キ/GM/41-50/47
≪7/16≫
香港から帰って数ヶ月。春。
咲子が外出許可が取れたと騒ぐので、別荘に行くことになった。
櫻は留守番を申し出たが、別荘へは真木も同行する、家に一人残していくわけにはいかない、と説得された。咲子が全員一緒じゃなきゃヤダと駄々をこねたせいもある。
別荘は山の中にあって、季節柄、桜が満開だった。
不快ではない程度の強い風があって、花が散り、舞っている。
史緒は声をあげて庭に駆けていった。そのあとを亨が追う。櫻はその様子を部屋の中から見ていた。
冬を越した芝は濃く色付き、それを埋めるように花びらが舞い降りていく。連翹と雪柳も列を作るように満開だった。その花々の中を、史緒と亨は走り回っていた。
「櫻くん」
咲子が隣りに立った。その姿が赤いセロファンの向こう側にある。あの日のことを思い出して感情が暴れた。それを気付かれないよう、眼を逸らす。
咲子に会うのも久しぶりだった。思い返してみれば、あの日の後、一度呼び出されて以来だ。気まずい状態で別れたのに、咲子はまるでそれを忘れたとでも言うように、また、微笑う。
そうやって櫻を騙す。
「亨くんとケンカでもした?」
「そう見えるのならそうなのかも。でもよくあることだよ」
「そうだね。小さい頃は、元気な男のコ2人でケンカが始まると、あたしはもう手を出せなかったもん」
それを思い出したのか、咲子は楽しそうに笑った。櫻は笑わない。もう無理して笑うことはやめている。
咲子は声を改めて言った。
「…なにが、気になってるの?」
さすがに、「なにかあったの?」とは訊いてこない。咲子は当事者だ。
櫻が答えないでいると、咲子は軽く息を吐く。
「櫻くんは亨くんと違って、いつも一人で抱え込んじゃうから」
気遣うような、心配するような声で櫻の本心を引きだそうとするのは亨とよく似ている。
「昔してた喧嘩って、ほとんどは亨くんのほうから仕掛けてたでしょ? それってお兄ちゃんに甘えてるのよ。悲しいことも気に入らないことも、櫻くんには遠慮無くぶつけられたの」
櫻は鬱陶しそうな態度をあからさまに見せて、それをやめさせようとした。しかしその意を汲まずに話を続けるのも、亨と同じだった。
「櫻くんは、…なんて言えばいいかな、“自分はお兄ちゃんだから”って、責任感があるのよね。簡単には口にしてくれない、亨くんにも史緒にもマキちゃんにも、あたしにも見せない気持ちを持ってるんじゃないかなって、心配になるのよ」
「心配なんかいらない!」
思わず声が荒れる。
咲子の母親面が癇に障った。
「俺の心配なんかいらない!」
あんなに苦しんでいた咲子、吐血するほどの病気を抱えているのに、どうして他人の心配なんかするんだろう。
「櫻くん…」
咲子の病気は治らないのだろうか。ずっと苦しんできて、これからもその体を抱えて生きるの?
いつも笑ってる姿しか知らなかった。物心ついた頃からその笑顔があって、亨とケンカしても真木に叱られても学校で嫌なことがあっても、やさしく迎えてくれた。抱きしめてくれた。ときどき子供のような言動があって、自分たちがこの人から産まれたなんて想像できなくて。でもその存在に支えられていた。
その体があんなに苦しみに歪むことがあるなんて。
無知だった。知らなかった。知ろうとしなかった。馬鹿だ。やさしい笑顔だけ信じて、疑おうともしなかった。その体の苦しみを解ってあげられなかった。あんなに、苦しんでいたなんて。
「櫻くん、見て」
咲子は窓の外を指す。
文字通りの桜吹雪は見ていて飽きることがない。赤いセロファンかかっていても分かる。風が花を浚(さら)い、花が空に舞う。幻覚を見てしまいそうな、視界を埋め尽くす桜景色だった。
「櫻くんと同じ名前の花だよ」
「知ってるよ」
「その名前、イヤだった?」
「別に」
「咲子から生まれるのは“春の花”。ずっと前から決めてたの。子供が生まれたら、桜と名付けようって」
「…へぇ」
「櫻」
「なに」
「あのね、桜の花言葉にはこんなものもあるの」
「?」
「“あたしをわすれないで”」
「────」
一陣の風が吹く。その風の向こうで、咲子は幸せそうに微笑った。
その想いを形にできた満足感からか、それを本人に伝えられた達成感からか。咲子は曇りの無く微笑った。
喉元に刃物を突きつけられた気がした。
咲子がとても遠くになる。赤に埋もれるように。
咲子はそれを口にすることで櫻になにを伝えたかったのか。
愛情? 笑わせる。押し付けだ。
満足感? 達成感? 違うよ、そんなことを言われても嬉しくない。とても怖いのに。
≪あたしをわすれないで≫
いなくなることが前提?
託されていた。生まれたときから、その名を以て。そんな重いものを。
「……ッ」
胸でなにかが破れた。
大声をあげたい。
「櫻」を殴りたい。「櫻」をひき千切りたい。「櫻」を潰したい。
部屋を飛び出す。
背後で咲子が自分の名を呼ぶ。さっきまでとは違う、その名前はもう嫌いだ。もう、嫌いになった。
そのまま玄関を出て、花の嵐の中へ、目的も無く駆けた。
(いやだ)
(そんなもの押し付けないで)
花びらで視界が霞む。赤い空さえも覆う吹雪。その中を走った。錯乱していた。
芝の上には冬の枯葉や枯れ枝がそのまま落ちていて走りにくかった。地面を蹴るたびにパキポキと小枝が折れる。
桜吹雪の道を一心不乱に駆ける。このままどこかへ行ってしまいたかった。消えてしまえると思った。
「櫻?」
「!」
吹雪の中から、自分と同じ顔が出てくる。その顔がくったくなく笑った。何度突き放しても、変わらず笑いかけてくる、同じ顔。
以前は自分もそんな表情ができていたことが信じられない。
もう、笑えないのに。どうして目の前にあるの?
「見ろよ。きれいだよ」
手を広げて、吹雪の中に埋もれる。そのまま、消えてしまうように。
「……ッ」
歯軋りが体内に響く。
自分はもうそんな風には笑えない。笑えなくてもかまわない。だから、目の前で笑うのはやめろ!
もう、見せないで。比べさせないで。
惑わされそうな、酔ってしまいそうな桜の嵐。
横で同じ顔の少年が笑っている。その横顔に見入る、笑えない自分。
どこかで声がした。
史緒だ。近くにいるらしい。同じ顔の少年は踵を返した。
(──…)
櫻は腰を下ろし、両腕で握れるほどの枯れ枝を手に取る。自分と同じ名前の花の中に消える背中に向けてそれを振り上げる。そして力任せに振り下ろした。
確かな手ごたえがあった。
あの日と同じような赤が視界に吹き上がる。あの日と同じように顔に温かいものが飛び、あの日と同じようにむせるような鉄の匂いがした。
この日、阿達亨は死んだ。
≪7/16≫
キ/GM/41-50/47