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■05
 思わず嗤ってしまったのは、史緒が見ていたから。

 亨が倒れるのを。
 鮮血が芝を汚すのを。
 そこに花が散っていく様を。

 図らずも同じものを見た。
 ───さぁ。
 次に目覚めたとき、どちらの世界にいる?


 花の嵐の向こう側から、咲子の声を聞いた気がした。

 そのあとのことはよくおぼえていない。




 1週間のあいだに亨の葬式は意外なほどすんなりと終わった。
 たくさんの大人たちが目の前を行き交う中、櫻は気の利いた行動を取れなかった気がする。体に軽い痺れが残る、花の中に倒れた「自分」の幻影の、余韻がなかなか消えなくて。
 史緒はずっと寝込んでいた。
 こっちには来られなかったのだ。もしかしたら同じ眼を持つかもしれないと思ったのは期待外れで、史緒は櫻を見ては悲鳴をあげ、怯え、部屋に逃げ帰っていた。
 咲子は何故かほとんど家にいなかった。
 病院にもいない。彼女にしては珍しく、外出と外泊を続けていたという。葬儀の参列はしたものの、それ以外はほとんど見かけなかった。あの日、亨を乗せていく救急車に同乗した、そのときから。
 ようやく家の中が落ち着いたのは半月も経った頃。
 久しぶりに顔を合わせた咲子は、櫻に哀れみの表情を向けた。
「史緒も…、巻き込んじゃったね」
 言うことはそれだけ?
 どうして責めないの?
 咲子は、櫻が亨を殺したことを知っているはずなのに。


*  *  *


 深夜、2階から穏やかでない悲鳴が聞こえた。
 慌てて様子を見に行ったのは最初の1回だけで、今ではほぼ毎日続くそれを煩(わずら)わしいとしか思えなかった。
 櫻はうんざりとして、読んでいた本から目を離す。
(またか…)
 上の階。史緒だ。亨が死んだ日から、ずっと。
 夢でも見るのだろうか、とっくに寝ているはずの史緒の声が闇を切る。
 真木がいる時はまだいい。いない時は寝付くまでずっと泣き続けてるのでうるさくてしかたない。
「おいっ」
 我慢ができなくなって、史緒の部屋のドアを蹴破った。
 すると史緒はいっそう高い声をあげて、狂ったように、縺(もつ)れる足で部屋の隅に逃げる。全身で櫻を拒否する。まともに言い返すこともできない。無知な人間がさらに無能になったということだ。
「うるさいんだよ、静かに寝ろ」
 櫻と史緒の変化のきっかけは同じものだった。
 櫻は外を向いて、史緒は内を向いた。
 その違いは大きすぎて比べる気にもならない。

 階段を下りたところで階段の照明を落とすと、史緒のせいで妨げられていた夜の気配が幕が下りるように戻ってきた。
 櫻はふと、そこで足を止めた。
 薄暗闇の廊下に月明かりが落ちて、視界をモノトーンにさせる。櫻の目には赤く映るが本当はグレースケールに近いのだろう。
 廊下は身動きを許さないほど静かで、冷えた空気が満ちている。
 それは不快ではない。
(……)
 しん、と音が聞こえそうな静寂に浸かる。見慣れたはずの家が闇に支配されている。闇が支配する家の中でそっと息をすると、それすらもいけないことだと、家に責められているようだった。
 見慣れた廊下。玄関。階段。その下の物置。柱の低いところに傷を付けてしまったことは真木には秘密にしていた。居間につながる扉があって、その奥にキッチンとダイニング。そこから庭に降りられて、遊んで。泥だらけの足のまま家に上がってよく叱られていた。
 よく、ふたりで。
「……?」
 ひとり、月明かりの廊下、自分の影が落ちる。そっと手を動かせば思い通りに動く自らの影。あまりにもくっきりと浮かび上がる陰影。
 奇妙な違和感があった。
 まるでもうひとり、そこに存在するかのように。
(亨)
 この家にはもう亨がいない。この世界にいない。もう二度と会わない。会えない。会わなくて済む。二度と会えない。
 それなのに。
(どうして?)
 なんで、喪失感がないのだろう。
 この手で殺したはずなのに。
 あの日、血が飛んだのに。
 死んだのに。
 どうして、半身を失った気がしないのだろう。
 どうして。
(どうして?)
 どこの窓も開いていないのに、冷たい空気が一筋、横を通っていった気がした。
 思考がなにかに突き当たる予感がある。けれどその「なにか」は、まだ遠い。ずっと遠い。けれど。
 ぞわりと背筋が粟立つ。
 「なにか」に書いてある文字が解った。

 ───亨はいる?


