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■08
 この色に、ときどき悶えることはあった。
 飽きる、という感覚が酷く折り重なった状態。なにを見ても赤・赤・赤・赤。色に脅迫されている。夢まで赤くなったときは目覚めてから吐いた。
 ただ、それらはやはり精神的なもので、日常生活を脅かす身体的な不具合にはならなかった。
 生活の中で最初に不便を感じたのは交通信号だったが、左か右かで覚えるのはそう難しいことではない。他人との会話のずれはうまくごまかし、ジョークにして切り抜けたこともある。
 ただ、今もひとつだけ。晴れ渡った空を見るのは苦しい。

 窓の外を見下ろす。
 眼下には、塀(へい)を境にして毛色の違うふたつの景色があった。
 木陰が多い病院の敷地内と、その外側を取り巻くアスファルトの道。それらは時間の流れ方も違う。忙しなく動く塀の外に比べて、内はのんびりとしていた。
 皆、何かしらの病を抱えているのは内も外も同じだ。その病のせいで外側で暮らすことが困難になった者が内側へやってくる。その両側が交わることは稀。
 己の世界しか見えてない人間のなんと多いことか。
 自身が浸る都合の良い世界に騙されたい人間がほとんど。
 騙し騙されて笑っていることがそんなに幸せだろうか。
 目の前の人が本当に笑っているか、それすら疑わしいのに。
 自身がいる世界の脆さにどれだけの人が気付いているだろう。いつも意識しているだろう。危機感を持っていられるだろう。
 胸が潰されそうなニュースが毎日のように流れてくる、この世界で。
 己の身に起きて初めて、騙されていることに気付く愚かしさに。

「櫻くん」
 病室の中から名を呼ばれて振り返る。返事をするのが億劫なので黙っていた。
「なにか面白いものでも見えるの?」
 ベッドの上で上体を起こしている母が笑いかける。同じ空間にいながら沈黙が絶えられなくなったのか、単に振り返って欲しかったのか、純粋に櫻の視線の先に興味があったのか。いくつか浮かんだ項目は後ろにいくほど可能性が高い。
「面白くはないけど、興味深いよ」
 櫻は放課後によく咲子に会いに行った。もちろん、腹を探りに。
 あれから何度も、櫻は咲子を問いつめた。直接的にも間接的にも、何度も何度も、亨について。そのたびに咲子はさりげなく、ときにはわざとらしく話題を逸らした。否定も肯定もしない。そこに意図があることは明らかなのに、咲子は明言せず、あいまいにしていた。
「なぁに? 興味深いものって」
 人間。とても興味深い観察対象。
 とは答えずに、手を振って回答を拒否すると、咲子はそれ以上訊いてこなかった。別のことを口にした。
「そういえばニュースがあるの」
「?」
「七瀬くんが戻るらしいよ。政徳クンが言ってた」
「ななせ…?」
 一瞬、誰のことだか解らなかった。でもすぐに思い当たる。
「懲りずにまた来るか!」
「七瀬くんが戻ってきたら、ここに連れてきてよ。前のとき、会うタイミング逃しちゃったの」
「…めんどうくさい」
「ぶー。いいよぉ、じゃあ和くんに連れてきてもらうから」
 どうして蓮家でおとなしくしていないのだろう。
 家に出入りする人間が増えることは好ましくなかったが、一方で七瀬司はおもしろい観察対象でもある。父親に直訴してまで拒絶したい人間ではなかった。


*  *  *


 学校では真面目だった。学業もクラブ活動も友達付き合いも。
 将来を考えれば人脈作りは重要。同じように考える同級生は少なからずいて、櫻の言動の端々に棘を見ても話しかけてくる人間はいた。櫻の言葉に傷付いて二度と近寄らなかった人間も。肩書きは社長令息、わざとらしく近寄ってくる人間には慎重に接したが、「友人」という関係で紹介できるで同級生は少なくなかった。
 高校生になってからは父親の会社にも顔を出していたし、大きな催しに同行したりと、わりと忙しい毎日を送った。
「咲子の様子はどうだ。よく見舞いに行ってるんだろう?」
 と、父によく訊かれる。仲が良いと思われても困る。
 父のことは割と嫌いではなかった。他人から見たとき父親としての評価が下がるのはしかたないとして、会社での仕事ぶりは素直に尊敬する。
 けど、昔からときおり父が櫻に向ける視線は気になっていた。
 同情したような、憐れむような目。
 仲の良い弟を失って可哀想と思われてるのかと思った。けれどそうじゃないことが解ってくる。亨をなくして、酷く変わってしまった櫻を憐れんでいるのだ。
 そんな目を向けないで欲しい。気分が悪い。
 どうしてそんな目で見るの?
 自分は「加害者」なんだから、憐れまれる謂われはないのに。


*  *  *


 その日、いつものように病院へ訪れると、受付で呼び止められた。
「櫻くんっ!」
 顔見知りの看護士が早足で近づいてくる。
「はい?」
「これから咲子さんのところ? ちょっと待って」
 なにか良くないことを言うときの顔だ。
「…母に、なにか?」
「それが、今朝、散歩中に発作がおきて。最近はなかった酷い症状だったから───…あ、待って! 櫻くん!」
 櫻は看護婦の話を最後まで聞かずに背を向けていた。心臓が凍ったかと思った。
 禁止されている廊下を走り、階段を駆け上る。
 頭痛があった。
 幼い日のことを思い出して。
 あの日も、こうだった。一人で、真木の言葉を聞かないで。
 咲子は? 咲子の容態は?



