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■04
 約束通り、香港へ行った。史緒と咲子は同行してない。
 父の友人だという蓮家の当主はかなり高齢で、その子供は13人いる。一番上は20代半ば、一番下は4歳だった。
 それぞれ難物で、とくに長男は清廉潔白を絵に描いたような人柄に加え文武両道。しかも周囲の評価に差異は無い。口数は多くないが足りないわけでもなく、人好きのする口調と表情と日本語で櫻と亨に挨拶をした。けれど、彼はこの特殊な家の中で、12人のそれぞれクセのある弟妹たちをまとめ、実質的に従えている。そのことから、穏和なだけであるはずがないことが解る。仲が良いとは思えない弟妹たちも彼の言葉に逆らえなかった。畏れではなく、彼が持つ「蓮家の長男」という肩書きとそこにある人格に忠誠心を持っているかのようだった。
 一方、彼のすぐ下の妹はとにかくうるさくて、気に入らないことは口にせずにいられず、辛辣な言葉を吐くのに物怖じしない、手を上げることを厭わない性格だった。これで医者を目指しているというから呆れる。
 兄姉総じて末妹に甘いという特徴もあった。その末娘は亨のことを気に入ったらしく、滞在中、ずっと亨の後をついて行動していた。

 末娘が亨を振り回してくれているおかげで、櫻は亨と離れる時間ができた。亨といると、しつこく問い掛けてくるので櫻は極力避けるようにしていた。
 屋敷内をうろついていると何人かの兄姉が声を掛けてきたが、適当に流してその場を後にする。敷地内の一部を除いて自由に出歩く許可を得ていたので、櫻はできるだけ人気(ひとけ)の無いほうへ足を運んだ。
 蓮家の敷地はとにかく広い。建物だけでなく、公園や草原や小高い山までも。

 見晴らしの良い場所に出て櫻は足を止めた。季節は冬なので、緑が色濃いとか草花が繁っているということはない。寒々しい景色だ。
 けれど、その広さに、はるか遠くまで広がる自然に胸を打たれた。
 こんな眼でも、景色に感動する機能があることに気付く。
 ───この眼の赤いセロファンはときどき外れることがあった。元の、「やさいいだけの世界」に戻ったのかもしれない。安堵か嫌悪か、複雑な感情が胸に灯る。戻れて嬉しいのか、戻ってしまって気色悪いのか。それを悩んでいるうちに、視界は赤に戻る。そのときも安堵か嫌悪か、諦めに近い気持ちが過ぎった。
 けれどもう、それもどちらでもよかった。麻痺したのかもしれない。もう、なにが正常でなにが正常でないか区別できなくなっているから。
 意識しないとこの眼が何色を見ているのかも分からない。
 櫻は長い時間、その場所にいた。その間、晴れ渡った空が青く見えることはなかった。まるでこの眼が拒むように、空だけは青く見えなかった。
「……っ」
 冷たい風に吹かれて身震いした。
 他に誰もいない草原で独り。まるでこの世界に独りだ。
 思考が命じるより先に指が眼球に伸びる。目蓋の際(きわ)に触れる。頭蓋骨と眼球の隙間がわかる。
 そのまま指を押せば、眼球は飛び出るだろう。櫻は指に力を込めた。本当に力を込めた。眼球が飛び出るより先に、眼球が潰れそうだった。
 櫻は日没までその場を離れなかった。



「櫻」
 部屋に戻ると亨がやってきた。あからさまに嫌な顔を見せても亨は気にしない。遠慮なく至近距離に入ってくる。こちらの意を汲んでやめてくれればいいのに。といっても、亨は気が利かないわけではない、分かっていて、強引に近づいてくるのだ。
「今日、どこにいたんだよ、蘭と探してたのに」
 蘭、というのは蓮家の末娘の愛称だ。
「なにか用があったのか?」
「一緒に遊びに行こうと思って」
「俺に構うな。勝手に行ってこい」
「───櫻」
 亨の呼び掛けが櫻の足を止める。
「眼鏡、似合ってないよ」
「そうかい」
「度が入ってないじゃないか」
「関係無いだろ」
「なにに苛立ってるんだ」
 亨が腕を握ってきて、逃がすまいとする。
「このあいだからおかしいよ。手のひらになにかあるの? 空になにかあるの? 眼鏡だって………、そうだよ、目に、なにか」
 櫻がまっすぐに見返したことで亨は言葉を閉じた。
 櫻は久しぶりに亨の顔をまともに見る。同じ顔だということはわかってる。以前は別の存在だと分からないほど同じだったのに今は違う。
 あの日までは、同じだったのに。
「櫻?」
「亨には、見えない?」
「なにが?」
 同じだったのに、もう違う。分かれていく。別れていく。離れていく。放れていく。もう戻れないことは、あの日、目覚めたときに解っていた。
 あんなに近くにいたのに。
「亨、青ってどんな色?」
「どんなって、空の色だね」
「───」
 笑えなかった。
 どうして亨はこの眼を持たない? 同じ顔が、なにも知らずに馬鹿みたいに笑っているのは無性に腹が立つ。いつまでもそっちの世界にいないで、ここに来ればいい。そうすればイチイチ苛つかなくて済む。
 亨も早くこの眼を持てばいい。
 そうでなければ目の前から消えて欲しい。
 目の前で笑わないで。
 あの晴れた冬の日は櫻を変えた。亨もなにかに因って変わればいいのに。
「へぇ。空の色って、青いのか」
 無意識に嗤っていた。
 吐き気と頭痛と眩暈はいつも一緒にやってくる。額の内側ががんがんするのが、吐き気なのか頭痛なのか眩暈なのか判らない。区別する必要もないかもしれない。
「櫻?」
「そろそろ離してよ」
 史緒を相手にしてもここまでは苛つかない。自分と似ているからこその苛立ちだ。
 目の前から消えてくれればいいのに。
「ちゃんと言ってくれないと分からない」
「以前は言わなくても分かってたよ」
「それは」
「わかってるよ、亨のせいじゃない。俺が変わったんだ」
 見ていたくない。
 亨は声を張り上げた。
「櫻になにかあって、それで変わったって櫻は櫻だ。それより、話してくれないことが嫌なんだよ」
「話してどうなる?」
「少なくとも、僕が櫻を理解できる。櫻が悩んでることについて、一緒に考えるよ」
「そんなのいらない」
 失笑が込み上げる。言ったところで亨はこの眼を持たない。「やさしいだけの世界」から抜けることはなく、無知で愚かで、騙されているだけの世界にいる。
「俺は悩んでなんかないよ」
 それなら同じ世界にいる史緒の面倒を見ていればいい。自分のことは放っておけばいい。
「確かに以前からは変わったけど、今は頭が冴えてて、いい気分なんだ。放っておいてくれていいよ」
 変わってない自分を見たくない。変わった自分を見られたくない。この眼を持たない自分と比較したくない。
 疲れるから。嫌になるから。みじめになるから。


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