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■07
高校生になって煙草を吸い始めた。深く考え込むときのちょうど良い手慰みだ。
そしてあれから長い時間経ったというのに、2階の住人の夜の煩さは相変わらずだった。昔のように毎日ではないし、一条がすぐに止めに行くので気に障ることはない。けれど、その成長の無さには嫌悪を通り越して賞賛さえ感じる。
ところが、先週からそれがぴたりとやんだ。夜だけでなく、櫻とのニアミスにも史緒は無駄に騒がなくなった。
やっと成長したとか、時間による記憶の風化とか、一条が役に立ったとか、そういうわけではない。
まず、当人は明らかに寝不足。よく居間のソファで落ちているのを見かけた。ずっと前に拾ってきた黒猫が、まるで周囲を見張るように史緒の傍らに座っているのが構図的におもしろかった。
史緒は夜、寝ていない。いつかの夢に魘(うな)され脅(おど)されて、騒ぐことがないように。無駄に騒がしくしないように。
なぜか。
意図は見えてる。果たしてその意地がいつまで保つかは見物だ。
少し前にまたひとり増えた同居人。今度は父の都合で回されてきた七瀬司(ななせつかさ)。
全盲なのだというが、頭に巻かれた包帯に目も隠れているので、見えないことには変わりない。カテゴリ分けは意味が無いように思えた。
見えなくなったばかりということで、行動の大部分に迷いや怯えがある。思い通りにいかない苛立ちに、精神的に荒んでいくのが端から見ていても分かった。いっそ清々しいほどだ。
ある機会に七瀬が包帯を外しているところを見かけた。目の回りに細かいひっかき傷。その傷には覚えがある。一時期は櫻の顔にもあった。掴めない赤いセロファンを取ろうと、何度も爪を立てた。七瀬も同じ。つかめない目隠しを取ろうとしたのだろう。
まったく見えないということがどういうことなのか、観察していると気付くことがある。どこが弱く、なにが欲しいのか。それを試すためにちょっかいを出してみたりした。
とくに突発的な音に弱い。家鳴りにさえ酷く動揺している。玄関のチャイムや電話のベルは言うまでもない。
史緒が寝不足になってまで夜中の悲鳴を自制しているのは、気を遣うポイントとしては正しい。
その史緒と廊下で鉢合わせした。
史緒は体を小さくして胸元の猫にすがりつく。そんなものにしか頼れない、頼るしかない姿が愚かで、哀れでさえある。
足が動かないのかその場から逃げもしない。櫻が去るのを待っている。自分からはなにもしない。他力本願な被害者面は本当に腹が立つ。
その顔に煙草の煙を吹きかけると、史緒は煙たそうに顔を背けた。
「なにか言えよ」
唇を閉じ、櫻からのプレッシャーに絶えている。
「意地でも喋らないつもりか?」
どうしても喋らせたくて、興に乗って煙草の先を猫に向けた。すると史緒は櫻の意図に気付き、猫を守るように慌てて抱きかかえる。
(───…)
別に気にならなかった。
櫻は構わず腕を伸ばし、煙草の先を史緒の首に押し当てた。
史緒の悲鳴は音にならなかった。腕から猫が飛び降り床に着地する。
我慢しきれない声をがくがくと震える顎で噛み殺していた。史緒は壁伝いに倒れ込み、熱いのか痛いのか、汗を滲ませた顔が歪む。
「これでも声を出さないとはご立派」
本当に心からそう思う。他人のためにそこまでできるならいい根性だ。少しは見直した。
その後、一条が飛んできて煩く言ってきたが、そんなのはどうでもいいことだ。
「あまり騒がないほうがこいつの為だと思うけど」
史緒と懇意の一条でさえ、史緒が夜に寝ない意図に気付いていない。
もし一条ではなく亨だったら、もちろん解ったはずだ。
亨ならそれを踏まえて、史緒に傷をつけた櫻に、なにを言うだろう。
香港へ行く、と七瀬が言った。
戸惑っているような、そして安心したような様子で。
やっかいな兄妹がいるこの家にとうとう我慢できなくなったか。
逃げ出す場所がある人間は幸いだ。現状に不満があり逃げ出す場所もないなら、耐えるという選択肢しか残らないので。
(香港───、…蓮家か)
七瀬の逃げ場としては妥当、おそらく最も待遇が良い場所だろう。
さて、誰の口利きか。
父が家のことに気が回るはずない。咲子もこの家の現状は分からないはずだ。真木と一条にそこまで手を回せる力はない。とすると答えはひとつ。
「史緒か」
少しは頭が使えているようだ。いや、閉じこもっていながら意外と状況が見えていることを褒めるべきかもしれない。
いっそのこと史緒も逃げればいいのに。
七瀬と一緒に香港へ行ってしまえばいい。香港なら許す、別に留めはしない。
香港には蓮家の末娘がいる。亨を見つけるための餌が櫻から逃げても、香港にも眼はあるから。
「蓮家の末娘に伝えろ。───捜し物は見つかったか、ってな」
答えはノー。
これはお互いを監視するための挨拶代わり。
ちゃんと目を光らせているか。見過ごす隙を作っていないか。既に見つけていながら抜け駆けしていないか。
亨を捜し出すためにお互いの眼を利用し合っている、そのことを確認するための牽制。
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