「あー、こんにちは。櫻くん」
 息を切って肩を上下させて病室に駆け込んだ櫻に、咲子は脳天気な声をかけた。
「───」
 どっと脱力感があって、息を整えるのに時間がかかった。
 深呼吸してやっと顔を上げると、咲子は微笑っていた。数時間前、あの日と同じように苦しんでいたとは思えないやわらかさで。
 だけど顔色は良くない。やつれているようにも見えた。発作の苦しみと闘ったあとの疲労は隠しようがない。
「来てくれて嬉しいよ」
 櫻は大股でベッドに近づき、脇の椅子に腰掛ける。
「…具合は?」
「大丈夫。ありがとう」
 咲子は笑って、窓の外に視線を移した。櫻は掛ける言葉が見つからず、咲子の横顔を見ていた。大きな安堵の溜め息を、気付かれないように静かに吐き出した。
 窓は3センチほど開いていて、カーテンが揺れている。外は天気は良く晴れているけれど強い風が吹いていた。木々が揺れ、葉擦の音が室内まで聞こえてくる。春の嵐を、咲子はずっと眺めていた。
 長い時間があって、そのあいだに何を思ったのか。
 突然、咲子の表情が歪んだ。
「咲…?」
 複雑な表情に変わる。痛いのか苦しいのか悲しいのか辛いのか、なにかに絶望したような。
 ───諦めたような。
「あるよ」
 ぽつりと、短い言葉を唇が紡ぐ。
 窓の外を見る咲子の横顔はずっと遠くを見ている。
 櫻はその言葉の意味を知るより先に、奇妙な予感に捕らわれた。
「……なに?」
「櫻が捜しているもの、あるよ」
 今度ははっきりと。
 咲子はまだ横顔を向けている。けれどそれは、間違いなく櫻に向けられた、重大な意味を持つ「自白」だった。
 櫻は一瞬、意味を捉えかねる。
 あまりにも突然すぎて。
 何年も抱いていた疑問。咲子に問い詰めてきたこと。蓮家の末娘と確認し合ってきたこと。
 櫻は思わず椅子から立ち上がっていた。椅子が音を立てた。
 咲子は意志をもった表情を櫻に向けてくる。
「なんだって?」
 凄んでみせても、咲子の表情は動かず、櫻の目をまっすぐに見て逸らさない。
「でもあきらめて。あなたの半身は、あたしの分身になったから」
「───…ッ!」
 激情のあまり声にならなかった。
 今、はじめて咲子は肯定した。
 亨の存在を。
(亨はいる)
(それを仕組んだのは咲子)
 何度も疑ってはまた戻る。繰り返し繰り返し、同じところへたどり着く疑問。
 咲子はずっとずっと隠していた。
 なぜ?
 なぜ、今になって?
「自分の半身を捜すのはあきらめて。半分でいることに不安にならないで。半分じゃないの、櫻は櫻でひとり、ほかの誰と比べても意味ないの。ちゃんと自分のこと考えて。誰の姿も通さずに自分を見てあげて」
 咲子の言葉は耳に入らなかった。
「……うるさいッ」
 怒りに任せて咲子の胸ぐらを掴む。水色のカーディガンが背後に落ちた。
「!」
 櫻は愕然とする。
 驚くほど簡単に、その上体を引き寄せることができた。その肩の細さ、体の軽さ、力の無さにはっとする。
 咲子は動じない。
「大きくなったね。もう男のコじゃないんだ」
 小さく笑う。
「一生に一度くらい息子に殴られておくのも悪くないかな。でね? 政徳クンに言いつけるの。そのあと櫻は、政徳クンからゲンコツもらうのよ?」
「……ッ」
 怒りのせいで腕が震える。でももちろん、咲子を殴れるはずもない。
 その心情を知ってか知らずか、咲子は笑っている。いつもとは違う、含みのある影を落とした笑みだった。
「…帰るっ」
 櫻は踵を返して病室を飛び出した。
「櫻くん! また来てね!」
(ふざけるなっ)
 廊下に出て後ろ手でドアを閉める。力を加減できず、破壊的な音が響いた。
(やっぱり咲子が…っ)
 わかっていたはずなのに、改めて認められるとショックが大きい。
 生きてる。生きてる!
 咲子が隠していた。どうして? どこに? 今、どこにいる?
 泣きそうになった。
(どこにいる? 亨───!)

「…櫻?」
「!」
 名前を呼ばれて顔を上げると、廊下の先に一条が立っていた。
 ここにも一人、咲子の真相を知らない人間。笑顔に騙されて、騙されることに浸かり、それに疑問すら抱かない。
 嫌みを言ってる余裕はなかった。無視して横を通り過ぎた。
「おい、具合悪いのか?」
 苛々する。その温さに鳥肌が立つほどに。
「…っ」
 一条が持っていた花束を払い落とした。床に散った花弁を踏みつける。
 自分だったらこんなものいらない。なんの気休めになるというのか。
 それでも咲子は喜ぶだろう。いつもの笑顔で。
「───…ぁの、狸が…ッ」


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