するのは頭。形も、そして色も。
太陽光に含まれる青は、大気中の塵やゆらぎにぶつかって散らばる。それがヒトの目には青く映る。朝夕は太陽の入射角が浅く、大気中の通過距離が長い。そのぶん衝突が重なり、青は散らばりすぎて地表まで届かない。赤が残り、ヒトの目に映る。
それなら、この眼は塵が多すぎる空を見ているようなものだ。
とりたてて不可思議なことが起こっているわけではない。
それでも何度も、赤い空を見上げてしまう。
自分が「やさしいだけの世界ではない世界」にいることを確認するために。
咲子に会った。気持ちが落ち着くまでもう少し時間を置きたかったが、呼び出されたので行かないわけにはいかなかった。
亨も史緒も、真木もいない。ひとりで病室へ入った。
あの日、この部屋を埋めていた大きな機械はない。息苦しくなる電子音もない。暖かい日差しが差し込む室内はいつものとおりだ。そして咲子もいつもどおり、ベッドの上で上体を上げている。苦しそうな様子は無かった。そのことに心から安心した。
けれど咲子の表情は違った。いつものような浮かれた様子は無く、落ち着いて、探るような目を向けてくる。
櫻は咲子がそうしていたように笑った。
そうやって騙し合うことが、この世界の流儀なら。
「こんにちは、咲子さん」
いつものように笑ってくれると思った。
いつものように、本当に病気かと疑うような明るい声を聞かせてくれると思った。
子供のようなことを言って、婦長や真木を困らせて、叱られても悪びれず、笑ってくれると。
そうやっていつものように、安心させてくれて、また、こちらからも安心させるのだと。そうやって騙し合うのだと。
けれど。
「そんな顔で笑わないで」
咲子の表情は、とても悲しいものを見たかのように歪む。そこに絶望さえ見えるほどに。咲子はベッドに伏した。
「櫻…、あたしのせいなの───?」
ちゃんと、笑ったつもりだった。
咲子と同じように笑って、安心させてあげられると思ってた。
苦しみや悲しみ、見せかけの世界にいたこと、自分の無知を知ってしまったけど、見かけだけは「やさしいだけの世界」と同じになるよう、頑張って笑ったつもりだったのに。
それが咲子を悲しませるのなら、そんな努力は無駄だということだ。
それなら無理に笑う必要はない。騙し合う必要もない。
この「やさしいだけの世界じゃない世界」に、本気で接しよう。
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