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■09
持っていた雑誌をそっと構えて様子を見ていると、驚いたことに七瀬は直前で足を止めた。
あと一歩進んでいたら、顔面から雑誌の表紙に突っ込んでいたのに。どの知覚をもって察知したのだろう。
「櫻?」
さらに名指ししてきた。随分、眼が良くなったものだ。
「惜しい。あと一歩進んでたら、目蓋に刺さってたのに」
と揺さぶりをかけるとと、七瀬は凍りついた。
「え」
その様子が可笑しくて笑う。
「冗談だよ」
会ってみれば、2年前のような、突けば壊れそうな危うさはない。ひとつひとつの行動に迷いがないし、櫻に対しても、不満や不服はありそうだが怯えはない。自負と自信がかいま見え、計算された物言いをするようになった。
己に迫る危機を(半ば無意識に)予測・計算しながらのその行動は、櫻が理想とし周囲の人間に要求しているものに近い。
おそらく七瀬はもう、掴めない目隠しを取ろうと顔に爪を立てることはないのだろう。蓮家の爺さんと2番目になにを仕込まれたか知らないがその成長ぶりは目を瞠るものがあった。
しかしそうなってくると、相変わらずの史緒の無能さが際だつ。さすがに深夜に騒ぐことはもう無いが、部屋に閉じ篭もって滅多に家から出ない。勉強は一条に教えられていても、社会復帰は絶望的と思われる。
七瀬に訊かれた。
「櫻は見えてるのに、どうして僕が視(み)ているものが解るの?」
おもしろい質問だった。
お互い持っている機能が違うのに、どうして有効な嫌がらせができるのか。どうして七瀬が視(み)ているものを脅かすことができるのか。
視力があるだけの人間からは、こういう質問は出てこない。
けれど七瀬は勘違いしている。櫻にとっては、相手の目が見えようが見えまいがやることは同じだ。
子供の頃から言われていた、少しばかり相手の言動の先を読むことが得意だということ。それをどう利用するか。
相手のボーダーラインを知り、どこで崩れどこで立てるのか。次に同じことをされたとき、そのラインの位置はどう変わるのか。経験から危機感を持っていられるか、身近な平安が泡沫だと忘れずにいられるか。
目の前に立つ人の笑顔も、ちゃんと疑えるか。
それが櫻の観察。
どうして解るのか? 答えは簡単。けれど皮肉にも、その答えこそ七瀬にはできないことだ。
「見えないおまえには解らない。教えても無駄」
見えている人間にだって解ってもらえない。
そう、幼い頃から、───亨以外には。
* * *
色付き始める芝生の上に薄紅の花が咲く。満開にはまだ遠い五分咲きの枝が春の嵐に揺れる。
それを近くに見たいと咲子が駄々をこねて、それがあまりにもうるさかったので、しょうがなく櫻は車椅子を押した。病院のすぐそばの公園。車椅子で、というのが、医者からの外出許可条件だった。
外に出た咲子は歓声をあげた。
椅子から乗り出すように、花が咲く枝を見上げる。伸ばした細い指は花には届かない。けれど咲子はそれを嘆きはしない。まるで、届かないことが楽しくてしかたないというように。
指を膝の上に戻して、なにかに満足したように微笑う。暖かい日差しの中で。
「櫻」
儚く、深い声が大気に溶けた。
「ありがとう」
「あたしから生まれてきてくれてありがとう」
「なんども会いに来てくれてありがとう」
「あたしは幸せだったよ」
「この世界に生まれてよかった。政徳クンに会えてよかった。櫻と亨と史緒に会えて、本当によかった。だからたくさん笑えたの」
「櫻…」
血が通(かよ)っているのか疑わしいほど冷たい指先が、櫻の頬に触れる。
「ごめんね」
ぎくりとした。
何に対しての謝罪なのか判らない。眼のことを見抜かれていたのかと思ったがそうではなかった。
「櫻がいろんなものを嫌うようになったのはあたしのせいだね」
「…いつの話だよ。関係ないだろ」
「ちゃんと返すから。探さないで。誰とも比べないで、幸せでいて」
咲子は空を仰ぐ。喉が詰まったのか、かすれた声で言った。
「この告白を聞いてくれてありがとう。櫻。愛してるわ」
櫻は空を仰がなかった。足下の芝を見ていた。
今度こそ別の色を見ていると見抜かれそうな気がして。
それを恐れたから。
そして夜中に電話が鳴り、咲子が死んだことを告げた。
咲子は最期まで痛みを口にしなかった。子供たちに苦しむ姿を見せず、ずっと笑っていた。
彼女は幸せだったと言った。本当に?
櫻の前で血を吐いたのは何年も前。あの頃すでに、咲子の体はぼろぼろだったのに。
何年も独りで苦しんでいたはずなのに。
それでも彼女は幸せだっただろうか。
(最期まで口を割らなかったな…)
そこまでして何を守りたかったのか。亨か。史緒か。それとも。
「すぐに病院へ行きましょう」
真木は車のキーを手に取ったが、櫻はそれを止めた。
「タクシーを呼ぶから、ゆっくり支度して」
咲子の死に動揺していた真木に運転させるわけにはいかなかった。
「七瀬も、行くだろ?」
同じくショックを隠せないでいる七瀬はぎこちない仕草で頷く。
「史緒はどうした。一条?」
「部屋から出てこない。僕も残るよ」
「勝手にしろ」
咲子は数多くの人間を騙していた。その筆頭は史緒だ。
咲子の明るい声や仕草。やさしい慰めや励まし、どんなときも笑顔で迎えてくれる。そんな都合の良い母親を疑わない妹は本当にどこか足りないのではないかと思う。
きっともう、史緒は咲子の苦しみを知ることはない。
咲子の願いどおりに。
タクシーの車窓に月が浮かぶ。
亨のことを思い出した。
幼い日、夜、庭に出て月を見上げていた、その後ろ姿。
振り返る同じ顔。
(…いるよな)
未だ、確かな予感が胸にある。
咲子の訃報を聞いて、どこかで、この空を見上げているだろうか。
きっとこの月を見て、咲子のことを悼んでいるだろう。
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