*  *  *


 馬鹿みたいなことだ。
 けれど一度気になると、それがさも事実であるかのように、まるで強迫されているように胸に残る。いくら打ち消そうとしても、その意志に逆らってつきまとう不安。その不安に従って、何度も隣りを確認した。
 そこに、亨がいないことを確認せずにはいられなかった。
 もし亨がいなくなったら、片腕を落としたような喪失感があると思っていた。極端に軽くなった体に、うまく歩けなくなるほど、体の半分が殺(そ)がれたような虚脱感があると思っていた。
 いや、あるはずだ。
 それなのに、実際には喪失感の欠片もない。亨は死んだのに。どうして。まだいる? まさか本当に? いるの?
 あまりにも突飛な考えに、誰かに言うこともできない。

 あの日、亨は救急車で運ばれた。同乗したのは咲子。残されたのは真木と半狂乱の史緒と、芝の上の赤。失血の致死量なんて知らない。けれど色濃い芝の上には赤い血が池になっていた。赤い景色の中に、赤い池ができていた。
 搬送先の病院で亨が死んで、葬式があって、焼いて、納骨をして。───それでも亨はいなくなってないと? 酷い矛盾だということは分かってる。それでも完全に否定できなかった。自分はどうかしてしまったのだろうか。

 あの日、消したはずの、自分ではない「自分」。
 変わらずに青い空を見ていた「自分」。
 同じ風景を見ない「自分」。
 その存在がまだいる? そう思ったら寒気が背筋を逆撫でした。


 一月と少し経ったとき、蓮家の一行が来日した。わざわざ足を運んできたのは4人。蓮家の爺さん、長男、2番目、そして末娘だ。
 名目は、蓮家当主の友人・阿達政徳の息子の追悼。すでに葬儀から日は経ち、納骨も済ませていたので、櫻が一行を墓所へ案内した。
 普段はうるさい2番目も視線を落として櫻にお悔やみを口にした。2番目とは違う意味で口を閉じることが無い末娘も、この日は顔を強ばらせて、周囲と目を合わせようとしない。
 彼らも含めて、阿達家とその周辺を取り巻く喪中の雰囲気はまだ長く続きそうだった。
 櫻はそれらすべてを空々しく感じていた。どこか嘘くさく、芝居がかって、周囲の人間が自分を騙しているような気さえする。
 亨の墓原の前に立ってもそう。半月前、納骨に来たときとはあきらかに気持ちが違う。この下に亨がいるとは到底思えなかった。
 思い込みが激し過ぎるのだろうか。もう疑念しか湧かない。
 片割れを失った悲しみも淋しさもない。亨がまだ生きていながらここにいない理由も、亨という存在を捨てた理由もどうでもよかった。この赤い空の下、どこかでまだ生きているという確信しか、胸には残っていない。

 蓮家一行の墓参り姿を後ろから見ていると、一人、挙動がおかしな人物がいることに気付いた。
 末娘だ。
 小さな体は大きな目で墓石を睨み付けていた。普段の彼女からは想像もつかない厳しい表情で。兄姉が黙祷しているのを拒絶するように、小さな手のひらを握り、顔を上げて、瞬きさえ許さないというように。
 末娘は亨を慕っていた。それなのにその表情は少しの悼みも浮かべていない。
(───…まさか)
 末娘の横顔にはあきらかな意志があった。視線を感じたのか、末娘は釣られるように顔を上げ、そして目が合った。
 固定された視線に目に見えない情報が行き交う。
 読んで、読まれた。櫻は叫んでいた。
「おまえもか…ッ、蘭!」



 同じことを考えていたのは自分だけじゃない。それが解ると迷いは薄れ、確信が強まった。
 亨はいる。まだ、いる。
「じゃあ、櫻さん。約束しましょう?」
「約束?」
「亨さんを見つけたら教えて。あたしもそうしますから」
 「ある」ことより「ない」ことを証明するほうが極めて難しい。なぜなら、「ある」ことを証明するには一例でもそれを提示すれば済むが、「ない」ことを証明するにはすべて「ない」ことを示さなければならない、悪魔の証明。
 今、直面している問題も似たようなものだ。亨が生きているなら必ずここに戻る。自分の傍らに。史緒の隣りに。咲子の下に。
 世界中、すべての人間を確認するよりずっと容易い道だ。
「いいだろう。亨を見つけたら必ず報告しろ」
 末娘は大きく頷いた。


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